9
明くる朝。俺は冷たい空気のなか、斜影弓を手に山麓の森にいた。
空は灰色の雲の切れ間にときおり影をつくるのみで、午後からは降りだすかもしれなかった。
――その前には帰れるだろう。
足元に倒れ伏すは、灰銀のたてがみを持つヤミノキバ。ひと月前に、俺と女神さまが出会う原因となったくだんの魔獣である。すでに息はない。
俺はヤミノキバを見やって、あらためて遠距離からの攻撃の有用性を実感した。
相手に気づかせぬまま奇襲をかけて、距離を詰められる前に殺す。それは交戦ではなく、もはや猟。獲物と狩人の関係。
ヤミノキバは身体を幾条もの魔力の矢でつらぬかれ、いたるところから血を流して死んでいる。
はじめに戦った時にも感じたことだが、ヤミノキバはやたらにしぶとく、充分に距離をとったうえで射掛けたにも関わらずすぐ間近にまで迫り、しかしその牙を俺に届かせることはなかった。
あれほど苦戦させられた相手をいとも容易く仕留められて、俺は溜息でもつきたい気分だった。
確実に成長しているとはいえ、実際には距離をとって一方的に攻撃を仕掛けられるばかりではない。
まだまだ鍛錬が必要そうであった。
俺は本日の食事ことヤミノキバを肩に担いで歩き始めた。
――それにしても、意外と命中するものだ。
女神さまが一緒の時はあまりにも狙いを外すので、俺には才能が無いのかとも思ったがそんなことはないようだ。
そう、それによくよく考えてみれば魔法の制御はもとより得意分野。
冒険者学校時代の成績を振り返れば、武術全般は並以下だが、魔法の扱いだけはあの鬼教官にさえ褒められるほどだった。
魔弓は、大気の魔力の流れを読み、魔矢の通り抜ける道筋を見出し、魔力を込め、放出する。
言うなれば魔法そのもの。
通常の弓術とは全くの別物なのだと理解するにつれ、俺が当初持っていた苦手意識は消えた。
それでも、女神さま相手にともすれば平常心を保つことが出来ないのはどうしようもないようで。
――もうすこし、一人のうちに自分の魔弓の腕を確かめておきたい。
そう思いながら歩いていると、折よく遠くの方に、森林のなかにあって目立つ鮮やかな朱色を見つける。
木に止まり首をせわしなく動かす巨大な鳥。アカイツメ。
俺はそっとヤミノキバをおろして、斜影弓を構えた。
ためしに、止っているところではなく飛んでいるところを。そう考えて狙うは頭ではなく胴体とする。
魔力の充填もすっかり慣れたものだ。
俺は緊張感を持ちつつも、いくぶん弛緩した心持ちで、魔弓に魔力を流し込み、
――アカイツメが、不意にこちらを振り向いた。
ぞくり、と、背筋を冷たいものが抜けた。
こちらを睨みつけるかのようにじっと視線を向けるアカイツメに、俺は身をすくませかけ、それから、すぐに背を向けて走りだした。
女神さまとゆるやかな時間を過ごすうちに忘れていた、死の気配。それが猛烈な勢いで迫ってくる。それも一方向からのみならず――
いつぞやの繰り返しをしないため、俺は前方の地面を確認したうえで、足を止めぬまま後ろを一瞬見やった。
目に映った朱の影は、六つ。いずれも殺気立って、木立のあいだを器用に飛び、俺に襲いかからんと爪をむき出しにしている。
「……群れで行動するとかっ……きいてないっ!」
呼吸の合間に、思わず悪態をつく。とはいえ、女神さまにあたるのは筋違いだ。
――調子に乗った末路、ということなのか。
疾駆するも、当然空を抜けるアカイツメのほうが速い。迫る熱を感じて、俺は頭を下げた。
俺の髪をわずか焦がして、直上を火を纏ったアカイツメが飛び越す。
その背に斜影弓を向けて即座に放つ。
距離が近いために狙い違わずあたるも、魔力を充分に込める時間がなかったせいか、アカイツメは身体を撥ねさせたのみで高度をあげて離脱した。
舌打ちは胸中にとどめ、俺は魔力を再度込めると、踏み出した右足を軸に半回転、俺の背面直線上にいたアカイツメに射掛ける。
命中も確認しないまま勢いを殺さずに後転して、立ち上がり駆け続ける向きは元通りだ。
まるで軽業のような芸当だが、当然成功率は低い。アカイツメに矢があたっていたとしても、せいぜいが胴体か掠めたかだろう。
よしんば射止めていたとして、まだ五体、ないし四体残っている。
――このまま女神さまのもとまで逃げきれるか?
そこでふと、最悪な事実に気がつく。俺は場所を見失っていた。
かすかな感覚を辿って、俺は走る。
酸っぱくも甘く、刺激的でやさしい。時には調和して他にみない味わい。
迫る根源的な死の恐怖に否応なく集中を乱されるが、だからこそ見つけなければならない。
視界の先に、森が開け影のかからない草薮が映った。
俺は再度振り向き打ちでアカイツメを牽制して、そのまま森を抜けた。
――そこは、このひと月に何度も足を運んだ場所。シロイチゴが自生する野原。
すっかり馴染んだシロイチゴの魔力を辿って、この場所へ来たのには二つ理由があった。
ひとつには森を駆ける内に見失った方角を確認するため。もうひとつは――
足を取られるほどに丈が長く、よくしなる草のあいだに、俺は滑るように飛び込んだ。
火の魔法をつかう魔物が火事を起こしてしまうことはないのか。そういう疑問を持ったことがある。
教官に尋ねると、あっさりと肯定された。
それではその魔物が通り抜けた土地は一面焼け野原ではないか、ときけば、そうでもないらしい。
本能によるものなのか、魔物は、火魔法を植物などに向けて意図的に放つことはないというのだ。
例えば獲物に向けて使用したものをかわされて、それが引火するということはある。そのまま火事にまで発展することも。
それでも生態系が破壊されるほどに致命的な事態になることは、まずない、とそういうことらしかった。
俺は草の陰に埋もれるように仰向けになって、上空を旋回する四匹のアカイツメを見ていた。
生い茂る植物のなかに紛れることで火を封じられるかは、ほとんど賭けであったが、どうやらうまくいったようだった。
その後肢の鉤爪を使おうとしないのは、接近するのを躊躇っているのか。
火をその身に纏うことで攻撃と同時に防御も兼ねる彼等は、それが出来ぬ状況ではうかつに敵に近づこうとはしないのかもしれない。
とそんな予測を立てつつ、この後の行動も考える。
――しびれを切らして襲いかかってくるか、それとも諦めて去るか。
灰色の空を背景に、朱色の絵の具で円を描くかのように、ぐるぐると飛び回るアカイツメを慎重に観察する。
そして、そもそもなぜこちらに襲いかかってきたのか?という疑問に突き当たる。
自分たちの命を狙わんとするこちらの魔力を察知した。殺気を感じ取った。なるほど確かに、敵対するには充分な理由だろう。
しかし獲物を求めて飛び回っている時でもなし、彼等にはその場から離れるという選択もあったはずだ。
それに、だ。魔弓という超射程の武器、そのアドバンテージを生かすために相応の距離をとっていた俺の気配を、何気なく羽を休めていたアカイツメがなぜ察知出来たのだろうか。
――否、何気なく、ではない。
思い返せば、俺がはじめに狙いをつけていたアカイツメはどこか落ち着きがなかった。警戒状態にあった、のだろうか。
その理由を求めてアカイツメを注視し、同時に目に入ったのは、黒闇を濃くする雲。
――雨が降れば、火魔法が使えなくなる。だから気が立っていた、なんて。
そんなごく単純で、けれども存外に有り得そうな仮説に思い至る。
そうであれば、今にも降り出しそうな空模様、彼等は撤退する可能性が高いかもしれない。
俺はそう結論づけて、その場で待つこととした。
果たして。その判断をあざ笑うかのように。
低い唸り声が聞こえて、俺は上体だけ起こし音の方向へと目を向けた。
四肢で草を踏みつけ、容赦ない殺意を叩きつけてくる大柄な魔獣。
「また、お前か……」
ヤミノキバ。なんの因縁か、またしてもその魔獣は俺の前に立ち塞がった。
実際、俺はヤミノキバの同族を葬っているのだから、あるいは恨みでも持たれてるのかもしれなかった。
なにせ俺の服には、先程殺したヤミノキバの血がべったりくっついている。
ともあれ非常にまずい状況だ。
立ち上がって逃げようとすればアカイツメが襲い来るだろうし、座ったままヤミノキバを射抜こうにも、仕留めるより前にかぶりつかれるのは間違いない。
一か八か、ヤミノキバとアカイツメの同士討ちを狙う――。
無茶な考えにも思える。しかし、やらねば待つのは死のみだ。
斜影弓を握りしめ、俺は地を蹴って立ち上がり、駆け出した。
――死んだ。と、そう思った。
直近に迫るは、肌をあぶる高熱のかたまり、容易く食い込み切り裂くであろう爪、牙。
もはや避けようもない。
迂闊にも、間抜けにも、俺はここで死のうとしていた。
――ふと、感覚を全て失ったような気がした。
それは誤りあったが、ずっと感覚のほとんどを占めていた色濃い死の気配、殺意、アカイツメの羽ばたきが起こす風、熱、ヤミノキバの荒い呼吸音。
その全てが消え失せていた。
「今回は随分と騒々しいお出迎えね」
いつのまにか固く閉じていた瞼をあげて、視た。
少女がそこにいた。
前にも見たような光景だ、と思った。
個性を排した黒みの強い暗緑一色、制服のような様相の服装の襟元からは白い肌が覗き、腰のあたりには外套を巻いて結んでいる。
背中に大きなザックを背負い、首にはやはり暗緑色の帽子をぶら下げている。
光を映さない黒髪に黒曜石のような瞳をもち、全身を暗色に統一した少女は、その場に不似合いなようで、ごく自然に溶け込んでいるようでもあった。
少女は、押し黙る俺を訝しげに眺めていたが、
「なに、呆けた顔してるのよ」
その声に我を取り戻す。首をまわして見てみれば、アカイツメとヤミノキバは、どちらも未だに、確かにそこに存在している。
しかし彼等はみじろぎすることさえ無く、アカイツメの身体からいづる炎は、あたかもその瞬間だけを絵に切り取ったかのごとく、わずかにも揺らめかない。
「……これは」
「私、あまりゆっくりもしてられないの。置いていくわよ」
説明を求める俺の視線に取り合わず、少女は向きを変えてさっさと歩き始める。
俺は慌てて少女に追いすがった。振り返ってみても魔物たちは静止したままだ。
「えっと、助けられたんだよな……?」
気持ち早足に思える少女に並んで歩く。
「そうね。偶然だけれど、間に合ってなによりだわ」
「助かったよ、本当に。死ぬところだった。……ありがとう」
「どういたしまして」
再度振り返ってみれば、すでに距離があいて魔物の姿は見えない。追いかけてくる様子はなかった。
「……いろいろと、訊きたいことがあるんだけども」
「答える理由はないわね」
あっさりと拒否されるも、俺は、これだけは尋ねなければならないことをまず問うた。
「君は、人型の魔物、じゃないよな?」
「そう見えるかしら?」
見えない。それでも、訊いておかなければ安心できない我が身を呪いつつ、
「失礼なこと言って悪かった。……俺はカレットだ。名前ぐらい、教えてくれないか?」
「そうね……私は」
少女は言いかけ、足を止めた。そして。
「……女神サマ」
進行方向に立ち尽くす、白髮の少女の名を、口にした。
彼女もまた、名前を呼び返した。
「……シャルレーニ。戻ってきたのですね……」
ふと、頬に冷たいものを感じた。――雨が降り始めたようであった。