クジラ娘と夏の海
「小説幻怪伝」の世界観をふたたび。
冥界帝国の影がちらつく中、幻翁の指令のもと幻怪戦士たちは一路北へ。
さあ、彼らと共に北国の夏を満喫しましょう。
―熊野灘―
ささくれた白い波頭が次々に生まれ出で、そそり立っては海面を強く打ちつける。
うねり狂う波に揉まれ雨に打たれ、木の葉のごとく揺れる軍船の甲板の上を怒号が行き交う。
「面舵、面舵いっぱいっ」
「了解っ。傾くぞ、みんな掴まれっ」
叩きつけるように左右から浴びせられる波飛沫。
舳先には両脚を広げ微動だにしない男が前方を指差す。
「回り込むよう鴎楽の船に指示せい」
「はいっ、雲仙さま」
海面近くで巨大生物が身体をくねらせている。その身体のあちこちに矢が突き刺さっている。
「かなり弱ってる。網だっ」
二隻の軍船は大網を投じた。
「妖力封じ網だ。伝説の化けクジラも年貢の納め時」
ぐいと船体が傾く。網に掛かったに違いない。
「今だ。撃てっ」
大きな銛が装填された捕鯨砲が火を噴いた。反動で船が傾く。
「ひっ」
船員たちが甲板上でゴロゴロ転がる。
「役立たずめっ、海に落ちるなよっ」
船長・雲仙は腰を下ろして踏んばりつつ、赤く染まる荒海を見下ろす。
「やったぞっ。引き上げだ、縄を巻き上げろ」
船員たちが取っ手を回し、銛から伸びる太い縄をギリギリと引っ張る。
「さあ姿を表せ。化けクジラめ」
急に、歯車が空回りした。海に引き込もうとする力が途絶え、船は弾かれたように揺れる。
「どうなってるっ」
「縄が切れました…あまりの重さに耐えかねて」
化けクジラは腹に大きな銛を突き立てたまま、赤黒い血の軌跡を残し海中深く消えた。
「海底までは追えぬ、か」
「雲仙さま…」
「まあよい。鳥羽藩から受けた仕事はこなした」
「はい、クジラ漁を脅かす化けクジラの討伐、確かに」
「クジラの鯨油はカネになる。今回も鳥羽藩からの報酬は莫大。網に付着した肉片を証拠の品として持ち帰れ」
もののけ狩りとして知られる尾張柳生・池鯉鮒衆の軍船は、依然うねる波をかき分けるように志摩の港へと帰路についた。
―常磐灘、東方沖―
「揺れがひどいな、この船…いや潜水艇。ああ、こぼれちまう、せっかく作った即席蕎麦が」
「ちょ、ちょっと蝦夷さん。それ、あっしの保存食ですって、勝手に食べちゃダメです」
「湯を注ぐだけで出来上がるってのはすげえな。さすが天才、煤」
「作ったのはあっしじゃなく、どん兵衛って男です。確かにスゴイ発明だ」
「そんな素晴らしい発明品見せびらかして自慢されたら食いたくなるのが人情」
「人情ってあんた、幻怪の種族でしょ。ニンゲンじゃあない」
「ああ。またこぼれた…」
揺れる船内、もう一人の男も声を上げた。
「アチっ、湯がかかったぞっ。火傷しちまうじゃねえか煤、揺らさんように操縦しろっての」
「ちっ、雅さんまで」
「俺もご相伴にあずかろうと思ってな…ああ蝦夷の、唐辛子入れ過ぎだ。俺は二辛って言ってあったじゃねえか」
やり取りを眺めているのは、長い髪を結い上げた振袖姿。
「無駄話はいいけど、ちゃんと方角あってんの?」
「あっしの仕事に間違いはござんせんよ、悦花どの。船首潜望鏡室にいる裕さんも航路確認してくれてます」
花魁の悦花、一刀彫の雅、蝦夷守龍鬼、からくりの裕。光の波動を操る種族「幻怪」の四名に加えて河童族の煤。
彼らは長老・幻翁の命を受け、現世侵略を目論む冥界からやって来る妖怪軍団に立ち向かう戦士。
彼らは潜水艇「河童丸」に乗り込み、北国・八戸藩を目指していた。
「今回は遠い道のり…いや水のりだな。岐阜から長良川を下って伊勢湾、遠州灘さらに東回り航路。出発してもう丸一日が経つ」
ボヤく蝦夷守。煤が口を尖らせる。
「毎度文句ばっかりだ…いいですか、岐阜から八戸まで歩いたら十日もかかるんです。それが一日で到着できるんだから、むしろ感謝してもらわねえと…」
「わかってるって煤。そうだな、八戸に着いたら上手いメシおごってやる。八食屋っていう市場みたいなデカい店に連れてってやる」
「おっ。それ訊いて元気が出ました。ようし全速全身っ、行け河童丸っ」
「ちょっと変だぞ」
艦橋に戻った裕が首をひねる。
「何か航路に問題でも?」
「方角は問題ない。外の様子がおかしいんだ。何かがこの船に…」
その瞬間、煤の顔色が変わった。
「ん、あ。あれっ」
額に冷や汗を滲ませる。
「おかしい、舵が利かない…ああっ。沈んでる」
「バカな」
「何かが船を海底に引きずり込もうとしてる」
一同は慌てて丸窓から海中を覗き込んだ。
「ううむ。よく見えん」
かなり深くを潜行しているため、届く日光も少ない。
「やむを得ない、ともかく全速浮上っ」
煤が声を上げた。
「皆さん配置について下さいっ。大至急です、非常事態っ」
「せっかくの蕎麦が伸びちまう…が、仕方ねえな」
出来上がったばっかりの即席蕎麦を恨めしそうに眺める蝦夷守。
「ちっ、少しは働けってんだ」
裕は舌打ちしながら気蓄機の弁を開きにかかった。ツリムタンクに向かって走ったのは雅。蝦夷守は急かされるように後方機関室へ走り石炭の補充。
ぐっと腹を押しつけられるような感覚を伴って鼻先を持ち上げた船体は一気に海面まで浮上。
「見ろっ」
丸窓の外、船体に絡みつくような白いヌルヌルした細長い触手が何本も見える。
「たいしたお出迎えだな」
煤が本棚から取り出した冊子の頁をパラパラめくって叫んだ。
「シラミユウレン!」
「なんだ煤。いきなり呪文なんか唱えやがって」
「呪文じゃないですって。ほら、人外図録にちゃんと載ってる。シラミユウレンって海の妖怪です。主な生息地は土佐近海。形はイカに類似、生態は不明」
「イカに似てる、か。じゃあ食ったら美味いのかも」
「生け捕りにして料理でも…」
「チッ、お前らな」
雅がハッチを開けるよう煤に仕草した。
「いつまでもお喋りしてんじゃねえよ。そのシラ…なんとかってやつを退治せにゃ船が沈んじまう」
「はいはい」
「ハイは一回な」
早速甲板へ。
「こりゃひでえ」
粘液に覆われた光沢のある白い触手が紐のように伸び、その無数の吸盤が河童丸船体のあちこちに絡みつくように付着している。
「前言撤回。食う気にゃなれんな…とりあえず追っ払おう」
それぞれの武器―悦花は延べ煙管、雅は愛刀・崇虎、蝦夷守はコルト・ドラグーン改、裕は特製の弓矢―で次々とシラミユウレンの触手を断ち切った。
にわかに海面が小刻みに波立つ。
「来るぞ、触手を切られてお怒りだ。全速前進っ」
「みんな柵にしっかり掴まって」
煙突から濛々と煙を吐き上げて河童丸は急速前進。シラミユウレンを引き離しにかかる。
「もういい頃合いだ」
「合点っ」
煤が操作室の足元にある赤い取っ手をぐいと引っ張ると、後方射出口の蓋が空いて機雷をばら撒いた。さらに船は速度を上げる。
「耳を塞いで…」
ほどなく爆発音が次々に連なって轟いた。
「やったか…」
「やったな」
海は驚くほど静かになった。
「しかし土佐の妖怪がこんなところに?」
「翁の言う通り、異変が起きてるな。今じゃあちこちで妖怪たちが妙な暴れ方をしてる」
悦花が深くため息をついた。
「先が思いやられるね。こんなキモい妖怪相手にしながら辺鄙なとこまで行かなきゃならない、なんて」
「辺鄙ってなんだ、その言いぐさ」
かつて八戸に住んでいたという蝦夷守が食ってかかる。
「いいとこだぞ。なんたって夏は涼しい。なあに今回の任務はチョロいもんさ。納涼気分、避暑の旅といこうじゃないの」
雅が頷く。
「納涼、確かにな。任務って言ったって、要は鮫村に住む娘が持ってる石を確かめりゃいいんだろ。不思議な力を持つと噂される石を」
迫り来る冥界の脅威に対し、幻翁は切り札とも言える秘宝「願いの破片」の探索を幻怪衆に命じていた。
「娘が持つ石が『願いの破片』の一つかどうか確認しさえすればいい。楽勝よ」
「しかし『鮫村』って地名…蝦夷さん。もしかして海はサメだらけとか」
怯える煤。深刻な表情で答える蝦夷守。
「ああそうだ。やせた河童なんてあっという間に…なんて、今じゃ滅多にいねえよサメなんて。昔はよく出没したとも言うがな。地形が鮫のヒレに似てるから名付けられたって説もある。地名はともかくいい港町だ」
「料理は美味いし」
「夏は涼しいし」
「景色はキレイ」
「港の娘も皆キレイ」
河童丸は再び潜行し、青く穏やかな夏の海をひたすら北上した。
―八戸沿岸―
「おっ、見えてきた」
浮上した河童丸のハッチを開けて外に出た一行。
「賑わってるな」
港に身を寄せるたくさんの漁船、行き交う人々。競りのやり取りの独特な声が風に乗って沖まで聞こえてくる。
「ん、まさか雨…?」
爽やかな夏空に一点の雲もとどめないはずなのに。
裕は空を仰いだ。
「おっ、すごい。何羽いるか数える気にもならないな」
空を埋め尽くすほどの海鳥が右へ左へ、忙しそうに飛び交っている。
「港は大漁ってことか。これだけカモメが多いってことは」
「いや違うな」
蝦夷守がニヤニヤしながらサッと傘を広げた。
「大漁には違いないが、あの海鳥はカモメじゃない。ウミネコだよ。嘴の先がちょっと赤いだろ。尾羽には黒い帯」
「そりゃそうと蝦夷の。どうして傘なんか差してるんだ。こんなに晴天なのに…あっ」
裕は慌てて頭や肩に付着した雫を忌々しそうに拭った。
「雨じゃねえっ、こりゃウミネコの…」
「幸先いい。『ウンが付く』って言って地元の連中は有難がって浴びるくらいだ。見えるだろあの島」
蝦夷守の指さす先には港に寄り添うように小さな島が見える。
「蕪島、ウミネコの一大繁殖地だ。ちょうど今頃ヒナが巣立つ。島のてっぺんにある弁天様が町をずっと見守ってるのさ」
河童丸を岩陰に寄せ、人の集まる市場へ。
ズラリと並んだ海産物に目が輝く。
「涎が出そうだ。イワシにイカ、カレイにアブラメ。立派なバフンウニ」
「また食い気かい、そういうのは後回し。まずやることやりましょ。石さえ探せば任務完了なんだ」
悦花に袖を引かれるように地元の漁師たちに尋ねて回る。
「ええと、不思議な石を持ってる娘がいるって…」
探し物は思ったよりすぐ見つかった。
「ああ知ってる。クジラ娘が持ってる」
「クジラ娘?」
「そう、サキって女の子だ。巫女みたいなもんさ。あの娘のおかげで俺たち漁師は生きていける」
鮫村の人々は皆知っていた。
毎年この時期、サキは不思議な力で近海に大クジラを呼び寄せる。「鮫浦太朗」と名付けられたその大クジラが引き連れてくるイワシの群れが漁師たちを潤していると云う。
「クジラ娘が呼び寄せるクジラ神。詳しいことは吉蔵じいさんが知ってるよ、孤児のサキを拾って育てたんだからな。この街道を西へ真っ直ぐ…」
言われるがままに一行は吉蔵の家へ。
「こりゃ美しい」
目の前に広がる一面芝生の海岸線。真っ青な空の下、新緑を陽光がキラキラと輝かせている。
「言っただろ、八戸はいいところだって」
磯の香りの空気を胸いっぱい吸い込んで大きく伸びをした蝦夷守。
「古いエゾの民はここを『長い岬』を意味する『タンネ・エサシ』って呼んだ。んでもって『種差海岸』って名前になった。いい風だ。まさしく納涼だ」
岬の灯明台の横に立つ古びた小屋が吉蔵の住み家。
長く伸びた髭を風に揺らしながら出てきた老漁師・吉蔵は悦花の問いに頷いた。
「ああ確かにサキはクジラ神の巫女。小舟に乗せられ一人この岬に流れ着いた時、あの子は生まれて間もない赤子だった」
吉蔵の話によれば、その時すでに十八個の光る石を手に握りしめていたと云う。
物心ついてからサキは毎年、大クジラがイワシを引き連れてやってくる場所と時間を言い当てた。
年々貧しくなっていった鮫村はイワシ漁で繁栄を取り戻し、大クジラは「鮫浦太朗」と名付けられ、サキはクジラ神の巫女に違いないと囁かれるようになったらしい。
「サキって娘は一体?」
「あの娘の両親は大クジラを助けて命を落としたそうな。鯨油目当ての密漁団から助けた際に。小船に取り残されたサキをその大クジラがここへ運んできた」
「クジラの恩返し、か? だが生まれたての時分の記憶なんて信じられねえな」
「サキは毎晩その夢を見るらしい。大クジラは人間の言葉を理解しるだけでなく命を救われたお礼に毎年この季節、イワシを引き連れてやってくる。そしてサキに『神の石』を渡す」
「神の石?」
「わしも見たことは無い。だが不思議な力を持つらしい」
悦花は吉蔵に切り出した。
「実は私たち、幻怪衆といって長老・幻翁の指令の下で…」
「は?」
口をポカンと開けた吉蔵。
「幻怪って。あんたら大人にもなってガキみたいな御伽話とは。頭は大丈夫か?」
「いや、本当に…それで石を確認しに。ぜひサキちゃんに会わせて…」
吉蔵は鼻で笑う。
「暑さで頭がいかれちまったか。神の石はわしでさえ見たことが無い。それにサキは近頃様子がおかしくて社にこもりっきりだから無理じゃ。夢見る楽しい大人も悪くないが、諦めるこったな」
頭を抱える幻怪衆。
「参ったな…」
「サキは相当苦しんでる様子だし、あんたらみたいな風変わりな奴らにゃとても会わせられん」
裕がパチンと指を鳴らした。
「ちょっと、じいさん。これを」
懐から膏薬を取り出した。幻翁が調合した薬草が配合され波動の力でうっすらと光っている。
続いて裕が短刀で自分の腕を切り裂き、そこに膏薬を塗るとみるみる傷が塞がって治癒するのを見て吉蔵は顔色を変えた。
「なんと…」
「信じてくれたかい?」
吉蔵は目をまん丸にして裕の腕を眺め、さすっている。
「あんたら一体…」
「言ったろ? 幻怪だって。膏薬だけじゃなく煎じた薬草もある。サキって子の様子がおかしいんならこの薬で…」
「わかった、あの娘を助けてやってくれ」
一行は岬にある社へ向かった。
「おおい、サキちゃん。おおい」
「……」
扉も窓も締め切られている。
「おおい、サキちゃんってば」
「……」
幾ら呼んでも返事が無い。
「よほど体調が悪いのか?」
「聞こえてるのにわざと無視してるんだ、こりゃ」
「年頃の娘がこうなったら手に負えない…」
座り込もうとする裕。
「気が変わるまで待つとするか」
「いやいや」
小さな金具を取り出した蝦夷守。
「女性のお部屋に忍び込むのは気が進まねえが…やむ無く人助けってことで」
鍵をこじ開けて中へ入っていった。
「おおい、サキちゃあん」
思わぬ侵入者の来訪に悲鳴が上がった。
「ひいっ、誰っ。きゃあっ」
暗がりで座りこむ娘は震えながら後ずさり。
「来ないでっ」
薄明りに照らされたその娘を見て、むしろ蝦夷守の方が驚いた顔をした。
「あっ」
怯えて震える少女に、蝦夷守はゆっくりと近づいた。
「怖がらなくていい。俺は…」
蝦夷守は自らの頭に巻いていた鉢巻を外してサキに見せた。
「ほら、一緒だ」
サキが頭に巻いていた鉢巻と同じ幾何学模様。
「マタンプシって言うんだ、この模様。同じ祖先を持つ仲間ってことだ、サキちゃんと俺は」
サキの顔が少し緩んだ。
「えっ、おじちゃん誰なの? 先祖が同じってことは…もしかしてあたしの父さんや母さんのことを」
「いや、残念だがそれは知らない…あと『おじちゃん』でなくせめてお兄ちゃんと…」
蝦夷守はサキの隣に腰かけた。
「サキちゃんもご両親も俺と同じ、エゾの民だ。見てみな」
サキが首に巻いている装身具につけられた銀貨は、蝦夷守が髪の先に結わえ付けているのと同じもの。
「レクトゥンペだ。北方民族エゾの証だよ。お前さんの父さんと母さんはクジラ神の守り人だったってわけだ」
「守り人?」
「古来クジラは海の主。人間が後からやってきて海を荒らしクジラを食い物にした。当然クジラたちは怒ったが、間を取り持ったのがエゾの『守り人』たち。クジラを海の恵みとする一方、クジラたちを外敵から守り保護してきたんだ」
「あたしに守り人の血が…」
「だからサキちゃんはクジラ神と通じてるのさ。クジラたちが何処にいて何を考えてるか判るだろ」
サキはゆっくり頷き、すぐに涙目になった。
「そうなの。判る…今、フンペが大変なの。フンペが死んじゃう」
「フンペ?」
首を傾げる蝦夷守。社に入ってきた吉蔵が説明した。
「フンペはクジラ神の名前じゃ。わしらが『鮫浦太郎』と呼ぶクジラ神をサキはそう呼んでおる」
「そのフンペ…鮫浦太朗の身に何かが?」
サキは顔を伏せて泣いている。
「何があったかは判らない。フンペからの声も途絶えたし、何処にいるのかも判らなくなっちゃった。でも感じる。フンペの痛みと苦しみを」
悦花がサキの背中をさする。
「すごい熱だ…フンペの身に降りかかったことがこの子にも」
サキはうずくまってしまった。
「胸が、お腹が痛い…焼けるように」
裕は井戸に走って水を汲み、薬草を煎じて飲ませた。
「本体のフンペの痛みが消えない限りは無駄かも知れぬが…」
「ところで…」
蝦夷守が吉蔵に問う。
「例の石はどこだい?」
サキがキッと睨んだ。
「やっぱり…あなたたちも石が狙いなのね」
図星。
「いや違うんだ。狙ってるっていうか、その、石を守ってあげなきゃ…」
「あ、疑ってごめんなさい…石を狙う人が最近多くって」
噂を聞きつけた有象無象の輩が「神の石」を欲しがっていると云う。
「そこにあるわ、箱に入ってる」
蝦夷守は雅、煤とともに石が入った鉛箱を開けた。
「こ、これ、か…?」
「わたしが最初に手にしてた十八個。フンペが毎年運んでくる石が十四年分、あわせて三十二個」
冷気を伴いうっすら光る小石たち。
だが願いの破片特有のずっしりと腹に響く重力波は感じられない。
「石が三十三個揃うと一塊になる。それを海に戻すことで、海にたくさんの命が育まれる。フンペはそう言ってる」
「命を生み出す石、か」
「ええ。今年で全部揃う。そして役目を無事に果たしたフンペは永遠の命を得るの。誰も潜れないほどの深い海底で平穏に暮らす本当の海の神になる」
「なるほど。つまり」
蝦夷守はため息をついた。
「これは俺たちが探してる石じゃねえ」
煤が手書きの帳面をパラパラとめくって指差した。
「志摩近海の深い海底に眠る『燃える氷』の一種です」
「氷?」
「正確には氷じゃないんですが、ものすごい勢いで燃える物質で採掘も難しい。でもこの石が潜在的に持ってる力はかなりのもんで、あっしの潜水艇に使ってる石炭なんかメじゃない」
「じゃあ石を狙ってやってくる連中ってのは一山当てようって商売人か」
「そう…しかしサキちゃんの言う、石が命を生み出すってのはどうもマユツバくさい」
雅が口を挟んだ。
「そうとも言い切れんぞ」
「あら、超のつく現実主義者の雅にしちゃ珍しい言い草」
「翁が言ってた。志摩の海域深くには生命的な強い波動が沸き上がってるって。近くにあるお伊勢さんの霊力ってのもそれに関連があるだろう、と」
「ふむ、そりゃ興味深いが…この石はどっちみち俺たちには関係ねえってわけだ」
「そういうことになる」
波動薬のおかげかサキの顔色はずいぶん良くなった。しかし表情は悲しげなまま。
「フンペが死んじゃうよ、海の底で…」
「確かに気の毒なこったが、俺たちにゃどうしてやることも…」
「場所さえ判らないとなれば助けるにしても何処に向かったらいいのやら」
「河童丸といえど潜れる深さには限りがあります、深い海域なら手遅れ…」
悦花がサキの隣に腰掛けた。
「生き物には…クジラにだって運命ってのがある。悲しいのは解るが少しは前向きに考えなよ」
波打つようにそよぐ種差の芝生に座り、その向こうに宝石のような美しく深い青を湛えた海と飛び交うウミネコたちを眺める。暑く熱せられた夏の空気を一掃しながら、海からの涼やかな風が駆け抜ける。
「あたしも両親を知らない。顔さえも。そして次から次に大事なひとを失ってきた…」
「えっ…」
悦花は頷いた。
「両親はあたしを生んですぐ妖怪に殺され、育ての親も…ちょうど今のサキちゃんと同じ年頃、あたしの目の前で」
「そうなんだ…」
「いいかい、どんな状況でも常に希望ってやつだけは確かに存在するんだよ。塞ぎこんでるうちはそれさえ見えなくなっちまう。泣いていようが怒っていようが未来は間違いなくやって来る。どう足掻いても逃げられはしないんだから、自分の足で前を向いて歩くしかないんだよ」
「前を向いて…」
「そうさ。あたしもそう幻翁に教えられて、無理やり前を向いた。そしたら希望が少しずつ見えてきた。自分の居場所、使命ってやつが、誰にでも必ずある。それは降ってくるものじゃなくて自分で掴みに行くものなんだって気付いた」
「使命を、掴みに行く…」
顔を上げたサキの目に、もう涙は無かった。
「そうだ」
蝦夷守がパチンと手を叩いた。
「ちょうどいい時期だ」
「は?」
雅が怪訝そうに言う。
「大事なこと言ってる最中だってのに、また話の腰を折りやがって。何が『いい時期』だっての」
「いい時期なんだよ今。元気を出すには最高の時期」
「元気?」
「祭りだよ祭り。法霊社のお祭りだ。近頃は長者山の新羅のお宮と神明宮も一緒になって三社大祭って言うくらいだからたいそう賑やかな夏祭りだぞ。サキちゃんも祭りを見て騒いで美味いもの食って元気だそうじゃねえの」
雅、そして裕と煤も頷いた。
「なるほど…そりゃ『いい時期』だ」
悦花はニッコリと笑った。
「蝦夷の、たまにはいい事言うじゃない。確かに祭りにゃ悪しきことを洗い流し前を向かせる力がある。それに、もしフンペの痛みがサキちゃんに届いてるんなら、逆にサキちゃんが元気になればそれがフンペにも伝わるだろ」
「そ、そうですね…」
サキの顔に少し、微笑みが戻った。
「なら決まりだ。今日は『お通り』、豪華絢爛な山車が町を練り歩いてたくさんの屋台が出てるぞ、さあ、善は急げ」
―八戸・市街地―
「やーれ。あ、やーれ。あ、やーれやーれ」
ドンドンと腹に響く大太鼓、軽快にこぶしを回す笛の音。
「やーれやーれ。よいさーのせー」
地域の子供たちが精一杯掛け声を上げながら、見事な飾りつけを施した大きな山車が街道を練り歩く。
北国の短い夏を彩る美しくも華やかな祭り。
笑顔を取り戻したサキのもとへお椀を手にした蝦夷守。
「ようし買ってきてやった、せんべい汁。瓦版で取り上げられてから行列が出来るようになっちまった」
続いて雅。
「さあ、美味そうだからまんじゅう買って来た。鶴子まんじゅうって云うやつらしい」
裕も両手いっぱいに袋を抱えて。
「みろく横丁ってとこに色々あったぞ。ほら、サザエのつぼ焼きに焼きイカ」
煤もお椀を手に戻ってきたが、やや腑に落ちない様子。
「いちご煮、っていうからどんな食い物かと思ったら…苺なんか入っちゃいねえんだな」
「バカだな、苺の入った汁物なんかマズくて食えるかっての」
悦花は紅色の可愛らしい簪をサキに手渡した。
「三春屋呉服店ってとこ行ったら売ってたんだ。おサキちゃんに似合うと思って」
「ありがとう。みんな…」
サキの顔が笑顔に照らされ赤らむのを見て、幻怪衆の頬も緩む。
「さあ見て、次々に山車がやってくる。すごいだろう」
まるで小山のような大きな山車が町を練り歩く。道幅に合わせて開閉する機構がついたものもある。町ごとに様々な題材を趣向を凝らした飾りつけで演出している。
「こいつは毘沙門天だ。さっきの牛若丸と弁慶のやつより華やかだな。次はええと、花さか爺さんだな。その後ろは源平合戦」
山車の上には張りぼての人形が立ち並び、有名な童話や歴史のワンシーンを描き出している。華麗で力強い祭囃子と相まって、まるで移動する舞台。
「いやあ、大したもんだ。こりゃ凄い」
「陸奥の國と言ったら有名なのは『ねぶた』だが、負けてねえな」
「吉蔵じいさんも来りゃよかったのに」
「年寄りにゃこの人混みは酷ってもんだ。吉っつさんの分まで俺たちでしっかり楽しもうじゃねえか」
地の美味に舌鼓を鳴らしながら「お通り」を眺める彼らに祭りの華やかさを見せつけるのは山車だけではない。
「一糸乱れぬ、とはこの様」
ずらりと並んだ獅子頭。ぴったりシンクロした動きで頭を上下左右に振ったと思えば揃って金色の歯をカチカチと打ち鳴らす「一斉歯打ち」も清々しい法霊神楽。
「この辺じゃ最も古い『おがみ社』の山伏たちだ、さすがだね。ほうらお次は」
一見質素、しかし上質な白衣に緋袴を揺蕩わせて踊る巫女たちの行列に目を奪われる。
「あの子が一番かな」
「いや、その二人後ろにいる子の方が好み…」
舌打ちする悦花は呆れ顔。
「男ってヤツは」
後に続いて一段と大きな山車。
「ほう、桃太郎だな。こいつは凄い。今年の優勝はこの山車に違いねえ。まるで本物みたいによく出来てやがる、このオニたちの張りぼて。ほら」
呆気にとられるサキ。
「まるで生きてるみたい…あれ、ホントに生きてるよ。今、こっちを見た」
「バカなこと言ってるんじゃないよサキちゃん。本物のオニがこんな大人しく山車に乗っかってるかっての」
笑い飛ばす幻怪衆たち。
続いてやってきたのは黄色い虎の着ぐるみたち。
「虎舞だ。これも迫真の演技だな。ホンモノの虎を連れてきたって言っても信じるな、こりゃ」
「怖いよ…」
少しおびえるサキを蝦夷守がなだめる。
「あはは、しかしこいつは縁起物。昔っから云うんだ、この虎舞に頭を噛まれると無病息災が叶うってね。ほら、頭出してごらん」
恐る恐る頭を差し出すサキに、虎舞はぴょんぴょんと跳ねながら近づいた。間近で見るとますます大きい。血走った眼でサキをぐっと睨み、牙を剥いて口を開いた。
「あっ」
サキの顔面が蒼白に。
「ホンモノだ」
すぐさま雅が立ち上がった。
「ぬっ」
同時に鞘から音もなく抜かれた愛刀・崇虎が舐め上げるような切っ先の軌跡を描き出し、瞬時に虎の首が切って落とされた。
「あわ、あわわっ」
「虎だ、ホンモノの虎だっ」
「まさかっ」
ひくひくと痙攣する虎の首からは生々しく血が流れ出している。
「ぎゃああっ」
祭りに湧く町は騒然となった。慌てて逃げ惑う人々の波がうねる。
「尋常じゃねえぞこりゃ」
裕も立ち上がった。懐の短刀を投げつけた先にはオニの群れ。
「どうりで本物みたいだと思ったんだ」
桃太郎の山車に乗っっていたのはホンモノのオニだった。
「だって、目があたしを見ていたんだもの」
「サキちゃんの言う通りだったな」
大挙して押し寄せるオニたち。蝦夷守のリボルバーが銃口から火を噴いた。脳天を吹き飛ばされたオニがつんのめって倒れる。
「たいした祭りだね」
右往左往する人混みをすり抜けて悦花が走る。
「無粋な連中だよ」
幻鋼の延べ煙管を手首の動きに合わせてギラリと光らせながら悦花はオニの群れの真っ只中へ。
振袖がひらりと波打つたび、脳天を打ち砕かれて倒れたオニの骸が転がる。
「さあ、サキちゃんはこっちへ」
煤が手を引き、路地へと逃げ込んだ。
すっかり人々が逃げ出した町の大通りで入り乱れるオニの大群と幻怪衆。
崇虎刀をぐいと握りしめる雅。
「束になろうが…」
夏の陽を映した刀身が鈍く光り、雅がぐいと腰を下ろし脚を踏んばる度にオニの首が地に落ちる。
「所詮は雑魚」
返り血さえ受けぬほどの素早さ。
「ちょっと借りますよ」
展示されたまま置き去りになった流鏑馬用の弓矢を手にしたのは裕。
「弘法筆を選ばず、と」
速射。流れるような両手の一連の動きは澱むことなく雨あられの矢を撃ち出し、波動を乗せたままオニの身体を貫く。
「いい弓だ」
「一発、二発、三発…」
金棒を振り上げて迫るオニたちを、ぶつぶつと呟く蝦夷守のリボルバーが撃ち倒す。
「四発、五発、六発。はい、ちょっと待ってえ」
くるりと後ろを向いて退散。走り逃げながら弾込め。
「火薬、弾、んでもって取っ手を引いて、雷管詰めて…ああ面倒くせえ。ちょっと待ってろっての。落ち着きねえオニだなあ…はい、完了」
振り向きざまに撃ち出した弾丸は、叫びながら近づくオニの頭ごと吹き飛ばした。
四方から群がるオニに囲まれた悦花。
「まとめて面倒みてあげましょう」
ふう、とため息を漏らすと両手を突き出して深く息を吸い込んだ。
「はあっ」
腹の底から声を上げながら掌から眩い波動の光。ズシンと響く衝撃波を伴ってその場でくるりと一回り。一気にオニの群れを塵に変えた。
「片付いた」
歌と舞い、笑顔と歓声に包まれていた大通りは一転、オニの骸がぷすぷすと黒煙を上げて融解する呻き声と腐敗臭に覆い尽くされた。
「一体どうなってる、なぜオニたちが俺たちを狙ったんだ?」
首をひねる雅と裕。
「こんな小さな港町にまで冥界帝国の手が…俺たちが来るって知ってて狙ったのか」
「いや、違うね」
悦花は首を横に振る。
「祭りに紛れ込むなんて、今日になって出来る仕込みじゃない」
「もうオニは退散しましたかいな?」
路地に身を隠していた煤が恐る恐る姿を現した。
「怖い、怖いよ…」
手を引かれるサキは恐怖に全身を震わせている。
「もしやヤツらはサキちゃんを狙って」
「何のために?」
「例の石が目的だ。ヤツらも俺たち同様『願いの破片』を探してる」
「…てことは」
一行は顔を見合わせた。
「マズい、石は港の社に置いてあるままだ。吉蔵じいさんも危ない」
幻怪衆はサキを連れ、港へ戻る道をひた走った。
―鮫村沿岸―
「こ、これは」
すでに数えきれないほどのオニたちが村を荒らしまわっていた。
「いつの間にこんなに…」
立ち並ぶ猟師小屋や釣り船をことごとく破壊している。さらに海からは続々と妖怪がエラをひくひくさせながら上陸をうかがっている。
「なんてこった…ありゃ波小僧の群れ」
「とりあえず、やるしかねえな」
飛び出した幻怪衆。
「何べんも言うが頭数揃えりゃいいってものじゃねえぞ」
雅の崇虎刀、その切っ先が淡い光を帯びてオニの群れの中をジグザグに一筆書き。
滑らかな跳ね、払いの連続のあと、たおやかな止め、で筆をおさめる頃にはその軌道上に立っているオニは一匹とていなかった。
蝦夷守は手際よく銃弾を装填する。
「でっかい図体ってのはちょうどいい的だな。弾はまだまだある、まるで遊戯だな」
パアンという破裂音、引き続いて甲高い金属音が後を引く。
湿った海風の中、摩擦熱で白煙を残しながら飛んだ弾丸は、グシャッという着弾の音を響かせてオニの頭を砕く。
「なんだ、まるでオモチャで遊ぶガキだな」
拝借したままの流鏑馬の弓で矢を放つのは裕。
次から次、速射の一連の動作は動きを止めぬ水車のように美しい回転運動を続け、迫りくるオニを一掃する。
「しかし…オニは大方葬ったが、敵はまだまだ海からやってくるぞ」
「ちょいと骨が折れそうだ」
サキの叫び声が響き渡った。
「じいちゃん、吉蔵じいちゃあんっ」
視線の先には、座り込んで顔を引き攣らせる吉蔵。その背後にはニヤニヤ笑う黒ずくめの妖怪が大きな鎌を振り上げている。
「お前がクジラ娘か。丁度いい、石の在り処を教えてくれ。このジジイが言ってくれないので困っていた」
悦花が煙管を握り締めながら叫んだ。
「一体何者だっ」
「俺はヌラリヒョン。神の石とやらを貰い受けに来た。だが困ったことにこのジジイは在り処を言わずに死にたいらしい。命を粗末にするのはよろしくない、そう思わんかね」
「ちっ、ゴチャゴチャ喋ってんじゃねえよっ」
悦花が飛びかかろうとすると、ヌラリヒョンは鎌を吉蔵の脳天に当てがった。
「慌てるな女。このジジイが真っ二つに縦裂きになる、そんな可哀想な姿が早く見たいのか?」
「ぐっ」
悦花は歯軋りしながら足を止めた。
ヌラリヒョンは涼し気な顔で薄ら笑い。
「石を渡せばジジイは解放する。拷問して訊き出してもいいのだが、そんな野暮は好まん」
サキが大声を上げた。
「うん、教える。教えるから、じいちゃんを放して。石は、あの…」
慌てて悦花がその口を塞いだ。
「騙されちゃダメっ。教えたらすぐに殺されるに決まってる。あたしが何とかするから」
ヌラリヒョンはサキをじっと見つめながら声を掛ける。
「いや、騙してるのはその女。なあクジラ娘、大人を信じるんだ。石をくれればジジイもお前も助けてやる。さあ何処だ、どこにあるんだ石は」
サキの唇が震えた。
「お、お社の…」
「わかった」
ヌラリヒョンが鎌を持つ手にぐいと力を込めた。
「はあっ」
その瞬間、眩い光が悦花の突き出した掌から発せられた。鎌が吉蔵の脳天に触れる寸前、飛び出した光の球がヌラリヒョンを直撃した。
「ぐうっ」
素早く駆け込んだ悦花は吉蔵を抱きかかえる。
「大丈夫ですかっ」
「はい。しかし…」
巻き上がった海岸の砂を手でかき分けるように、ヌラリヒョンが立ち上がって迫ってくる。
「やるじゃねえか女。今度はこちらが尋ねる。一体何者だ、お前」
「幻怪、だ。花魁の悦花だよ」
フッと鼻を鳴らしたヌラリヒョン。
「ほう。幻怪の生き残りがまだいたとは…だが、ホンモノか? 俺が知ってる幻怪はそんな軟弱ではないぞ」
ヌラリヒョンは鎌を振りかざして襲い掛かってきた。悦花は吉蔵を抱きかかえたまま飛び退いて逃げる。
「ジジイをかばったままでいつまで耐えられるかな」
「きゃああっ」
再びサキの悲鳴がこだました。煤が波小僧に気を取られている間に黒づくめの河童にサキを拉致されてしまった。
ヌラリヒョンが高笑いする。
「いいぞワンバ。その女は何やら特別な力を持ってるらしい、連行せよ」
「承知」
黒河童がサキを抱えて海へ。
「てめえっ」
煤が走る。
「サキちゃんを返せっ」
しかし黒河童は鍛え上げられた足でぐいぐい遠ざかり、海の中へサキを連れ去る。
「ええいっ」
煤が菅笠を思いっきり投じた。勢いよく回転しながら海風に乗り黒河童の脚を直撃。
「ぐはっ」
もんどりうって海中に倒れ込んだ黒河童。サキはその隙に逃げる。
黒河童・ワンバは煤を睨み付ける
「てめえ。河童のくせに人間の味方なんかしやがって…八つ裂きにしてやる」
「やれるもんならやってみろ」
岸へ戻ろうと逃げるサキ。
「助けてえっ」
しかし、海中から現れた妖怪が再びサキを軽々と持ち上げた。
「いひひ、もう戻れませんよ。岸には」
ジタバタするサキを抱え上げて悠然と海面の上を歩くその妖怪は海座頭。三陸沖にしばしば出現し海難を引き起こすと云われる海のモノノケ。
「しまったっ」
気付いた幻怪衆が海へと馳せ参じる。
「待ってろ、サキちゃん…しかし波がっ」
次第に波が高くなり、腰まで海に浸かっては思うように足が進まない。一方、海座頭はそれをあざ笑うかのようにスイスイ海面を歩き、サキを沖へ連れ去ってゆく。
「おまけに、このサカナの化け物と来たら…」
無数に襲いかかる波小僧は小兵だが鋭い歯を剥き、集団で幻怪衆の動きを封じる。
「多勢に無勢、かっ」
見渡す海のあちこちから続々と波小僧が顔を出しては背びれをヒクヒクさせて勢いよく迫ってくる。
「ぐうっ」
悦花はヌラリヒョンに一方的に押されている。吉蔵をかばいながらでは明らかに不利。
「ああっ」
またしても鎌の刃が悦花の裾を切り裂いた。太腿を切られて血が垂れ落ちる。
面白がっているように笑顔で声を高ぶらせるヌラリヒョン。
「うひひ、また傷が増えたな。そんな綺麗な肌に傷をつけるなんて無粋な趣味は無いんだがね」
「調子にのるんじゃねえよ、オッサン」
強気な声とは裏腹に、すでに肩で息する悦花の動きは確実に鈍くなっている。嵩にかかってヌラリヒョンが攻め込む。
「その程度で『幻怪』を名乗るとは…ガッカリだな。失望したよお前の弱さに」
ふと沖を見やれば、ここでも苦戦する幻怪たち。
海座頭に連れ去られたサキ、そして海面を埋め尽くさんばかりの波小僧たち。
「もはやこれまで、か…」
突如、遠くの水平線がぐぐっ、と山のように盛り上がるのが見えた。
「あっ」
海座頭に抱え上げられたままのサキが大声で叫んだ。
「来る、来るっ」
耳に刺さるその声に苛立つ海座頭。
「うるさいガキ…大波が来るってことぐらい見りゃわかる」
「いや違う、あれは」
海に盛り上がった山は、真っ直ぐ岸に向かってくる。
「やたら激しい大波…いや、何だあれは、波を追い越して来るっ」
「ええっ」
妖怪たちも幻怪たちも戦いの手を止め沖を注視した。次第に白い波頭を左右に広げながら速度を上げて近づいてくる「海の山」を。
「フンペ…」
サキが呟いた。
「もう泳ぐ力さえ残っていないはずなのに…」
「なんだあのバケモノっ」
ひときわ大きく立ち上った水しぶき。その中からあまりに巨大なクジラの目が、波小僧たちを睨み付けた。
「来た…フンペが」
目を丸くするサキを放り出して海座頭は逃げ出した。ひしめく波小僧たちも怯えた目でその場を立ち去りはじめた。
「うあ、ああっ」
ぐいとせり上がった海面が近づいた。
下から姿を現した小山のようなクジラ。鋭い刃物のような歯が立ち並ぶ口は呆れるほどに大きく、無数の波小僧たちをあっという間に呑みこんでゆく。
「ひるむなっ、たかがクジラ。殺ってしまえっ」
ヌラリヒョンの怒号に呼応して黒河童たちは続々と海になだれ込み、毒矢を放った。
「やめて、やめてっ。フンペはもうボロボロなのにっ」
海に落ちて泣き叫んでいるサキを 大クジラは拾い上げるようにしてその背中に乗せた。
ヌラリヒョンが叫ぶ。
「ええいっ。お前たち何をやってる、娘を取りもどせっ、ひるむなっ」
黒河童たちが殺到すると、大クジラはバシンっと両方のヒレで海面を叩いた。
「なにいっ」
大クジラはその巨体を海上にそそり立たせた。サキをかばう盾となり、次々飛来する毒の矢を浴びる。腹にも大きな銛が深々と刺さり、垂れ流される血で海が赤く染まってゆく。
「もうクジラは死にかけだっ」
ヌラリヒョンの言う通り、大クジラは白目を剥いてガタガタ痙攣している。
「トドメを刺せっ。火矢だ。頭を狙え、ヤツの頭の中には油がたっぷり入ってる」
黒河童たちは油を染みこませた布を鏃に巻き付け、火打石を叩いて燃え盛る矢を構えた。
「打てっ、焼き殺せっ」
飛び出した無数の火矢が大クジラの頭を貫いた。
「ぎゃああっ」
悲鳴を上げた大クジラの頭からダラダラと油が漏れだし、引火する。
「フンペ、もういいのよ。戦わなくていい。だから逃げて、お願い」
火の手が回る大クジラの背中にしがみついたサキは泣きじゃくっている。
大クジラはブルブルっと身体を震わせて唸った。その声を聞いてサキは首を激しく横に振りながら叫んだ。
「ダメ、ダメよっ。最後の石を使ってしまったら、フンペの魂の行き場所が無くなってしまう」
拒むように大クジラはもう一度、頭を左右に振って吠えた。
「ウオオッ」
大クジラが勢いよく潮を噴き上げると、背中の噴気孔の真上にいたサキは宙を舞い、岸に近い海面へ飛ばされた。
「あっ」
「サキちゃんっ」
「走れっ」
雅、蝦夷守、裕が急いで駆け寄ってサキを受け止めた。
「大丈夫かっ」
「はい。それよりすぐに岸に上がって。早く」
「岸に?」
「そうよ、早く。早くっ」
言われるがままサキを抱え岸に。
沖では大クジラが頭から流れ出る油に引火した炎にまみれ、のた打ち回っている。
「フンペが救ってくれる…」
巨大な口を開けた大クジラは腹の底から石を吐き出した。
「最後の、神の石」
それはフンペが永遠の命を得るために必要な、三十三個目の石。
「フンペ…さようなら」
石は海面の油の上に揺れる炎の中で激しい光を放ちながら一気に燃え上がり、大クジラの頭部にたっぷりと蓄えられた油に及んだ。
「伏せてっ」
サキが叫んだ。
大爆発。
大クジラは自身も跡形のないほど粉々に弾け飛び、海面全体を炎と爆風で覆い尽くした。波小僧たちは一匹残らず海から削ぎ取られた。
ゆっくりと顔を上げた幻怪衆たち。
もはや生き物の気配が全て消えた海に穏やかに打ち寄せる波が、少しずつ、おぞましい紅色の水を澄んだ蒼に変えてゆく。
「フンペ…」
浜辺に座り込んだサキ。
「フッ、面白い見世物だったな」
難を逃れたヌラリヒョンと数名の黒河童が近寄ってきた。
「てめえっ」
立ち上がって身構える幻怪衆。ヌラリヒョンは薄笑いを浮かべながら舌打ちをした。
「血気盛んなのはよろしいが、無用な戦いをしたいほど私は若くないものでね」
すでに「神の石」が納められた箱は彼らによってこじ開けられていた。
「どうやらお互い探していた石とは違うものだったな」
ヌラリヒョンは呟いた。
「つまり石にも娘にも、無論お前たちにも用は無い」
ぐっと両手を前に突き出した。
「マズい」
反射的に悦花が叫んだ。
「伏せてっ」
ヌラリヒョンの掌から真っ黒い巨大な波動の塊が撃ち出されその場に叩きつけられた。
ズシンと腹に響く衝撃とともに稲妻が走り、大量の砂が巻き上がる。
「ぐうっ」
悦花が咄嗟に渾身の力を振り絞って波動の壁を作った。
「大丈夫?」
「あ、ああ」
どうやらその壁のおかげで幻怪衆、サキと吉蔵も助かったようだ。
「しかし…」
周囲は地面ごとえぐられたように大きな穴が空き、プスプスと黒煙を噴き上げていた。
「すごい力だ…あれが暗黒波動か」
戦慄するほど激しい波動の爪あとを残し、ヌラリヒョンと配下の黒河童たちは姿を消した。
「終わった、か」
互いの顔を見合わせ、表情を緩ませた幻怪戦士たち。
「ああ。残念ながら石は見当違いだった。しかし、故にこの土地が妖怪たちに襲われることは二度とあるまい」
「そうだな。でもサキちゃんが…心の支えを失った虚しさと悲しみは相当なもんだろう」
幻怪衆とサキ、吉蔵は穏やかな風に涼みながら、ぐったりと疲れた体を癒すようにして真夏の一夜を海沿いの小屋で過ごした。
―翌日・種差海岸―
「うあ…河童丸がすっかり台無しだ。復旧は不可能だな…歩いて帰るしかなさそうだ」
うな垂れる煤。
雅が血相を変える。
「なにっ、岐阜まで歩いたら足が棒になっちまう」
裕も口をあんぐりと開けてボヤく。
「直せんのか、お前。自分は天才だって常日頃いってるじゃねえか」
「天才でも出来ることとできないことが…」
悦花はため息をつきながらも、諦めて腹を決めた様子。
「さあ歩きますか、一路岐阜。これも修行ってこと」
蝦夷守も同調する。
「では、その修行のお供を…」
懐に忍ばせていた一升瓶を取り出した。
「陸奥八仙。銘酒ですよこれ」
「い、いつの間に…」
「お祭りのドサクサに…」
悦花はまたまた呆れ顔。
「そういえばサキちゃんは?」
キョロキョロとあたりを見回す煤。
「サキは…」
吉蔵が小屋からゆっくりと出てきた。
「海へ出た」
「海へ?」
幻怪衆一同は目を丸めた。
「どういうことです?」
吉蔵は海の向こうを眺めながら言った。
「サキは、どうしても行くんだ、と。あの子にはクジラたちの声が聞こえるんだそうです。たくさんのクジラたちが呼んでいるんだ、と。守り人が必要だ、それはサキにしか出来ない、と…」
遠くに小さな小舟が見える。
「あれは…」
こちらに気付いた様子で、大きく手を振っている。
「サキちゃん…またどこかの海で新たなフンペと出会い、海の神話を引き継いでいくんだね」
「ところで…じいさん、あんたはどうするんだい。独りぼっちじゃねえか」
吉蔵はにっこりと笑った。
「あたしゃ元より独り身。むしろ気楽ってもんです。それに見ておくんなさい、昨日フンぺが連れてきた大量のイワシが浜に上がってる。これだけありゃ一生食うには困らねえ。サキと鮫浦太朗が残した石を御神体に、新しいお社を作ってやろうと思ってるんですよ。後の世の人びとが、海の恵みと絆の大切さを忘れないようね」
海岸を埋め尽くすほどに打ち上げられたイワシや魚たちを大きな大八車に積み込む吉蔵の穏やかな笑顔がだんだん小さくなる。
階上岳を越えれば奥州街道、二戸・金田一の宿。
「海岸はイワシだらけだったが、見てみろよ。空にもイワシがいっぱいだ」
「へえ。まだ夏祭りだってのに、もうイワシ雲か」
「言われてみりゃ、少しばかり風も涼しい匂いがする」
熱い夏祭りに彩られる北国の夏は短い。それは生きとし生けるものの命の儚さにも似て。
「あ、とんぼ…」
「ちょうどいいお供じゃねえか。なんたって俺たちも岐阜まで『とんぼ返り』ってわけだしな」
眩しい陽光が、まるでにこやかに笑ってるように思えた。
後に鮫村には「西宮神社」と呼ばれる、海の安泰と恵みをもたらすクジラ神=恵比寿さまを祀る社が海に面して建てられた。
やがて漁民たちはこの社のある浜を恵比寿浜と呼ぶようになった。
企業家たちによって誘致された捕鯨事務所が地元漁民たちの反対を押し切ってこの地に設立され北欧の技術者を迎えて操業を開始、結果クジラの乱獲と解体に伴う近海の汚染からウニやアワビなどを含む伝統的漁業が崩壊、ひいては怒れる漁民たち約千人が決起し捕鯨事業所を焼き討ちするという悲惨な事態にまで発展したのはこの物語の五十八年後、明治四十四年のことである。
海は、ときに怒り荒ぶりニンゲンたちに鉄槌を振りおろす。海を守るエビスの神~フンペによる戒めか、はたまた闇の妖怪たちの仕業か。
今もクジラ石は恵比寿浜に建つ西宮の社から、静かに海と人々を見守り続けている。
完