主
「……野乃花」
もう既に深雪は去った後だった。優秀な部下を想い、日良は小さく呟いた。
「これで野乃花が無事であることは間違えないのですね。しかし、自分で送り出しておいてなのですが、野乃花と海人のことが心配でならないのです。つい今の今まで、咲希様のお隣を歩かせて頂けることに浮かれていたというのに、です」
どこか冷めたところのある日良だから、自分の気持ちをこうもまではっきりと言ったことに、咲希は少しばかり意外に思っていた。そして日良の言葉により、自分の中にも急に心配というのが溢れて来たのであった。
「大切に想う人がいるというのは、それを忘れるなというのは、お互い様のことだ。あいつがどれだけすごいのかは、今のを見ただけでも十分に見て取れたことだが、だからって心配しないのとは違う。それなのに、あいつは、深雪は……」
「きっと、彼女もどこか野乃花と似たところを持っているのでしょう。さすがの野乃花も、あれほどに見事な才能を持ってはいないでしょうが、何事も器用に熟しますから、だからこそ、自分のことを捨て駒のようにすら考えてしまうのです」
苛立たしげな咲希に対し、日良は静かに告げた。目の前で深雪の技を見せ付けられ圧倒されたところで、二人揃って自分の無力さを思い知らされたようであった。突然現れた深雪の言葉を聞かされ、そのまま深雪が風のように一瞬で消えてしまうものだから、二人揃って言葉が心に残されてしまったのかもしれない。
「姫という身分のせいで命の価値に差が生まれるというのなら、私はそんな身分は捨ててしまいたいよ。日良、私に降伏したお前は、もう国を背負う予定はないのか?」
日良は薄い笑いを表面に浮かべた。
「ありません。私は咲希様を信じたのです。咲希様の作る国が、咲希様の思い描く世界が、理想であるかのように私には見えてしまったのですよ。争いのない世界を望んでいるのは同じこと、それなら、私たちで争う理由はないと思ったまで、降伏した理由はそれだけのことです。上に立つ人間として咲希様の方が相応しいかと考えたのですが、ご迷惑でしたか?」
薄い笑顔から吐かれる薄い言葉には、たくさんの嘘が籠められていた。人の好い日良とはいえどもそんな綺麗事ばかりではなくて、彼の私欲が大いに含まれてしまっていることを、自分ですら気付かないような日良はそういう鈍感な人間ではない。
もし彼が素直な気持ちでしか言葉を紡いでいないのなら、彼の瞳はいつもこれほど遠くばかりを見ていることはなかったろう。もし彼が自分に自信を持っていたのなら、言動が嘘らしく見えることもなく、咲希に疑われることもなかったろう。つまりは咲希と日良が二人で話をすることが、これほど遅くはならなかったのだ。
しかし日良は日良だった。彼は、困ったように眉を下げて笑った。




