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「ところで、わたくし、ずっと気になっていることがあるのですけれど…」
俺の正面に、膝を綺麗に揃え折り曲げて座る女神さまは、手元の急須に手をかざして、形作られた魔力でそれを包み込んだ。
厚手の陶器にお茶を注いで、「どうぞ」と、俺に差し出す。受け取って啜ると、暖かさが体中に広がってゆく。
雲が途切れたのかふと差し込んだ月の光に、まるで結晶の中に閉じ込められているかのような、白く可憐なシロイチゴが映し出された。
口に運べば、わずかな弾力、噛もうとすれば歯ごたえ無く抜けて、つぶつぶとした食感に突き当たる。
シロイチゴの寒天ゼリーを楽しむ俺に、女神さまはおもむろに切り出した。
「魔物がいるとはいえ……ここからわずか10日の距離に、冒険者の方々がいらっしゃるのですよね?
彼等がこちらに来ることはないのでしょうか?」
「ああ」
まだ話してなかったな、と俺はお茶をもう一口、舌を濡らして、
「冒険者は、魔物を倒すだけじゃなくて、土地の状態を調査したり、500年前に遺された歴史的価値のあるものを探して保護したりだとか、
特に前線組は拠点をつくりながらだから、進捗は本当に遅いんだよ」
冒険者と一口にいってもその内情は多岐に渡る。
土地を得ようと欲をみせる開拓者、労働者、商人、遺跡調査の専門家、歴史家、はては旅人。
職にあぶれ、危険と隣り合わせの大陸で開墾に励む者、それを護衛する者たち。
一般に、冒険者学校を出て、一通りの調査、施工、戦闘をこなす事が出来るよう訓練された者を冒険者と呼ぶが、彼等は決して専門家ではない。彼等だけでは、大陸を本当の意味で取り戻すことは出来ない。
ジスルート大陸には今も大勢の人間が移住してきている。
魔物を倒して通り抜けて、それで終わりではないのだ。その場所を永続的に人の住める場所にしなければならない。
「ここ数十年ほどは、本格的に大陸中央部に都市圏を形成するってのでそこに人出をまわしてて、勢力範囲の拡張はほぼ停止してるらしいよ」
「そうなのですか……ですが、200年ものあいだ、わたくしが一度もカレットさん以外の方を見かけることがなかったのは、なんだか不思議な気が致しますね」
「……それは、確かに」
例えば、腕試し的に踏破のみを目標とした武人だとか。
俺はつゆとも知らなかったが、500年前に存在していたはずのウザギ族、その村里の情報を知る者もきっといるはずで、それを確かめようとする者だとか。
200年もあれば、そういう輩の一人や二人ぐらいこの村に辿り着いていてもおかしくはなさそうなものだ。
「何か、物理的にこちらに来ることが出来ない原因があるのか……」
それが一方通行のものでなければ、あるいは俺は、魔物を切り抜けても仲間のもとには帰れないのかもしれなかった。
抜けたとしても、再度女神さまのもとへ戻ることがかなわないかもしれない。
――あるかも分からぬ何かを、いま考えてもしょうがないか。
俺は気を取り直して、ふと思い出したことを尋ねた。
「ところで、といえば、俺もひっかかってる事があったんだ。
女神さまは、俺がウサギ族にしか使えない転移魔法陣で飛んできたから、それで俺がウサギ族の血を引いてると思ったんだよな?」
「はい。そうですよ」
「俺には、ウサギ族の特異な才能とやらは発現してないってことでいいのか?」
特異な、なんて曖昧な表現をされているが、俺は今までに自身が周囲と特段に違う何かを持ってるだなんて感じたことは一度もない。
女神さまは額に手を当てて、しばし思案顔を見せたが、
「ふつう、ウサギ族の特異能は本人にはっきりと分かるかたちであらわれます。カレットさんは、遅咲きなのかもしれませんが……」
「……ヒノヤミも、遅咲きだったのか?」
ふと物憂げな影を落とした女神さまの表情に、口にするつもりはなかった言葉をこぼしてしまう。あるいは、彼女もまた同じことを考えていたのかもしれない。
女神さまは目を伏せて、
「そう、かもしれません。……わたくしには、彼のことは、分かりません。魔物を操るだなんて、わたくしの知る限り、ウサギ族の歴史でも類をみないものです。
ウサギ族の能であったのか、何かの魔法であったのかも定かではありません。
……それが、ヨミとサヨイを支配する鎖と同一であるかさえ」
「そうか……確認する方法は無いんだよな?」
「ええ……あ、ですが」
女神さまは頷いて、それから思いついたように俺に尋ねた。
「カレットさんのご家族やご親戚の方に、何かに秀でた方はいらっしゃいませんでしたか?
『月の女神』の血が濃いほど特異はあらわれやすいようですから、それで判別できるかもしれません」
「……いない、かな」
親戚づきあいは無かったから分からないが、家族は至って普通人であった。
いや、両親は共に役場勤めだからエリートと呼べるかもしれないし、弟もよくできたヤツだが、さすがにそれは含まないだろう。
「そうですか?……であれば、今後も特異能に覚める可能性は低いかもしれませんね……」
ちょっとばかり残念な気もするが、無い物ねだりだろう。
「……そうだ、俺の血縁じゃないんだけどさ」
思い返していて何気なく浮かんできたのは、茶髪の少女の姿。
「俺の仲間に、すごい優秀なヤツがいるんだよ。頭良いし、なんでもすぐ覚えるし、実技も抜群だったし。
ちょっと捻くれてるけど、よく気がつくし。……特殊な才能ってわけじゃないから、ウサギ族とは関係ないか」
口に出したもののすぐに自己完結する。しかし女神さまは、
「いえ、そうとも限りませんよ?」
そう否定して、今までに目にしてきたウサギ族の特異能をざっと挙げ連ねた。
五感を鋭くする能力に始まり、身体能力の向上、治癒能力などの単純なもの。
魔法を無効化したり、物体を触れずに動かすなどの反則じみたもの。
『音』の魔力を読み取る能力や、『影を消す』などという、理解の及ばないものもあった。
魔力に色をつける、なんてイロモノ能力を持つ者もいたらしい。
「そういった分かりやすい異能の他に、絵や歌など芸術の分野で目覚ましい才覚を見せるものもいました。
ウサギ族は、いつの時代にも文化の発展にたずさわってきたのです」
――それらも全て、ウサギ族の始祖だという『女神』の権能なのだろうか。
「ですから、カレットさんのお仲間の方がウサギ族の血を引いているということも、無いではありませんよ。
もちろん、本人の努力ゆえでもありましょう。どんな才があっても、結局のところ本人次第なのですからね」
女神さまはそう締めくくった。
「そろそろ、魔力を読む訓練はいいんじゃないか?」
「……そうですね。もう、随分と上達なさいましたものね」
およそ一月もの間、野草を探しまわったり、一日中じっと瞼を閉じて魔力の流れに感覚を澄ませたり、そんな風に過ごしていたのだ。
成長もしようというものだ。
女神さまと出会ってから、既に一度、月が欠け、満ち、そしてまた半身を隠している。
「では明日からは、目当ての場所へ確実に射る練習へうつるとしましょうか?」
「……それなんだけどさ」
俺は躊躇って、しかし今も背中に感じる吐息の熱に、やはり言わなければならない、と口を開く。
「明日はちょっと、一人で行ってきてもいいかな」
「……なぜ、ですか?」
わずかに、震えているようにも思える声。
「いやさ。女神さまがいるとやっぱり、どうも緊張感が持ちづらくてね。
この近辺に出る魔物はだいたい分かったし、一人でも逃げ切るくらいは出来ると思う。
それに、ほら、女神さまもずっと俺に付き添ってて気疲れしてるだろ」
「気疲れだなんて、そんなことありません。……この一月は、本当に、毎日幸せな気持ちでいっぱいなのです。
いくらここの魔物に慣れたとはいえ、お一人でなんて……それこそ、よほど気にかかってしまいます」
女神さまは即座に否定する。予期された答えに、俺もまた用意していた言葉を返す。
「まあ、そう思うかもしれないけどさ。ひそかに疲れが溜まってて、倒れられでもしたら美味しいごはんが食べれなくなるし、
明日は俺が食材をとってくるから、女神さまは家で待っててくれよ。
それに俺は、最終的には一人きりでの立ち回りを覚えなきゃいけないんだから、その慣れも兼ねてさ。
実際に一人になってみないと分からないこともあるだろうし」
一人になってみなければ分からないこと。それは俺にとっても、女神さまにとっても。
「……そうですか?そこまで仰るのであれば……」
女神さまは不満気ではあったが、一応は納得をみせた。
気が変わらぬ内にと俺は言った。
「それじゃ、明日に備えて寝ることにしよう。おやすみ」
「……おやすみなさい」
俺の背中に頭を押し付けるようにして、女神さまはくぐもった声でそう言った。
それから息を殺して待つことしばし、かすかな寝息が聞こえてきて、俺はそっと溜息をついた。
焚き火のそばで、彼女の囚われのわけをきいた日より今日まで、女神様は毎晩俺に添い寝を求めるようになった。
寂しかったのだろう。人恋しかったのだろう。彼女の心情は察するに余りある。
しかし。
俺は女神さまとずっと共にいられるわけではない。
つまるところ、女神さまは俺に依存しすぎていると、そう思うのだ。
過度な依存は双方にとって良くない結末をもたらす。俺はそれを、一度身を持って経験している。
――依存する女性は怖い。
境遇を考えれば致し方無いことなのかもしれないが、逆に、境遇因りの歪んだ愛情を、俺は受け入れられない。
出会ってから一ヶ月、実はほんの数日の男に無防備な寝姿をみせる様が、そのひずみを明然と示している。
といって、はっきりと拒絶してしまえば彼女は深く傷つくだろう。それは本意ではない。
俺がここを発つまでのあいだに、女神さまには500年ぶりに人とのつきあい方を思い出してもらわねばならなかった。
そういうわけで俺は、自然に、徐々に距離をとるために、先のような提案をしたのだ。
女神さまにした説明も嘘ばかりではない。
周辺の地理地形はおおよそ把握したし、魔力感知の合間に弓を用いた戦い方の講釈も受けた。
もちろん、命中させる前提だが――実のところ、女神さまと一緒にいて息が詰まるのは俺の方だった。
微笑みのなかに、どこかほの暗さを感じる視線には覚えがあって、じっと見つめられているとどうにも手元が狂う。
ともかく、山菜を採取して獣を狩って戻ってくる、それぐらいならば問題なくこなせる自信はあった。
「……はあ」
もう一度小さく溜息を吐き出し、俺は眠りについた。