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まどろみから覚め、俺は倦怠感と共に身体を起こした。
まだ覚醒しきらない頭で真っ先に覚えたのは喉の渇き。
「――どうぞ」
自然俯いていた顔の前に、ほっそりとした白い両の腕と、その手に持つ、なみなみ水が進まないから注がれたコップが差し出される。
ほとんど引ったくるようにコップを奪って、一気に飲み干す。
「……ごほっ」
一体何時間ぶりに水分を摂ったのか、咳き込みながらも生き返る心地だった。
俺は顔をあげて、少女に礼を言った。
「ありがとう……助けられたのか、な」
左腕を見る。魔獣に思い切り食いちぎられ無残なありさまになっていたはずが、今は傷跡ひとつ無い。
他に負っていた裂傷も、すり傷さえも残らず消えている。全身にだるさはあるもののどこにも痛みは無い。
俺は意識を失う直前、目の前の少女の引き起こした現象を思い返す。あれは――
「正魔法……?」
「せいまほう……?何のことでしょうか?」
俺が呟いた言葉に、きょとんとした顔をみせながらも、少女は頷いて言う。
「あなたの傷を癒やして、ここに運んだのはわたくしです。はじめに、人型の魔物だなんて言って、ごめんなさい」
律儀にも謝る少女に、俺も慌てて返す。
「いやいや、それはこちらこそ……というかあんな血塗れの男なんていっそ不審だし……」
血塗れ、と言ったところで俺は自身が裸な事に気づく。
あの血に濡れそぼり、あちこち裂けてもはや衣服としての体裁を為していなかった俺の服は、順当に考えて目の前の少女が脱がしてくれたのだろう。
今は下半身こそ布団に隠れているが、俺は気恥ずかしさを覚えて少女から視線を逸しかけ、いやそれは失礼かと考えなおし少女を真正面から見つめた。
なぜか目を泳がせる少女に対して、
「あー……とりあえず。俺はカレットだ。あらためて、命を救ってくれたこと、感謝する」
言って頭を下げると、少女が手を振ってそれを静止した。柔らかな笑みを浮かべて、
「わたしくしのほうこそ、カレットさんにお礼を言いたい気持ちです。またこうして誰かとお話出来るなんて。ウサギ族の血も絶えてはいないのですね……」
こうして誰かと。とても引っかかる物言いであった。それに、聞き覚えのない単語も混じっていて。
かつての経験に鍛えられたフラグを察する能力が警鐘を鳴らしているような気がした。俺がその疑念を口にするよりはやく、
「それで、ええと、わたくしの名前は……なんでしたっけ?」
少女が首をかしげてみせる。
「なんでしたっけと言われても」
「いつも、女神さま、とか、おい女神、とか呼ばれていましたから……」
うーん、思い出せません、と少女。
女神。あだ名か、それとも。
「それじゃ、女神……さま。ここはどこなんだ?」
「サツネ村……の跡地、ですね……」
これはよどみなく名前を答える女神さま。やはり、知らぬ単語。
「俺の荷物は?」
「ここにあります」
と、ひとまとめにされた荷を手渡される。
「カレットさんの着ていらした衣服は、勝手ながら繕わせて頂きました」
継ぎ接ぎばかりではあるものの細部の仕上げは丁寧で、また洗濯もなされているようで、まだそう時間も経っていないだろうに器用で仕事のはやいことだった。
「いや、助かるよ。ありがとう」
荷の中から、今は隅っこが乾いた血で汚れて判別出来なくなってしまっている地図を取り出し、俺はそれを女神さまの前に差し出して尋ねる。
「この地図で言うとどの辺りか分かる?」
女神さまが、白くたおやかな指先で、地図の西端近く、中間よりやや北にずれた位置を示す。
ジスルート大陸の都市部、カルサノからは、俺が元いた地域からは、はるか遠く離れた未踏破領域。
「……女神さまは、ここに一人で?」
「……はい」
「いつから?」
「数えることも、もう忘れてしまいましたが……数百年ほどでしょうか?」
答える彼女の表情は悲愴で、嘘を言っているようには見えない。
「ですから、カレットさんを見た時は、本当に驚きでしたし、それに本当に嬉しかったのです」
一転、女神さまは明るい声で言った。
「数百年、か……。知ってるかも分からないけど、今はこの大陸を魔物から取り返そうとしてる人達が大勢いる。もう、ここに篭っていなくてもいいんじゃないか?」
またも女神さまは表情に影をさす。俺は天を仰ぎ見た。木造の天井が映る。
いつも教官に言われたものだ、どんな時も柔軟に対処しろ、と。
何かを祀る祭壇。今では使い手のほとんどが喪われたという正魔法、それもあれだけの重症を治すほどの使い手。
この世ならざるほどの美貌を持ち、瓦礫に崩れた場所を一人きりで歩いていた少女。
なにより、俺の命を救ってくれた相手が、俺に対して嘘をつく理由も無いだろう。
俺は考えをまとめると共に視線を女神さまに戻して、そしてその懸念を口にした。
「女神さまは……ここを離れられないのか?」
「……ええ」
「……どうして?」
女神さまは口をつぐみ、言葉を返さなかった。
「……俺はたぶん、最初に女神さまと会ったところに、魔法陣で転移してきたと思うんだけど、あの陣を使ってもう一度、元いた場所に戻ることは出来るか?」
「……出来ると思います。わたくしがこの地を離れられないのは、それはわたしくだけの理由ですから」
その理由、とやらを解消することが可能ならば、俺としても命の恩人に出来る限りの力添えをしたい。
しかし何はともかく、こうして生を繋いだ以上、一度仲間の元に戻らなければならない。
「仲間を待たせてるんだ。だから、俺は行かなきゃいけない」
「……そうですか」
「いや、置き去りにする訳じゃない。事情を話して、また戻ってくるよ」
「……そうですか」
どこか淡々と相槌を打つ女神さまに、俺のフラグ察知能力は危機感を訴えていた。俺は更に言葉を重ねた。
「どうして女神さまがこの村に囚われてるのかは知らないけど、きっと力になれることがあると思うんだ」
「……そうかもしれませんね」
「……悪いんだけど、着替えようと思うからちょっと出ててくれないかな」
雰囲気に耐えかねて、俺がさっさと出発しようと思いそう言うと、女神さまは急に表情に色を戻して、
「いえ、まだ安静にしていてくださいませ。外傷は治しましたが、肉体が負っていたダメージは残っているはずですし」
あ、と女神さまはふと思いついたというように声をあげて、
「ご飯に致しましょうか?きっと、お腹が空いていることでしょう?わたくし、用意して参ります」
言ってそそくさと部屋を出て行く。その小柄な背中は、なんだかとても危うげに見えた。
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翌日、日ももう傾き始めた頃。俺は祭壇を前に立ち尽くしていた。
足元に広がるのは、大きな亀裂の走る地面。断ち切られ、今はその機能を失った転移魔法陣。
「……数百年にわたって一度も使われることもなく、手入れされることも無かったものです。ここにカレットさんが飛んできた時の一度きりの負担に、耐え切れなかったのかも」
女神さまが俺を窺うように上目遣いで、そんな予測を口にする。
「……修繕したり、描き直したりする事は?」
「わたくしには出来ません……ごめんなさい」
「いや……それは仕方ない」
正魔法さえ扱える彼女ならあるいは、とも思ったが、転移魔法陣の仕組みを考えれば直せないのは当然だ。
B地点へと繋がるA地点に描かれた魔法陣、A地点へと繋がるB地点に描かれた魔法陣、これらは相互にあってはじめて機能するもので、
例えばAへと繋がる魔法陣をCに用意したところで、C→Aのみでなく、A→C方向の魔力の繋がりが無ければ魔法は発動しない。
また、描く時に込められる魔力は同一でなければならず、AとCの魔法陣を描くのはどちらも同一人物が行う必要があるのだ。
実際には更に複雑な条件も存在しているらしいが、転移魔法に関する技術は特権階級に占有されているので、俺の知る知識はこんなところだ。
その不確かな知識でも分かることはある。
この場合であれば、女神さまが例え転移魔法陣を描く手順を知っていて、ここに描かれていたものを真似て描いたとしても、地下神殿の陣を用意したのもやはり女神さまでなければ、それは機能しないということだ。
「こうして考えると、つくづく魔物は反則だよなあ……」
「はい?」
自在に転移を繰り返し、さんざん苦しめてくれたあの未確認種の魔獣を思い出して俺は思わず呟きをこぼした。
「ちょっと、ここに来る原因になった、俺に大怪我負わせてくれた魔物の事をな」
厄介極まる相手だったが、魔物はあれで彼等なりの制約が存在するようで、その情報こそが攻略の大きな鍵となるのだ。
あの魔獣も、もう一度やりあうことがあればもっと上手くやれる自信はあった。もちろん望んでやりたくはないが。
「どのような魔物だったのですか?」
「えっと、銀色のたてがみで、闇魔法を使ってくる魔獣だった」
「ああ……ヤミノキバでしょうか?」
かなり大雑把な説明だったが、女神さまは心当たるものがあるのかすぐに名前を出した。
「名前は分からない……分かってたとしても、女神さまの知る名前と一致してなさそうだけど」
500年前の人魔大戦を境に、ジスルート大陸の生態系は大きく変化した。
ゆえに、人が再び大陸に踏み込んだ時襲いかかってきた魔物は多くが未知種で、新しく名称をつける必要があった。
ほとんどの場合、その未確認種との遭遇をはじめて報告した個人、または帰属する団体が新しい名前をつけることになる。
恐らくは、ロア達が情報を持ち帰った後に、ギルドがさっそく名前をつけていることだろう。
「転移を使っていた……あと最後には、影の分身まで使ってきたな」
「ヤミノキバで間違い無さそうですね。このあたりでもよく出ますよ。やや筋張った肉ですけれど、わたくしも煮込み料理などに使うことがあります」
「そ、そうか……」
微妙な笑みで相槌を打って、それから気を取り直して言う。
「転移魔法陣が使えないなら、徒歩で行くしか無いな」
「……えっ?」
まるきり想定外な事を聞いた、という声で聞き返す女神さまに、俺は地図を取り出して説明する。
「やってやれない訳じゃあない。今いるのがここらへん、サツネ村だっ
け?」
地図の北西を指し示す。そこから指を東にずらしてゆく。
「このあたりに、最前線踏破組の冒険者達のテントがあるって聞いてる。ここまで辿り着ければ……」
数日前にカルサノで聞いた情報、その情報が届くまでの時間差も考えると数週間前の情報だろうが、そうずれてはいないだろう。
「サツネ村からこのあたりまでの地形も、多くが平原や林だ」
それも500年前の情報で、なんでもかつての戦いは山を打ち砕き谷を生むほどだったというし、大きく地形が変わっている可能性も無いではないが。
「……魔物を全部無視して走り抜けて、うまくいけば10日の距離だ」
俺の説明を黙って聞いていた女神さまを見れば、眉根を寄せて難しい顔。
「言ってはなんですが……この村の付近だけ見ても、ヤミノキバより強力な魔物も多く出没します。カレットさんが一人で抜けられるとは……」
「そこはほら、女神さまに攻略の手立てを教えてもらってだな」
言いつつも俺は、正直無理な気もしていた。懸念事項が多すぎるし、無謀な行為と謗られても否定は出来ない。
しかし――
「ここにずっと留まる、という選択は出来ない」
「そう、悪いものでもないかもしれませんよ?一人きりはとても寂しいものでしたが……二人なら、きっと全然違います」
まるで悲しさ、あるいは切なさの込められた声で、女神さまが言う。
「……あるいは、女神さまを縛り付けている原因をどうにかして、一緒にここを出よう」
「それは……」
うつむく女神さまに、俺は言いつのった。
「教えてくれないか?なぜ、数百年もここにいるのか。いや、そもそもどうして、ここに一人きりで取り残されることになったのか」
「……はい」
彼女は小さな声で、頷いた。