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「解放、03。明度、05。発動、01」
俺の言葉に呼応して、前方の宙空にぼうっと光を放つ小さな球体が生まれる。
照らし出された地面は、石畳。
「人工物……?」
上を見上げると、俺が落ちてきたと思しき穴までは目測で20メートルほど。
とっさに風を生み出す魔法を発動し落下の衝撃を軽減したが、暗闇で地面までの距離も、周囲の状況もわからない状態、ほとんど勘でとった受け身でどこも骨折しなかったのは奇跡的と言えるだろう。
ただ衝撃を完全に逃し切れなかった両の脚は悲鳴を上げているし、瓦礫でつけた細かな裂傷の数々が絶え間なくじくじくと痛む。
俺は座り込んで足を伸ばし、周囲を見渡した。
「解放、03。明度、08。始動、01」
光を強めかなり奥のほうまで照らすも、壁は見えない。かなり広い空間のようだった。
「地下施設、か。ロアなら建築様式からどういう用途の施設だったかまで特定しちゃいそうだな……」
あいにくと今は一人。俺は一度息を吐き出すと、気合を入れなおして立ち上がった。
ここが何かしらの施設であったならば、地上に繋がる正規の出入り口が存在するはずだった。
埋まっている可能性も高いが、先程から迎撃に度々使っている爆破書述陣は元は掘削用、層の薄い土砂壁であれば突破出来るはずだ。
残りの枚数は心もとないが他にアテもない。
出口がどちらかも分からないがとりあえずは壁伝いに、と俺が足を動かそうとした時。
ふと予感を覚え、俺はほとんど転がるように前へと姿勢を倒した。直後に、背後で鋭く空を切る音。
俺は一回転して素早く起き上がり、そして全身から血を流す執念深き四肢の魔獣と、またも対面した。
「さっきので殺せなかった、か……」
魔獣を倒すのは思う以上に難しい。例えばその生命力の強さ。例えばその理不尽な魔法。
初撃をかわされた魔獣は俺を憎々しげに睨みつけ、そして生じた闇の中に姿を隠した。
再び魔法転移によって死角から襲いかかる気に違いなかった。
魔物の使う魔法は、人間の使う、魔法陣あるいは書述陣を用いた魔法とは、全く別の法則に則っている、と言われている。
元を辿れば現象を引き起こしている力は同じ、されどそれを引き起こす方法が、その過程が別物。
魔物の魔法は、人間からすればほとんど反則みたいなものだ。
無詠唱で遠距離に攻撃魔法を出現させ、死角から襲わせるだとか、
ノータイムで発動する、避けようの無い範囲魔法を使ってくるだとか、
前動作無しでの転移だとか。
魔物の使う魔法はこんな現象を当たり前に引き起こす。
――では人間はそれにどうやって対処するのかというと。
ひとつにはまず、仲間と協力して死角を作らないこと。そして僅かな魔力の揺れさえも見逃さないことだ。
こればかりは実際に魔物との戦闘の経験を積まなければ培えない感覚であるとされ、逆に言えばその感覚を鍛えるまでは魔物と正面切って戦うのは無謀なのだ。
熟練の冒険者であれば、魔力の流れを察知して、魔物の転移先を先読みして攻撃を振るうことさえ可能であるらしい。
勿論俺にはそんな芸当はできない。
先ほどの魔獣の奇襲を避けれたのは、俺もこの逃げ惑う半日の間に多少は成長したという事なのかも知れなかった。それを喜べる状況でもないが。
ふいに押し迫る死の気配を感じ、俺は体をひねった。かわせたという確信と安堵、しかし。
一拍遅れて、全く想定外の方向から接近するそれに対し、とっさに左腕を突き出す。
「っ……うぁ……!」
痛みに明滅する視界。それでも俺は生き残るために、攻撃の正体を確かめなければならなかった。
はじめにかわした攻撃、それを為したのは――
「黒い体……影……虚像かっ!」
そして今俺の左腕に牙を食い込ませているのが、くすんだ銀色、はたまた灰色のたてがみを血に朱く染める、本日もっとも接近することになった魔獣の頭部。
俺はその頭を右手で殴りつけるも、効いた様子はない。それはそうだろう、力の抜けた俺の拳が効くはずもなかった。
――落ち、つけっ!
こんな状況であっても、冷静だけは失ってはならない。
俺は自分に言い聞かると、震える手で一枚の書述陣を取り出した。
ロアから預かったそれを額に軽くあて、まるで祈りを捧げるかのように瞼を閉じる。
「始動、01。指定、49。発動、01」
指の間から紙片がこぼれ落ちる。
痛みに苛まれていた思考がクリアになっていくのを感じ、俺は今一度、目の前の獣を視た。
これは、この魔獣を確実に仕留められるチャンスだ。
俺は腰帯に括りつけられた鞘からナイフを抜き放った。ここまでの戦闘では一度も使う機会のなかった、ごくごく小振りの代物だ。
もとより戦闘用のものではない。
俺はそれを振りかぶり――ディグのつけた肩の傷へと突き立てた。
そのままえぐりこませ傷口を広げたところで、すぐにナイフを抜き取り放り捨てる。
かわりに書述陣を取り出し、傷口に押し込む。更にもう一枚を手に構え。
「始動、ああもうっ。発動、04。02!」
気が逸って俺は詠唱を省略し、そして紙から手を離して、片足で思い切り魔獣の腹を蹴りつけた。
それだけではまだ、深く食い付く魔獣と距離を取るには力が足りない。
しかしその蹴りとほとんど同時に空間に巻き起こった強い風圧が、俺と魔獣を強制的に引き剥がす。
間近で生まれた風による衝撃、無理に抜かれた牙の跡による俺の身体へのダメージも相当なものだろうが――。
俺は急速に距離の離れる魔獣と、その血に濡れた瞳を見た。その視線の交差は一瞬で終わることとなる。
魔獣の肩に押し込められた書述陣、それを起点として起きた爆発により、魔獣はその半身をうしない、そしてそのままぴくりとも動かなくなった。
.
.
肩で息をしながらも、俺は必死に足を動かす。
きっとじきに動けなくなる。動けなくなればそれこそ、もうどうしようもなくなる。
先ほど使用した、自律神経に働きかける書述陣の効果が切れてからは全身が軋むようで、未だ歩けるのが不思議なほどだった。
一時的に痛みを抑え、普段以上の力を引き出した。精神を落ち着けるために使うのが本来だが、いざという時にはそういう使い方もあると認知されている。
そんな書述陣。使用後の身体への負担が相当に大きく、よほどの場合以外では使用は推奨されていないが、魔獣を倒すためには仕方ない選択であった。
ふと視界に段差が映り、俺は重い頭を上向けて前方を見やった。
幅広で、奥行きの深いゆるやかな階段。そしてその先を目にして、俺はこの施設がなんであるかを知る。
「祭壇……?」
地下神殿、といったところだろうか。記憶にはこのあたりに神殿があったという情報は無いが、しかし。そんなことはどうでもよかった。
大事なのは、つまり、祭壇があるということはここが終点。俺は入り口から最も遠い場所にいるのだろういうことだ。
もはや何を目指しているのかもわからぬまま、ゆっくりと段差を登ってゆく。
最後の段を踏み越えて、俺は祭壇の目の前へとたどり着いた。見るとも無く地面を見やると、そこには巨大な円形の紋様が描かれている。
俺には全くわからない様式の陣であったが、ここで何かしらの魔法的儀式でも行われていたのだろうか?
体力尽き果てて、俺はその場に寝転がった。魔力光も消して、暗闇の中で瞼を閉じる。
「はー……」
長く息を吐き出す。もうこのまま眠ってしまいたい、そんな思いだが、まだ許されないようだった。
前触れ無く周囲で魔力が渦巻きはじめ、大気が鳴動し、青白い光が瞼を通して目を突き刺す。
この地下神殿を根城にしていた魔物が、無防備な姿を晒す俺を獲物にさだめ、攻撃魔法を仕掛けようとしているのか、そんなところだろう。
せめて見届けようと思い、瞼をあげようとして突然に身体が宙に浮いたかのような感覚に襲われた。
今日一日で何度も空を吹っ飛び、挙句には崩落からの自由落下、浮遊感にはすっかりお馴染みだが、これは少し違う感覚に思えた。
冒険者学校でも教官やメアにはさんざん投げ飛ばされたものだが、思えばあれも随分手加減されていたんだな、などと緊張感の無い考えがよぎる。
そして、いっとう光度を増した光に瞼を開けることさえかなわぬ間に、俺は再び背中に地面の感触を感じた。
瞼を灼く光が消え失せて、俺は徐々に視界を取り戻す。目に映ったのは――
「空……?」
細切れに雲がたなびく、夕焼け空であった。
あたりの様子を見ようと、俺は片腕をついてなんとか上体を起こした。
地面には円形の魔法陣、置かれている祭壇の形も先ほど見たものと同じように思え、しかし赤く染まった空はあまりに近くて、地下ではあり得ない。
「転移、か……」
元は屋内だったのだろうか。周辺には中途で折れた石柱が点在し、四辺には崩れかけの壁、地面には瓦礫が散乱している。
大規模な破壊があったことは想像に難くない。瓦礫に絡まるツタからして、それが行われたのは相当に昔のことだろうが――。
ざっ、と砂を踏む音がして、俺は観察を中断した。
今度こそ魔物のお出ましか、もはや抵抗する力は無いが穴蔵で死ぬよりは空のもとのほうがましに思えた。
迫る音の方向に顔を向ける。俺が見つめる前で、壁の陰から足音の主が姿をみせた。
――少女、だった。
染まることなど知らぬような、夕陽に照らされてなお白雪の髪。焼けることなど知らぬような、透き通る白磁の肌。
まるで無垢、あるいは清淨しか知らぬようなあどけなさの残る顔立ちに配された、碧色の二対の瞳で俺を見つめている。
適布を継ぎ接ぎ合わせたような粗末な衣服もその容貌を損なうことはなく、むしろ面積の足りぬそれが、少女には不釣り合いなまでに成熟した肉体を演出している。
血の足りていない己の頭が見せた幻覚か、夢かうつつかも知れぬほどの美しい少女に対して、
しかし冷静な部分が引き出したひとつの可能性を、俺は口にした。
「人型の魔物……?」
「ひとがたのまも……?」
そして、少女が全く同じタイミングで同じ言葉を口走りかけ、一瞬気まずい沈黙が流れる。
「……な、訳ないですよね」
すぐに少女は首を振って、俺の元に迷いなく駆け寄って来た。
「ひどい怪我を……」
おもむろに、少女は俺の背に手を回す。思わず身構えそうになるが、どうせ俺には抵抗のしようも無い、と力を抜く。
そのまま少女は、服が血に濡れるのも構わず、俺を強く抱きしめた。
「――癒やしを」
耳朶を抜ける透明な声が、耳元で囁くように唱える。たまらない安心感と、眠気を誘う声。
やわらかい光に包まれ、全身に広がってゆく暖かさを感じながら俺は意識を手放した。