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早速とばかりに、魔物への対処の教練を頼んだ俺は、女神さまに連れられてシロイ山脈へと足を踏み入れていた。
人魔大戦以前の記録にもシロイ山脈に関する記述は散見する。
南北にわたって延々と、雄大という言葉ではきかぬほど深く険しい稜線を描き、ジスルート大陸の『向こう側』を未知の領域に至らしめている壁。
単に険しいだけであれば、とうの昔に誰かが踏破したことだろう。
山岳をずっと奥の奥まで、山越え谷越え進むと、そこには『瘴気』と呼ばれる、触れたもの全てを腐敗させるモノが渦巻き待ち構えているのだ。
シロイ山脈のどの方面においても、それが『向こう側』への到達を阻む。無理に通ろうとすれば例外なく無残に命を落とすことになる。
ゆえについぞ『向こう側』へと辿り着くものはいなかった。シロイ山脈超えは、かつての時代の旅人達の悲願であった。
――というのが、俺がロアに耳たこ聞いた話だ。
彼女は冒険者への憧れが大変に強く、事あるごとにこうした話を聞かされたものだった。
ディグがシロイ山脈にはなにやら一家言あるらしく、そのせいでこの話は特に話題に上ることが多かった。
俺とレーレは、曖昧な相槌で聞き流したものだ。
今は遠い仲間達に一瞬思いを馳せて、俺はすぐに目の前に気を戻した。
俺達はサツネ村からそう離れてもいない、山林の浅い地点にいた。
「――あの鳥はどうでしょうか?」
女神さまが、背の低い樹に止まり羽を休める、鮮やかな朱色の鳥を指して言った。
その樹までは相当に距離が離れているが、それでもはっきりと分かるほどの大きさ。尾羽根も含めれば3メートル程はあろうか。
「……いや、知らないな」
「私達はアカイツメと呼んでいます。東の方へ飛んでゆくのをしばしば見かけますし、魔獣を捕食しているところも見ます。東に抜けるのであれば襲われる可能性は高いでしょう」
女神さまの解説を聞きながら観察を続ける。鋭く湾曲したくちばし。後肢の、やはり巨大な鉤爪。
「魔法は使うのか?」
「はい。それが特徴でもあります。火炎を身に纏うのみで、火の王を飛ばしたりしているところは見たことがありませんが」
ともすれば自分の身を、あるいは巣を焼きかねない火の魔法を使う魔物は滅多にいない。
それでも使う魔物に出くわせば、その魔物は、人間にとって強敵となる。不用意に近づけば文字通り火傷を負いかねない。
「厄介だな……」
なにがと言えば、俺は今、魔法を使う手段が無いのだ。手持ちの書述陣はほとんど使いきってしまったし、つまりは、遠距離攻撃の手段が無い。
「火を纏うとなると長物の武器がいるな……」
俺は側の樹に立てかけられた、幾つかの武器を眺める。サツネ村に保管されていたものだ。
女神さまが手入れを怠らなかったそれらは、いずれも刃こぼれ一つ無く磨き上げられ、木漏れ日を受けて光沢を放っていた。
今日は、元々持っていたナイフすら地下神殿に取り残し武器の無い俺が、代わりに何を持つかを決定する、というのも大きな目標のひとつであった。
「槍は苦手だしな……」
冒険者学校で一通りの武器の扱いは学んだが、全体的に奮わない成績だったのを思い出す。
結局、魔法主体で撹乱して短剣で突っつく、俺に出来たのはそれぐらいだった。
「無難なところで長剣、か……」
「弓はどうでしょうか?」
女神さまが提案するも、俺は苦い顔を返すしか無い。
「逃げ撃ちどころか、止まってても当てられるか怪しいぐらいの技量だよ……」
無理があろうというものだ。しかしなぜか女神さまは引き下がらなかった。
「近づかせずに倒せるようになれば、それが一番安全です。それに、これは魔弓ですから魔力の矢をつがえて放ちます。
魔力を余らせるばかりで放出する手段が無いというお話でしたし、尚のこと丁度良いのでは?」
「魔弓?」
とりあえず持ってきただけで、もとより使うつもりはなかったので気にしていなかったが、言われてみれば一緒に矢が置かれていなかったし、弓には弦も張られていない。
幾枚もの黒塗りの薄板が複雑な機構を成し、弓柄には長い耳をもつ動物の可愛らしい絵柄が彫り込まれているが、
それすらも魔弓を構成する為に必要不可欠な要素であるかのように、自然な纏まりを見せている。
俺はいっときその造形美に見とれた。
矢を必要としない魔弓の製作は匠の技と言われ、その値段はとんでもなく高い。いっそ、一生に消費する矢の値段のほうが安いとさえ揶揄される事もある。
そんな逸話を話すと、女神さまはどこか自慢気な笑みを含んで、
「実はその魔弓、わたくしが作ったのですよ?」
もしかしてそれでやたらに推しているのだろうか。
「銘とかあるの?」
「はい。斜影弓、と。それは借り物の銘ですが……わたくしが愛用しているのと類型の弓ですので、お揃いですね!」
既に俺がそれを受け取ることが決まっているかの体で、女神さまがそんな事を言う。
俺は女神さまの意を汲んで――というわけでもなく、噂の魔弓を使ってみたいという思いに駆られて、斜影弓を手にとった。
軽く、それでいて手に馴染む。
「どうやって魔力を込めるんだ?」
「え……どう、と言われましても……」
当然の質問に、しかし困惑顔を返される。女神さまは難しい顔でしばし考えこみ、それから俺の背後にまわった。
腕を伸ばし、俺の両手に添えて、
「力を抜いてください」
そう言って俺の腕を動かし弓を構えさせる。狙う先は無論――朱色の瞳で何処を見るか、アカイツメの姿がある。
「わたくしがカレットさんの体を通して魔弓に魔力を流し込みます。魔力の流れを感じて、覚えてくださいな」
俺は息を詰めて、アカイツメを見据えた。
密着する女神さまの体温さえも最大に感じ取るように、神経を集中させる。
魔弓には存在しない弦を、確かにそこにあるかのように引き絞り――空気が張り詰め音さえも消えたかのように錯覚した刹那。
女神さまが手を離した。
空を切る音がした、そう思った次の瞬間には、アカイツメが身体を傾け、樹上から落下した。
どさりと、地面に落ちる音が遠くからかすかに聞こえ、俺は、アカイツメを仕留めたのだという事をようやく理解する。
「脳天を射貫きましたので、痛みを感じる間も無かったことでしょう」
耳元で囁いて、女神さまは体を離した。
「すごいな……」
緊張の糸を切らし、俺は思わず感嘆の息をこぼした。
「カレットさんも、きっと出来るようになりますよ」
「それはどうかな……」
曖昧に答えるも、女神さまは気にした様子も無く、
「魔力の流れは感じ取れましたか?」
「ああ、うん。一応は」
むしろ、感覚が強大過ぎて拾い切ることが出来ぬほどだった。
柔らかくも鋭く体の内を駆け抜けた女神さまの魔力は、余韻を未だ残している。
「とりあえず、やってみる」
俺は斜影弓を手頃な樹に向けて、左手で支え、深呼吸をひとつ。体内を巡る魔力を一つの筋に変え、弓へと押しこむ。
魔力を流し込んでいるのか、はたまた吸い取られているのかも分からぬような、そんな感覚を定かに、俺は右の手の指で虚空を掴み、弓を引き、放った。
「……あれっ」
直前まで、確かに手応えを感じていたはずだった。しかし、指を離そうとした瞬間に、それはふっと消え失せた。
「……これは、練習が必要そうですね?」
思わず間の抜けた声を上げてしまった俺に、女神さまは、なぜだかにっこりと笑顔で、そう言った。
「……いや、別に弓に拘ることは」
「ダメです、それはダメです!」
俺が言い切らない内に、女神さまは素早く俺の背後にまわりこんで腕を取った。
「ささ、もう一度、魔力の流れを確認しましょう?」
.
.
結局押し切られる形で、俺は魔弓の扱いを学ぶことになった。
強引な女神さまの思惑について、推し測ることが無いではない。それは実は、会ったばかりの時から懸念していたことだ。
しかし、女神さまの協力無しには魔物の襲撃を切り抜ける手立てのない俺は、今はそれを受け入れるしかなかった。
シロイ山脈の山麓、見渡しが良くもやや地面の傾斜した野原を、ゆっくりと歩く。
群生するやたらにしなる植物に足を取られそうになりながらも、なんとか集中を保とうと試みる。
大気中を漂う魔力を、見分け、嗅ぎ分け、感じ分けようと、そうする内にふと、喉の奥をかすめる甘酸っぱいような味を覚え。
それは錯覚に過ぎないが、俺は足を止めて屈みこみ、葉枝を押しのけた。
「……見つけた」
紅い花弁に、白く小さな果実をいくつも実らせた植物。俺はその実を摘み取って、片手に携えていた編みかごに入れる。
そしてまた立ち上がり歩き始めた。
魔力の訓練の一環として、俺は、特徴的な魔力を放つ野草、シロイチゴを探していた。
監督役として、俺の邪魔にならぬよう数歩遅れて続く女神さまいわく、大気の魔力の流れを読むことは、魔弓を命中させる上で非常に大事らしい。
魔力感知、あるいは察知は、魔物との戦いでも非常に重要な要素として冒険者学校時代にも訓練を重ねたものだが、その程度では全然足りていないようで。
女神さまが俺に申し付けた課題は、実が食用であるシロイチゴと呼ばれる野草を、魔力のみを頼りに探し出すことだった。
魔力を覚えるために、女神さまは俺にシロイチゴを用いた甘味を振る舞ってくれたが、鼻に抜ける酸味と後を引かぬ甘みが織り成すその味わいは、もう一度食べたい、と俺のやる気を充分に引き立ててくれるものであった。
再び、シロイチゴの花を見つける。
女神さまを肩越しに見やると、何に興味を引かれたか熱心に青空を低く流れる雲を見つめている。
俺はすっと手を伸ばしてシロイチゴをもぎとり、そのまま口元へと――
「あ!つまみ食いはいけませんよ!」
目敏くも注意が飛んできて、俺は溜息をつき、シロイチゴを籠に入れた。