10
俺と女神さま、それにシャルレーニと呼ばれた少女は、サツネ村の民家の一室で、火の熾された囲炉裏を囲んで座っていた。
対面のシャルレーニ、斜めに座る俺のあいだに視線をさまよわせる女神さまは、どこか落ち着きがない。
一方のシャルレーニは足を伸ばしてすっかりくつろいでいる風で、
「久しぶりね。私はずっと眠ってたから、そうはいっても数年ぶりだけれど。まだ女神サマがここにいるなんてね」
「……ええ。本当に、お久しぶりです」
旧知の仲のようであった。それはつまり、シャルレーニもまた、500年以上前から生きていたということなのだろうか。
いろいろと尋ねたくはあったがひとまずは二人の会話を静観する。
「また会うことがあるとは思わなかったわ」
「……わたくしもです」
返す女神さまの表情は、少し硬いようにも思えた。
シャルレーニは、そんな女神さまを見るともなく眺めるようにしていたが、
「この建物に来るまでに、全然人を見かけなかったように思うのだけれど、もしかしてここに二人きりで暮らしてるのかしら?」
ふとそんなことを言う。ほのかに頬を染めた女神さまが何か言うよりはやく、俺は素早く答えた。
「俺はただの仮暮らしだよ。居候ってとこだ」
遮られて、女神さまはややも憮然とした口調で、
「……そうですね。昼となく夜となく一緒に過ごし、毎晩ひとつの夜具で添い寝しますが、それだけです」
明らかに誤解をまねく物言いであったが、シャルレーニは思わしげな表情をみせるだけで、
「……そうなの。まあいいわ。せっかくだし、今晩はここに泊めてもらえる?」
「それは構いませんが……その後はどうされるのですか?」
「……ここに住んでるのなら、あなた達にも無関係な話というわけではないわね。こっちが今どうなってるのかも知りたいから……色々話さなくちゃいけないけれど、
その前にちょっと休みたいわ。ご飯も食べたいし。日の出から歩き通しだったのよ」
伸ばした足を自身で揉みほぐしながら、シャルレーニが言った。
「でしたら、まず食事と致しましょうか。わたくし達も、まだ昼食をとっていませんし……食事といえば、カレットさん、食材は……」
「ああ、それは……」
俺は言葉を濁した。見得を切って一人で出た手前、というのもあるが――
「魔物に殺されかけてたから、そんな余裕は無かったんじゃないかしら」
シャルレーニがあっさりとばらしてしまい、女神さまが目の色を変える。
「ころさ――?!」
「うん、まあ」
うまい誤魔化しも思い付かずに、曖昧に肯定した俺に女神さまは詰め寄った。
「ですからわたくし、お一人では危ないと申し上げたではないですかっ。帰りが遅くて探しに出たわたくしが、カレットさんの姿を見たときどれほど安堵したことか……」
俺自身の不注意で窮地に陥っていたことは事実なので、言い返すに言い返せない。
女神さまはシャルレーニに目を向けた。
「シャルレーニがカレットさんを助けてくださったのでしょうか?」
「そんなところね」
「ありがとう、ございます……カレットさんは、本当に目が離せませんね。どこも怪我はしてませんか?」
そう言って、俺の体をぺたぺたと触って確かめる女神さまに、今回ばかりは落ち度を認めざるを得ない俺は抵抗出来ない。
シャルレーニはそんな俺達の様子を興味深げに見つめていたが、やがて言った。
「それで、結局ご飯はどうするのかしら?私の、美味しくもない携行保存食をみんなで食べる?」
俺が負っていたかすり傷を、抱きついて魔法治癒していた女神さまは、それを終えてから、
「いえ、わたくしが準備して参りますので、お二人はここでお待ちください」
「じゃあお願いね」
目を離しがたいのか、女神さまは何度も振り返りながら部屋を出て行った。
その姿を見送り、シャルレーニが大きく息を吐く。
「あの女神サマが男に入れ込んでるなんて、ね……」
「いや、そういうのじゃないから」
興味本位のからかいなら御免被りたい、と渋い顔で返す。
「そう?まあいいけど。今後の身の振り方を考えておくことね」
「……どういう意味だ?」
問いかけると、シャルレーニは再度息を吐き出して、雨足の強まる窓の外へ目をやった。
「じき、ここは戦場になるわ」
透き通り、それで深みが足りないわけでもなく香り高い。しずむタケノコの風味とあいまって妙。
シャルレーニが女神さまの用意した汁物をしげしげ見つめて、
「これ、オニハトスープじゃない」
「覚えておいででしたか」
「覚えて、どころかなんなら昨日も食べたぐらいよ」
さもおいしそうにオニハトスープを吸って、ほうっと息をつくと、
「シロイ山脈で採れる山菜と香草だけで作れるから、重宝したわ。……でも、やっぱり本家はおいしいわね」
「それは、教えた甲斐もあろうというものですね」
シャルレーニは、やはりというかシロイ山脈を超えてきたらしかった。
人を見かけるはずがない場所に、みるからに山越えの装備。そうではないかと想定はしたが、にわかには信じがたいことでもあった。
俺も手元のお椀からオニハトスープを一口、それからつられたように嘆息する。
――女神さまの存在しかり、そんな常識に照らしあわせた疑問も今更か。
「それにしても、戦争ですか……穏やかではありませんね」
女神さまが話を再開する。シャルレーニは憂鬱そうに首を振って、
「まるきり500年前の焼き直しね。今回は、私にもどうしようもないけれど」
そう。シャルレーニの言葉を信じるならば、シロイ山脈の『向こう側』がこちらに戦争を仕掛けようとしている。
そういう話らしいのだ。
「……500年前にも同じことが?」
未だかつて、シロイ山脈のこちらと向こうを行き来したものはいない。それが俺の知っていた事実だ。
俺の言葉に、シャルレーニははっきりと首肯する。
「そうよ。その時は成り行きだったけれど私が防いだ。でも、今回はもう私一人で止められるような規模じゃないの。
だから、こっちの人たちに警告するために来たのよ」
「……はあ」
思わず上を仰げば、ひと月ですっかり見慣れた、木造の梁がかかる天井。
どうにもまた、俺の許容量を超えるおおごとな話のようだった。
しかし女神さまが代わりに尋ねてくれる様子はないので、俺は首を戻し、
「あの険しい山脈を軍隊が超えてくるのか?……それに、シロイ山脈には『瘴気』があるだろ。そもそも、シャルレーニはあれをどうやって超えてきたんだ?」
自然現象とも姿の見えぬ魔物ともいわれる、触れたもの全てを腐らせるそれこそが、『向こう側』とを隔てる最も高い壁。
「瘴気?……ああ、有害魔素のことね」
「有害、魔素」
言い換えられた言葉は、実にわかりやすい字面だった。
シャルレーニは指を伸ばして言った。
「こっちに抜けてくる方法は三つあるわ。ひとつ、有害魔素を『停止』させて通り抜ける。これは今は私しか出来ないから気にしなくていいわ」
「……停止?」
聞き返すも、シャルレーニは無視して二本目の指を立てる。
「ふたつ、超高空を飛んで抜ける。これも失敗に終わったって記録を見たから、ひとまず気にしなくていいと思う」
魔法で空を飛ぶ方法があるのは知っている。見たこともある。だが、俺の知るそれは、あのシロイ山脈の更に上を超えるなど考えるのも馬鹿馬鹿しいようなものだ。
圧倒的に限界高度が足りていない。
「みっつめ、これが肝心ね。有害魔素ってようは毒ガスだから、中和すればいいだけなのよ。それが可能になったのは最近みたいだけれどね」
シャルレーニは指をおろして、代わりに顔をしかめた。
「ディアレーニっていったかしら、あの男。あれで先生の子孫だなんて信じられないけど、中和魔素を開発する程度の能はあったみたいね」
「……ここを通るのでしょうか?」
黙って話を聞いていた女神さまが、ふと口を開いた。
「瘴気をどうにか出来たとして、それでもあの山脈を通り抜けて来られるルートは限られているのでしょう?」
それで俺も気づく。シャルレーニがここにいるということは、
「ええ、そうよ。私とおおまかには同じルートでしょうね。だから女神サマ達にも無関係じゃないといったのよ」
「ここが、戦場になる……」
「わたくしが、そんなことはさせません」
俺がつぶやくと、女神さまは俺に腕を伸ばし、手のひらを重ねて強く力を込めた。
「わたくしが、カレットさんも、この村も守ります」
「……女神サマなら出来るのかもしれないけど、ね。私は明日の早朝には発つから、その後は好きにして頂戴。時間に猶予はないから離れるならはやめにね」
「発つって、」
俺は女神さまを見た。俺の手をぎゅっと握ったままの女神さまの表情を、みて、
「……シャルレーニ、俺も連れて行ってくれ」
そう言った。
大粒の雨粒が壁を殴りつける音が、ずっと響いている。
暗い部屋のなかでいつものように、俺は背を向け、そこに彼女が寄り添って。
やかましく騒ぐ雨と相反して、俺たちは無言だった。
俺は女神さまにかける言葉を持たなかったし、女神さまもきっと、何を言えばいいのか分からなかったのだろう。
まっすぐに不器用に、俺に尽くしてくれた女神さまを見捨てるなんて薄情だと思った。
仲間との再開を諦めて、茶髪の少女との約束を諦めて、ここに留まるなんて許されないと思った。
だから俺は、口を開かなかった。
「それじゃ、そろそろ出発しましょうか」
まだ夜明け直後、薄暗い時間に俺と女神さまは、別の家で晩を明かしたシャルレーニに起こされた。
相変わらず空は灰色一色だが、一応雨はやんでいる。地面はぬかるんでいるが、シャルレーニは問題ないという。
「荷物はちゃんとあるわね?」
前日俺は急遽荷物をまとめることとなったが、もともと持っていた私物以外では保存食だけしか持たなくて良いという。
「ああ、大丈夫だ」
「……カレットさん、これを」
女神さまが俯きがちに、魔弓を俺に差し出した。ひと月使い込んだ斜影弓であった。
「……女神さま」
躊躇って、受け取る。
「魔弓の練習、途中で投げ出すことになってごめん。戻って来れたら……戻って来たら、またお願いしていいか?」
「……はい」
女神さまは何かを必死にこらえてるような、そんな表情で、小さく頷いた。
「……世話になった」
「……行きましょうか」
俺が女神さまと別れを済ませたのをみてとって、
「一宿一飯、ありがとうね。女神サマの無事を祈ってるわ」
シャルレーニはそう言って、ザックを背負って歩き出す。振り返らない、とそう決めて、それに続く。
しかし。
十歩も行かぬうちに、呼び止める、
「まって……、くださいっ」
泣き出しそうな、否、泣いているかのような、女神さまの声。
「……あなたにはっ……連れて行かせません!」
シャルレーニが足を止めて振り返った。俺の肩越しに、女神さまを、見る。
「あなたには、ね……。それは、ヒノヤミのことを言ってるのかしら?」
シャルレーニが、『魔王』の名を口にする。
女神さまの返答は、聞こえない。ただ緊張だけが張り詰めてゆく。
「私が、ヒノヤミを連れて行ったから?私が、っ……わたしが、ヒノヤミを歪めたとでも?狂わせたとでも?」
「……そうは言ってません。あれは、わたくしが悪いのです。苦しんでいるヒノヤミのことを、分かってあげられなかったから」
「違う!」
語気を荒げ、シャルレーニは俺を通して女神さまを睨みつける。
「そうじゃない、そんなことじゃないわ。女神サマは、本当に何も分かってないわね」
「……ヒノヤミにも、そういわれました。わたくしには、分からないと」
応える女神さまの声は、あまりに弱々しくて。俺はたまらず振り返りかけたが、シャルレーニが俺の手をひいて、それを制止する。
「とにかく、カレットは連れて行くから。女神さまがここに残りたいのなら、勝手にそうして」
そう言って歩き出そうとし、俺たちの目の前の土が突如盛り上がり壁となって立ち塞がるのみて、溜息を吐いて止まる。
シャルレーニが女神さまのほうを再度振り返り、今度こそ、俺もそちらを見る。
そこに立つ女神さまは半分、泣き顔で。
「……連れて行ってはダメです」
女神さまの呟きが、湿った空気に乗ってかすかに聞こえた。
「水よ」
呼応して、女神さまの周囲に、手のひらほどの大きさの、球体状の水がいくつも生み出される。
半透明のそれらは、水球の内に向かって脈打つように模様を描き続け、同時に女神さまの周囲をぐるぐると、螺旋を描いて回っている。
悲壮な表情を刻む女神さまの様と相まって、こんな場面でなければ一種の芸術にも思えただろう。
今この瞬間の俺には、ただただ物悲しく映った。
「……走る準備をしておきなさい」
シャルレーニが俺にささやく。直後、俺の見ている眼の前で、水球が全て動きを止める。文字通りに、わずかにも泡を打つこと無く、中に浮かぶ彫刻となって静止する。
昨日にも見た現象だ。しかし、アカイツメの炎もヤミノキバの息遣いも、全てが止まっていたそれと違いもあった。
「やっぱり止められないか」
「やはり止められますか」
シャルレーニと女神さまの一致しないセリフに、俺は見当をつける。
――女神さまは止められない。
シャルレーニはやにわ走りだした。腕を引っ張られる俺も、なんとか足を絡ませずについてゆく。
土壁が立ち塞がる方でもなく女神さまの立っている方でもなく、横へ。
再び前方の土が隆起し壁となりかけるも、途中で止まり、俺とシャルレーニはそれを飛び越える。
ふと気づけば、ぬかるみに足を取られぬようにという配慮か、進行方向の地面も固められているようだった。
硬い地面を踏みぬけ走りぬけ、そこでシャルレーニは足を止めた。
雨上がりの朝、空気にはずっと白もやが掛かっていたが、急にそれが深くなったように感じられた。
色濃く、重く。
だんだんと、それらが集まりかたまってゆき、霧が粒に、塊に、さらに大きく。
気づけば、俺たちは三方面をまるで滝のような水の壁に覆われていた。
残る一箇所、背後から、泥の上をゆっくりと近づいてくる足音。
「――諦めて頂けませんか」
女神さまは、辛そうな表情で言う。
「……弱点、知ってるんだったわね」
シャルレーニはしばし女神さまを睨みつけていたが、ふいに俺の背中を強く、女神さまのほうへ押しやった。
疲れたように息を吐いて、背を向けて歩き出す。
「もう、いいわよ。無駄に疲れたわ。もともと私の目的とは関係ないし、好きにしなさい」
「……ごめんなさい」
女神さまは、果たしてシャルレーニの耳に届いたか分からない小さな声で言って、周囲を覆っていた水壁を霧散させる。
同時、シャルレーニもまた、中間に立つ俺以外には届いていないかもしれない、ささやくような声で、
「……後悔するわよ、女神サマ」
そうしてシャルレーニは立ち去った。
俺はしばらく、その場に佇み立ち尽くすばかりだった。
タイトル回収!