5
ぱちぱちと火の爆ぜる音が、耳を心地よく通り抜けてゆく。
焚き火を中心に三脚に組まれた支え枝、そこに吊るされた鍋の中身を、お玉を持った女神さまが手慣れた手つきでかき回す。
「オニハトスープって言うんですよ。ウサギ族伝統の料理です」
お椀によそって、「熱いので気をつけてくださいね」と俺に手渡してくれる。
ほとんど無色に近い、さらりとしたつゆを一口啜って、それから俺は大きく息を吐いた。
白いもやとなって消えゆくそれを見つめ。
「……美味い」
やや塩気の強い味わい、しかし喉を抜ける時に感じるかすかな酸味がそれを中和して余韻を残す。
スプーンですくってみれば、薄くひと口大に切られた金とも白ともつかぬ透き通る野菜がさもおいしそうで。
「うまい」
しゃくしゃくと心地よい歯ごたえをもたらすそれを飲み込んで、俺は女神さまに尋ねた。
「この野菜は?」
「タケノコですね。お気づきかと思いますが、この村は山の麓にあります。山菜がいろいろ採れるんですよ」
微笑みを浮かべて、俺が食べる様子を眺めていた女神さまが答える。
山は確かに、俺が飛ばされた転移陣跡地からも、その果ての知れぬほど横にも縦にも延々連なる巨大な山壁が見えていた。
実はあの山脈が見えた時点でここがどこであるか察して然るべきだったのだが、あの時の満身創痍の俺にそれを求めるのは酷か。
「それにしても、女神さまの料理ほんと美味いな」
俺が世辞抜きの賛辞を送ると、女神さまは何気なく夜空を見つめて、
「わたくし、昔はまわりに甘やかされてばかりで、本当にダメダメだったのですけれども……。一人になってから他にすることもなくて、いつの間にか上達していました」
「そうか……」
空になった俺のお椀におかわりをよそって、それから女神さまは俺に向き直って背筋を伸ばし、あらたまった口調で言葉を紡いだ。
「……それでは、そろそろお話を致しましょうか」
「負の戦い……いえ、人魔大戦、で通じるでしょうか?」
有史来、唯一の人と魔物の戦争。俺が頷くのを確かめて、女神さまは言葉を続ける。
「異能を用い、魔物を統率せしめた彼の男が戦争を引き起こしたわけですが……」
後世において、魔王と呼ばれし者。その名を――
「ヒノヤミ。私がここに留まる理由もまた、彼が元凶です」
女神さまは記憶を思い起こしているのか、あるいは言葉を選んでいるのか、ゆっくりと、物憂げに語る。
「ヒノヤミは、元は私達と同郷、つまりはこのサツネ村出身の、ウサギ族です。ヒノヤミはその企みをあらわにする前――」
「待ってくれ、話の腰を折って悪いんだが……」
静止をかけて、度々女神さまが口にしたその言葉の意味を問う。
「ウサギ族ってのはなんなんだ?」
「……あら、ご存知ありませんか?」
知っているのが当然だというように話を進めていた女神さまは、お届きに目を軽く見開いて、
「……歴史の伴流に埋もれたのか、それとも……闇に隠されたのでしょうか」
女神さまは、揺らめき空を舐める炎を、なにか思うところがあるかのようにじっと見つめていたが、ふと顔を上げて、
「そうですね……それでは先に、ウサギ族について説明すると致しましょう」
「ウサギ族とは、このサツネ村に住んでいた人々、その中でも特に、特異な能力を持つものを指してそう呼びました。
と言っても、ほとんど全員がそうだったのですけれどね。ウサギ族がなぜ、普通の人間と違う能力を持ちうるようになったのか……
ウサギ族のはじまりについての情報はほとんど残っていないのですが、始祖は『月の女神』であった、とされ、彼女の血脈がウサギ族に継がれていると考えられています」
「女神……」
「わたくしは、気づいた時には彼等のもとにいて、そして女神と呼ばれていました。それより前の記憶はありません。
それから永いこと、わたくしはウサギ族と共に生活し、笑い合い、時には喧嘩もしたりして――そんな風に過ごしていました」
女神さまは瞼をそっと伏せた。美しい少女のそれにしか見えぬその眼で、彼女はいったいどれほどの時を見届けてきたのか。
「……いつの時代でも、ウサギ族の才は権力者に利用されようとしてきました。折り合いをつけて協力することも、反抗して逃げ隠れることもありました。
このサツネ村に降りてくる前は、シロイ山脈の奥深くにずっと隠れ住んでいたりもしたのですよ」
ほら、あのあたりでしょうか、と女神さまは背後を振り返って指差す。
あのあたり、と言われても、足元の焚き火、それに月明かりしか無い夜闇のなか、山脈は真っ黒な壁にしか見えない。
女神さまは体を戻し、話を再開した。
「サツネ村にうつって、数十年ぐらい経った頃の事です。ヒノヤミが生を享けました。村に新たな子供が生まれた時は、わたくしもいつも立ち会わせて頂いていたのですけれど、
その晩の事は今も覚えています。あいにくの曇り空でしたが、彼の誕生は皆に祝福されていました。
……ヒノヤミが生まれた家は、『月の女神』の本家筋と言われている一家でした。彼は周囲の期待を受けて育ちましたが、15になっても特異な才に目覚めることはありませんでした」
焚き火の影が、女神さまの表情に陰影を作る。彼女の表情は読めなかった。
「その年の春に、ヒノヤミはシロイ山脈へと狩りに行き、そのまま行方知れずとなりました。腹をすかせた魔物に襲われたか、崖から足を滑らせたか。
……ヒノヤミは、確かに目立った才覚を見せることはありませんでしたが、非常に慎重で、思慮深い子でしたので、不注意でどうかしたというのは考えにくく、
最悪の場合として、ウサギ族の血を狙う何者かに攫われたという可能性を考えたりもしましたが……ともかく、総出で探して見つからなかった彼が再び姿を見せたのは、
それから三年後のことでした」
話し疲れたのか、女神さまはそこで一度息をつき、鍋から自分のお椀に汁をよそってくちびるを湿らせた。
俺もつられて手元のオニハトスープに口をつける。それを見て、女神さまが、あ、と小さく声をあげた。
「どうかした?」
「冷めてしまいましたよね?」
言いながら女神さまは俺のそばに来て、そしてお椀を支える俺の両手に、自身の両手をかぶせる。
そして「熱を」と短く唱える。俺は、手のひらの中でにわかにお椀が温度をあげてゆくのを感じた。
女神さまの手が離れたので、顔に近づけてみると、湯気がたって熱々のようだった。
「便利だな……」
「……そうですね。便利ではあります」
「火いらずなんじゃないか?」
料理をつくるのも暖を取るのも魔法で事足りるようだった。とんでもなく魔力を食う、という感じでも無いが。
女神さまはまるでひとりごとのように、ささやく声で答えた。
「……皆で囲む焚き火が、火の揺れるさまが、はじける音が好きだ、と、そう言った友人がいました。……ただ、それだけのことです」
そう言って、女神さまはなぜか、今度は俺の対面ではなく隣に寄り添うように腰をおろした。
「あの、女神さま?」
「それで、続きですが……村に戻ったヒノヤミは、三年間の間に何があったのか語ることはありませんでした。
ヒノヤミはそれから更に数カ月後に再び村を出て、魔物を統べる悪逆の王となるのですが……彼が村を離れる直前のことです。
数秒間の沈黙。女神さまはわずかに震える声で、その言葉を口にした。
「わたくしがここを離れられないのは、この村に、ヒノヤミが殺めた二人の友人が眠っているからです」
「眠っている……」
「眠っている、いえ、わたくしが眠らせているのです。そうしなければ彼女達は、きっと多くの悲しみを振りまくことになるから。
彼女達もそれを望まないと思うから」
俺は隣に座る女神さまを横目で窺った。彼女は首を俯けてその表情を見せようとしない。
「思えば、ヒノヤミが村に戻ったのは自身の計画の支障となる強い力を持つウサギ族、それにわたくしを封じるためだったのでしょう。
……最後に顔を合わせた時、彼はこんなことを言いました。『かくも人々は暴力を好む。神が暴力を偏愛しているのは自明だよ』。
そのすぐ後、彼はウサギ族の二人を物言わぬ凶暴な傀儡に変え、そして村を立ち去りました」
「……物言わぬ、傀儡」
「はい。いったいどうやったのか……わたくしがいかなる魔法を用いても、ヨミとサヨイを……彼女達をもとに戻すことは出来ませんでした。
意志を奪われた彼女達は、ヒノヤミに殺されたも同然です。しかし同時に、生きてもいます。わたくしには、彼女達を殺すことは……」
声はどこまでも沈痛で、俺は押し黙って耳を傾けるしかなかった。
「わたくしは、彼女達を封印するに留まりました。そしてその封印を維持するために、この地を離れられません。
……そういうことです」
気づけばいつの間にか、焚き火は随分と弱々しく、立てる火の音も途切れ途切れになっていた。
「……こんなこと言うのもなんだけどさ、その二人も、死ぬことを、解放されることを望んでいるんじゃないか?」
安直で安易な発想だ。俺はその二人のことを何一つ知らない。
それでも、女神さまを傷つけることを知ってなお、俺は覚悟をもってそう言った。
「そうですね……。わたくしも、何度もそう考えました。ですが……」
ゆるりと首を左右に振って、女神さまは続ける。
「わたくしは、未だに彼女達を救うことを諦めきれていないのかもしれません。
ウサギ族の血が絶えていなければ、あるいは彼女達に掛けられた呪いを解く力を持つものが現れるかもしれません」
「……それは」
俺はかける言葉にあぐねて、ふと思い至り、そういえば、と女神さまに尋ねた。
「前にも言ってたけど、どうしてウサギ族が絶えていないと?」
「カレットさんが使われたあの転移魔法陣は、ウサギ族ゆかりの者しか発動することが出来ないのです」
なるほど、と頷いてその可能性に思い当たる。
「もし俺がウサギ族の子孫とやらなら、たまたまその二人を助けられる能力を持ってたりして……」
「そう都合の良い話は無いでしょう……」
口にするも、何の感慨も感じられない声で否定される。
「……まあ、そりゃそうか」
「はい……」
火種を燻らせるのみとなった焚き火に、俺は不意に寒さを覚えて体を震わせた。
「……随分と長いこと、話してしまいましたね。もう良い時間ですし、今日はここまでと致しましょう」
女神さまはそう言って立ち上がる。隣に座る俺の頬を、透けるほどに白い、女神さまの髪が撫でた。
月明かりのもとで一際冷たく照らし出された彼女は、ひどく儚げに見えた。