僕は猫に名前をつけない
僕は猫に名前をつけない。
猫自体は、嫌いじゃないし、見ていて可愛いと思う。ネットやテレビで猫の写真や動画を見ると顔が綻ぶくらいには、まあ好きなんだと思う。
でも僕はペットを飼いたい気持ちは殆どない。
だって、一つの命を一生面倒みるなんて、僕に出来るわけがないじゃないか。
「見て、この子可愛いー」
ペットショップの前を通り過ぎようとした時、妹が無邪気な声を上げた。
僕自身は動物は嫌いじゃなくても、ペットショップは嫌いだったから、早く目的地に行きたかった。
愛玩用として売買される動物達を見ると、なんというか、居たたまれなくなる。意味もなく謝りたくなる。
そして無邪気に可愛いと思考停止出来る妹が情けなく感じて、でもそれは結局ここにいる動物達を見ようともしない自分の臆病さを棚に上げての八つ当たりに近い感情でしかないことを僕は自覚している。妹にとっては理不尽でしかない怒りにも似た感情をぶつけたくなかった。
「ほら、行こう」
一匹の猫と目が合う。血統書付きの、0が5つもあるような立派なはずの猫は、僕や妹や通りすがりの人間の視線を遮るすべを知らずに、怯えているように見えた。
「お兄ちゃんはにゃんこキライなの?」
妹はいつも無邪気だった。今日も同じく。
「わたし、にゃんこ飼いたい」
「母さんに頼んでみたら?」
「頼んだよ。お兄ちゃんが嫌がらなければいいって」
母さんはペットを忌避したりはしていない。むしろ僕を動物嫌いだと勘違いしてる節がある。
動物園が嫌いでお涙頂戴ものの動物の番組が嫌いな僕だから、そう勘違いされても仕方ないんだけど。
「僕は嫌だよ」
妹はあからさまに落胆した。妹はまだ小さいから、ペットと愛玩動物と家族の違いが理解できていないのだ。僕も理解できていないけれど、だけど違いがあることはわかってるつもりだ。だから言った。
「ペットは嫌いなんだ」
動物は好きなんだけどね。その言葉は妹は理解出来ないだろうから、黙って飲み込んだ。
どうして僕にこんなペットや愛玩動物に対する忌避感が生まれたかはわからない。きっかけらしいきっかけはなかった。
それは道徳の授業で年に何万と猫が毒ガスで殺されているという映像を見たせいかもしれないし、文明の発達によって何千何万の種が絶滅したと聞かされたからかもしれないし、或いはそういった『人間は悪』という刷り込みを学校で社会で延々と続けてこられたせいかもしれない。
ただ言えるのは、僕に見せるなと言う拒絶を誰も聞いてくれなかったことが、一番僕には辛かったということだ。
助けられない動物たちが延々と殺されているのを知っても僕は助けられない。
猫が毒ガスで殺されていることを知っても、僕にはその中の一匹も助けられない。或いは両親に頼めば一匹か二匹は引き取れたかもしれないけど、とてもそんなことでは間に合わないし、何万の中の一匹を僕はどんな基準で選べばいい?
僕は何も助けられないから、動物を飼う資格なんてない。
だから、僕に見せるな。
お前は無力なのだと見せつけるな。
何も出来ない、しようとすら出来ない自分の臆病さが憎かった。
なぁ、頼むよ。お願いだから僕の知らないところで死んでくれ。
知っても助けられないなら、知っても知らなくても助けられないなら、それでも知ったら、見てしまえば罪悪感を抱くのだから。
だから知らないところで生きてくれ。頼むよ。
「お兄ちゃん」
なのに妹は、見つけてしまうのだ。
いや、僕も気付いていたけど、意図的に無視していた。
道路の傍に車かバイクに跳ねられた子猫が、死に絶えようとしていた。
「お兄ちゃん、助けてよ」
妹は涙声で訴える。それでも僕は助けられない。助けてはいけない。
「なあ、お前は死にかけの猫が日本でどれくらいいると思う?」
「全部助けるのか? 無理だよ。じゃあ見捨てるしかないだろう?」
「助ける助けないのラインは決めなきゃいけない。じゃないと、全部を助けないといけなくなるんだ」
「僕には無理だよ。そんなの、無理なんだよ」
「でも」
妹は、涙声で、それでも毅然と。
「わたし、見つけたんだもん」
「目の前で死にそうになってるんだもん」
「助けたら、助かるかもしれない命が、目の前にあるのに」
――そんなの、嫌だよ。
それだけ言って、妹は血まみれの汚い子猫を抱えようとして――
「――お兄ちゃん」
でも僕が、先に抱えた。
「お前は家に帰って、母さんにお金持ってきてもらえ」
「僕の足の方が速いから」
それに、僕はこれでも兄なんだ。
汚れないといけないのは、僕の方だと思った。
「ありがとう」
妹は足早に家に向かった。
僕は自分の服で子猫を包み、動物病院まで走った。
「ねぇ、この子わたしが名前決めていい?」
妹は無邪気に、怪我が快復しつつある子猫の喉を触っている。
僕はどんな顔をしたのかはわからない。だけど母さんが、
「二人で考えなさい」
と言うから、僕も一緒になって考えないといけなくなった。
「少しずつでいいんだよ」
母さんの言葉は、優しかった。
僕は自分に関係ない、生きているか死んでいるかも知らない猫に名前をつけない。
今はこの猫でいっぱいいっぱいだから、目の前に来てもつけるつもりはない。
だからせめて、いい名前に出会えるように、僕は祈る。
いつか沢山の名前がつけられるようになる日まで、僕がもっと大人になるように。