第13話:決闘 響く音色はソラの元へ
「決闘……?」
青空は音羽が突然申し込んできた挑戦に戸惑って困惑していた。それ以上に、周囲の生徒達がヒソヒソと小声でありつつも騒ぎ始める。
「決闘ですって……」
「勝てるの?」
「というか、なんで魔法さんが?」
決闘するという事自体に疑問を持っている者が多く、それ以前にどうして音羽が青空に戦いを挑むのかも分かっていない。
しかも今まさに青空はスペイジョンを倒してみせたばかりだ。そんな青空に喧嘩を売るような真似をする音羽を、皆は一体どういうつもりかと不審に思う。
青空は音羽を睨み続けていたが、目線をぶつけ続けているうちにフッと笑って音羽の挑戦を受け入れる。
「いいですよ、ごちゃごちゃ言うよりその方が早いですしね」
「私に勝てないんじゃこの先一人で戦い続けるなんて出来ない。そういう事になるよね」
「ええ、万が一私が負けたら何でも言う事聞いてあげますよ。勿論、私が勝ったら二度と私の邪魔をしないと約束してもらいますけど」
売り言葉に買い言葉とでも言った感じに二人は条件を出し続け、明日の放課後に校舎裏の森で戦うことが決まった。音羽は野次馬を掻き分けてこの場から離れて、立ち去って行ってしまった。その背中を見送るしか出来なかった一同だが、ジュンはただ一人音羽を追いかけた。
肩を掴んで引き止めると、一体どういうつもりなのか問い詰める。
「音羽、どうして決闘なんかするんだ」
「えっと……その……」
「確かに真白の態度は気になるが……でも、お前らが争ったら本末転倒だろ。何考えてるんだ」
ジュンの問いに、音羽は答えなかった。音羽にしては歯切れが悪く、はっきりとしない態度だ。
隠し事をしている訳でもないのにこんな態度を取る音羽は珍しい。何を考えているのか、答えるようジュンは再度問い詰める。
「教えてくれ。一体どうしたんだ」
「えっと……分かんない」
「は?」
音羽は観念して正直に答えるが、その返答は答えになっていなかった。音羽は目を逸らして頬を掻いて気まずそうにして笑い始める。
「気づいたらその……あんな事言っちゃってて……いやーまいったなーアハハ」
音羽だって青空と戦う気は一切無かった。しかし、何故か勝手にあんな事を口走ってしまったのだ。ジュンは呆れて肩を落として頭を抱える。
「お前な……どうするんだよ。青空と戦うって、ウィクターにならないといけないんだぞ。そうしたらお前の正体が……」
「やるって言っちゃったからやるしかないよ……まあなるようになるって」
音羽はジュンの肩を叩いて心配しないように告げると、その場を走り去って行ってしまった。ジュンは心配ではあったものの、放っておくしか出来なかった。
このままだと確実に野次馬が集まり、それらにウィクターの正体が音羽だという事が知られてしまう。
(……まあ、あいつがいいならそれでいいか)
いつまでも隠し通す事は出来ない。それに音羽自身もいつかは打ち明けるつもりだったのだから、少し変な形になったが今がその時なのかもしれない。
音羽なら、なんとかするだろう。そう信じて任せる事にした。
音羽は学園の屋上で一人佇んでいた。悩んだ時や一人でいたい時はこうした人がいない場所でバイオリンを弾いたりしていたのだが、今はそんな気分ではない。
明日青空と決闘をする事になってしまったが、どうすればいいのだろう。勝たなければこれ以降青空に話を聞いてもらう事すら出来なくなってしまう。だが、ただ勝てばいい訳ではない。それでは、いけないのだ。
だがこれといっていい案がある訳でもなく、音羽は溜息を吐いてフェンスに寄りかかった。
「危ないわよ、音羽さん」
「星先輩?」
突然誰かから声を掛けられて驚いたが、その相手が星だと分かると音羽は星に相談を始めた。
「えっとその……ちょっと色々ありまして」
「聞いたわ。スペイジョンを倒した子と決闘するんですって?」
「はい、そうです」
「あまり感心しないけれど……仕方ないわね」
思っていた程星は怒っていない。てっきり叱られるものだと想像していた音羽は、以外に思って拍子抜けする。
そんな音羽に、星は溜息を吐きつつも穏やかな笑みで語りかける。
「貴女のする事って、結果的に正しい事だと思えるから。自分の信じた通りに動けばいいのよ。私も、そうしてきたから」
「自分の、信じるように……」
音羽は自分の胸に手を当てる。星がしたようにするという事に、ちょっとした勇気が貰えた気がした。
星に頭を下げて感謝すると、音羽はいてもたってもいられなくなってこの場を立ち去った。突然過ぎ去って行ってしまった音羽を見て、星は苦笑する。
弓子はそんな星を見て、目を閉じて話し掛ける。
「お嬢様もすっかりアレの事が気に入ったようですね」
「そ、そういう訳じやないわ」
顔を赤くして否定する星が面白くて、弓子は思わず笑ってしまうのだった。
自宅に帰った音羽は、真っ直ぐにリビングへ向かってある場所に立った。バイオリンを飾ってあるケースを横へずらすと、そこには大きな穴が隠されてあった。
ここはレッドバットが元からいた場所、というよりレッドバットが命を持つ前の魔石が隠されていた場所である。この魔石が音羽の魔力に反応してレッドバットとして生まれたのが、一年前の出来事だ。
「音羽、コレを使うのか?」
「うん……今が、その時だと思うから」
何かを見下ろす音羽の周りを、レッドバットが心配そうに飛び回る。音羽の肩に止まると、一緒になってそれを見下ろす。
視線の先には、赤色の輝きを放つ大きな魔石があった。レッドバットの元になった石の他にも、もう一つだけ魔石がここに隠されてあったのだ。
何かに使えるかもしれないし、家に隠されていた物だから先祖の大切な物なのかもしれないと使わずに取っておいたのだ。
それを使うのかと、レッドバットは音羽に再確認する。
「うん、今がその時だと思うから」
「そうか……初めてだな、お前が誰かと喧嘩するなんて」
「喧嘩?……け、喧嘩かぁ」
言われるまで気づかなかったが、確かにそう言われるとそうだ。決闘を正面から挑んでいるせいでいまいち実感が湧かないが、意見の違いでぶつかるのは喧嘩と言えば喧嘩だ。
だが、そう考えるとますますどうしてあんな事を言い出したのか謎だ。考え込んでいると、レッドバットが音羽の肩から飛び立って周囲を飛び回る。
「いつものアレやれよ、音羽。そうすれば大体なんとかなるだろ?」
「赤バ……うん、そうだね」
気分が乗らないから弾かないでいたが、自分に向き合いたい時はバイオリンを弾くのが一番だ。音羽はケースからいつも自分が持ち歩いているバイオリンを取り出すと、瞳を閉じて演奏を始めた。
部屋にバイオリンの美しい音色が響き渡り、レッドバットは邪魔にならないよう壁の止まり木に捕まって動きを止める。
バイオリンの音色を聞きながら、音羽は自分の心の中を探る。自分では気づかなかった思いや事実が、音楽と繋がる事で見えてくる。どうして青空に戦いを挑んだりしたのか。話し合うだけでも良いのに、それをせず正面から決闘を挑んだ理由。
それを知った時、音羽はピタリと演奏を止めた。
「……うん、分かったよ。魔法音羽」
「…………へへっ」
何かに気づいたからか、自信に満ちた顔の音羽を見てレッドバットは笑った。
いつもの、馬鹿正直に真っ直ぐな魔法音羽の顔。自分の相棒の、いつもの顔だ。
翌日の放課後、校舎裏の森の開けた場所に音羽と青空は正面から向き合って立っていた。
新聞部の面子は勿論、噂を聞きつけた生徒達も数人野次馬として見物に来ている。サスケはこの決闘がそこそこ注目されている事を実感すると不安になってヨウに尋ねた。
「音羽先輩、決闘なんてどうするつもりなんスかね。お得意の自爆に巻き込むつもりっスか?」
「……さぁな。それだと無理だと思うが」
ヨウは歯切れの悪い返事を返した。音羽の勝つ算段、それに心当たりが無い訳ではないのだが、それが真実である確信はなかった。
ジュンは野次馬が集まっている事に呆れながら舌打ちをして足を揺する。
(分かってはいたが、こうも野次馬が多いとな)
音羽はちゃんとここまで考えて行動していたのか疑わしくなってきた。だが、音羽なら何も考えずに行動していてもおかしくないし、事実無意識のうちに動いていたと自分で言っていた。
全てを成り行きに任せて、ジュンは音羽を見守る事にした。
青空は音羽を見て鼻で笑った。自分の髪を指で弄りながら話し掛ける。
「てっきり隠れて変身して、後からやって来ると思ってましたよ」
「言ったよね、別にバレても構わないって」
「ああ、そうでしたね」
サスケ達は一体何の事を話しているのか分からずに首を傾げる。
外野の喧騒を無視して、二人は言葉少なく向かい合う。青空はベルトを取り出して自分の腰に巻きつけると、プログラムキーを取り出す。
「私が勝つ。私は……一人で、勝てると証明します」
「そんな事無い……貴女の本音、本当の心はそんな事望んでない」
「くだらない……」
もう言葉は要らない。二人に残されたのは、ただ正面からぶつかり合う事のみ。
青空はプログラムキーを起動させて、音羽はレッドバットを呼びつけた。
『Stand by』
「レッドバット!」
「派手に決めようぜ!!」
どこかから飛んできた蝙蝠に、野次馬達はざわめいて動揺を始める。サスケ達もいつもウィクターといる蝙蝠が現れた事に驚愕して互いに目を合わせる。
音羽は、レッドバットに左手の魔石を噛ませて魔石を共鳴させる。魔力が循環し、変身の準備が整う。
「変身」
「変身」
『Liberate』
二人は同時にレッドバットとブレイブキーをベルトに装着し、変身した。
水色のオーラが集まると、青空の体に一瞬にして装甲が装着されてエンブルスへと姿を変える。そして、その青空と向かい合う音羽も、次々と魔装束を身につけてウィクターへと変身した。
音羽がウィクターへと変身した事に、周囲は動揺を走らせた。目の前で起こった事が理解できず、ただ唖然とする事しか出来ない。
その中で、ジュンだけは真っ直ぐと二人を見つめていた。あの二人の行くすえを見届ける為に。
音羽は青空に向かって駆け出し、青空はシンパニッシャーを腰から取り出して構える。振り下ろされる剣を左手の甲で受け止め、右手で胸に拳を撃ち込み怯んだ所に更にキックを叩き込む。
青空は吹っ飛ばされて地面を転がり、起き上がった頃には目の前に音羽が迫っていた。咄嗟に剣を横に振って反撃するも、音羽にジャンプでかわされる。
音羽は両手を青空の肩について則天すると、パッと体の向きを逆に変えて青空の腹に膝蹴りを叩き込む。あまりのダメージに青空が怯むと、続けて右手で思いっきり青空を殴り飛ばした。
「っ!」
追撃を仕掛けようとした音羽だが、体勢を整えた青空がシンパニッシャーの射撃で反撃してきた為、銃弾を喰らって動きが止まる。
その隙を突いて素早く接近した青空は音羽の体を何度か斬りつけ、最後にシンパニッシャーの十字架部分を叩きつけて吹っ飛ばした。
地面を転がった後に素早く起き上がる音羽だが、青空が銃口を向けて構えている事に気がつくと動きを止めた。
「……」
「……」
互いに無言で睨み合っていた二人だが、徐々に動きつつ距離を取る。お互いの動きを警戒して膠着していた空気が、音羽が走り出した事で決壊した。
音羽が動き出した瞬間にトリガーを引いて射撃をして、銃弾が音羽の体へと命中した。だが、銃弾を喰らい続けても音羽は怯まずに走り続けて青空に接近する。
「っ!?」
続けて射撃を続ける青空だが、音羽が足を止めずすぐそばまで接近する。高速パンチのラッシュを叩き込み、ダメージで怯んだ隙に肩を掴んで地面へ転がせる。
青空はすぐに起き上がるが、その瞬間音羽の飛び膝蹴りが右手に命中し、シンパニッシャーを落としてしまう。
「ハァーッ!」
「グッ……」
また連続で拳を撃ち込んで攻撃し、青空は度重なる攻撃に弱り出す。青空は隙を見て反撃で拳を音羽の肩に叩き込むが、音羽もすぐに蹴り返して空を吹っ飛ばした。
地面を転がったあとに舌打ちをして音羽を睨みつける。そんな青空を見て、音羽は身構えた。
青空がパニッシャーキーを取り出すと同時に、音羽もシンフォニーストーンも取り出してレッドバットに咥えさせる。
「シンフォニーストーン!」
『Soul Charge』
お互いの必殺技が発動し、それぞれの背景が太陽と夜空に覆われる。青空は燃え盛る灼熱の太陽を背景に右足に力を溜め、バチバチと激しい火花を散らす。
音羽も、両手をクロスさせて身を屈めて構える。鋭い眼光で相手を睨みつけると、右足の魔石が輝いて力が解放される。
そして、音羽は天高く飛び上がり、右足を突き出して必殺のムーンズリチュアルキックを繰り出した。一つ目の魔石が右足に魔力を集中させ、二つ目の魔石が羽を展開させて力を解放させる。そして、最後に三つ目の魔石が魔力を発生、増幅させる。
今まで以上に赤いエネルギーを纏わせたキックが青空目掛けて真っ直ぐに向かっていく。
青空も灼熱のエネルギーを纏ったキックで迎え撃ち、二人の必殺キックが正面からぶつかり合う。足と足とがぶつかりあった瞬間、激しい衝撃が広がって大地が揺れる。
「ハァッ!」
「あああぁぁ!」
青空は叩き込まれた衝撃を堪えきれず、勢いよくぶっ飛ばされる。地面をゴロゴロと何回も転がり、うつ伏せに倒れて動きを止めた。
そして、水色の装甲が解除されて消え、青空は元の改造した制服姿に戻る。
音羽は地面に着地すると、大きく深呼吸して調子を落ち着かせて青空に向かってゆっくりと歩み寄る。
自分に向かって近付いて来る音羽の気配を感じながら、青空はぼんやりとした頭で目の前の現実と向き合っていた。
負けた。誰がどう見ても、青空の負けだ。
その事実を理解するのに、暫く時間が掛かって気づいた時には既に自分の側に音羽が立っていた。自分を見下ろす音羽を、呆然と見上げる。
そう言えば、負けたら何でも言う事を聞くと言ってしまった。この勝者は一体自分に何を命令する気なのだろう。
これから一緒に戦闘すると強要してくるか、雑用でも命じるつもりなのか。
青空がそんな事を考えていると、音羽は真顔から一転して眩しい位の笑みを浮かべて青空に手を差し伸べた。
「ようこそ、我が新聞部へ!」
「…………は?」
何を言われたのか理解するのにまたそれなりの時間を要した。
音羽の命令は、今までの話の流れを無視した新聞部への入部を決める物だった。
あれから青空の手を引っ張って起き上がらせると、そのまま野次馬を掻き分けて連れ出した。ジュンが呆れ顔しつつも手伝ってくれたおかげで、誰にも引き止められずにあの場を去る事が出来た。
二人が廊下を歩いている間、言葉はなく無言だった。
たまにすれ違う生徒達も、小声で会話しているだけなので二人の周囲はほぼ静寂な時間が流れていた。
殆どの生徒達は部活の最中か帰っているかで、残っている生徒は少ない。やがて中庭の東屋に辿り着いた音羽は、青空の手を離して数歩進むとクルッとターンして向き合った。
「……何が目的なんですか。入部なんかさせて」
「えへへ、知りたい?」
今まで口数少なく年上の空気を出していた音羽だが、すぐにいつもの飄々とした振る舞いで青空に接する。青空は音羽の企みが何なのか分からず、困惑していた。
そもそも青空が一人で戦えるから手を出すなという主張をしたのが今回の騒動の原因だったはずだ。
その結果が、青空を新聞部へ入部させるという結果で終わろうとしている事が、全く理解出来なかった。一体音羽が何を考えているのかと青空は確かめたくて仕方がなかった。
音羽は人差し指を唇に当てて考えていたが、やがて笑いながら話し始めた。
「なんで青空ちゃんに決闘なんて挑んだのか自分でも分かってなかったんだけど……自分と向き合ったらすぐに分かったよ。私はね、青空ちゃんと正面からぶつかり合いたかった。私の正直、青空ちゃんに受け止めて欲しかったんだ」
「意味分かりません」
「そうだねー。でも、言葉でいっても駄目だっていうのは分かったから。だからもう体でいくしかないってこう……本能的な……第六感的な……ソレでああして」
「適当だったんですね」
青空は呆れて何も言えなかった。言葉で駄目だからと実力行使で出るのは分からなくはないが、それでももっとやりようは他にあったはずだ。
それに、今まで隠してきたゥィクターの正体を明かしてまでする事とは思えない。
青空はそう思ったが、音羽は首を横に振って否定する。
「新聞部は私が一番好きで……私らしくいられる大切な居場所だから。私の好きな事とやりたい事。全部を言える場所だから、その皆に隠し事していない状態で青空ちゃんに新聞部に来て欲しかったんだ」
「どうして……戦うだけなら、そんな事する必要ありません。ただの戦力に、そんな誘いする必要はないはずです」
「戦力なんかじゃないよ。青空ちゃんは私の……私にとって大切な人だもん。もう、友達のつもりなんだよ?」
青空は柔らかな笑顔を向けながらそんな事を言う音羽を見つめ返して、沈黙していた。
その言葉はとても嬉しかった。ありがとうと言いたくもなった。
でも、出来なかった。
顔を逸らして、俯いたまま青空は音羽を拒絶する。
「……出来ません。私は……今まで、ずっと一人だった。家族以外、家族だって……大切な時にはいつもいなくて、一人だった。だから……言葉も、行動も、信じられない。貴女が何を考えているか、私は分からなくて、信じられない!」
友達は一人もいなかった。大切な発表会も試験も、大事な場面ではいつだって一人で乗り越えなければならなかった。
自分に近寄ってくるのは、真白の家が目当ての浅い連中ばかりだった。
だからだれも信じられず、一人でも平気なようにと強くなる事を決めた。
そんな青空に、音羽の言葉を信じる事なんて出来なかった。行動の裏に思惑がないだなんて、信じられなかった。
こんな事を考える自分に……音羽の側にいる資格はないと思った。
いつだって真っ直ぐで明るい音羽の側に、自分の存在は不釣り合いだと。そう、思った。
「信じようとしてくれただけで……嬉しいって思ってくれるだけでも私は嬉しいよ」
音羽は笑顔でそう言うと、今度は青空に背を向けて椅子の裏側から何か取り出した。
それは音羽がいつも持ち歩いているバイオリンケースだった。どうやらあらかじめここに隠しておいた物らしい。
青空は音羽がバイオリンを取り出す姿を見ながら、前に音羽がバイオリンをしていると聞いた事を思い出した。その話を聞いた時はとても信じられなかったが、こうして目の前でバイオリンを持っている姿を目の当たりにすると、信じざるを得ない。
どう言えばいいのか分からないが……それが当然なのではないかと思えるほど、音羽がバイオリンを持っている姿は心に訴える何かがあった。
音羽は青空に一礼するとバイオリンを構える。
「言葉が駄目なら……行動が駄目なら……私の音楽を聞いて。私の心、今の気持ち、全部青空ちゃんに伝えるから」
音羽がバイオリンの弓を弦に掛けた瞬間、空気が変わった。そして音を出した瞬間には、世界が変わった。その音色が奏でる力に、青空は呆然と音羽を見つめる事しか出来なかった。
廊下を歩いている生徒や、中庭を通りかかった生徒達が、音羽がバイオリンを弾いている事に気がついて足を止める。
僅かに残っていた喋り声が完全に消え去り、周囲には音羽のバイオリン以外の音が無くなっていた。
あの魔法音羽が本当に弾いているのかという疑問を抱きながらも、誰もが立ち止まって耳を傾ける事しか出来なくなっていた。
音羽も今この瞬間、初めての感覚に包まれていた。いつもはただ自分の心に向き合うだけで、その音色を人に聴かせる時もずっと穏やかな気持ちだった。
だが、今は気分が高揚している。自分の気持ちを奏でる事で音に乗せて伝える行為に、今までにない感覚で演奏を続ける。
楽しい、嬉しい、優しい、そんな気持ちを胸に抱いて、思い出と感情を込めて奏でる音色を青空に届ける事が、今までにない気持ちを目覚めさせる。今まではぼんやりとしか相手に自分の音楽が伝わっているか分からなかったが、今でははっきりと分かる。
自分の音楽が青空の心に届いている、と。
「……っ」
「……」
音羽は後ろから伝わってきた感触に一瞬驚いたが、すぐに瞳を閉じて演奏を続ける。
いつの間にか背後に移動していた青空が、そっと音羽に寄りかかってきた。両手で掴むようにして音羽の背中をキュッと掴み、音羽と同じように瞳を閉じて、その背中に身を委ねる。
自分の心に流れ込んでくる音と気持ちを感じながら、青空も笑みを浮かべて安らかな表情をしていた。
澄み切った純粋な思い。自分と正面から向き合おうとしてくれている気持ちが伝わって来て、青空の不審感は完全に消えていた。
いつまでも続けばいいと思っていた演奏は、そうしている間に終わってしまった。
だが、寂しくは無かった。数分の間に伝えたい事は全て伝え切った。
そう感じた音羽は、肩越しに後ろを振り向いて青空を見つめた。そうして見えた青空の笑顔は、穏やかで柔らかかった。
「……音羽先輩」
「……青空ちゃん」
お互いを名前を呼び合う。それだけで、もう良かった。
向き合いたい気持ち、信じたい気持ち。それらを音楽によって通わせた今、二人に他の言葉は必要なかった。
それは、二人が初めて心からの笑顔を見せ合った、そんな瞬間だったのかもしれない。
次回 ソラに届く音色
第14話:親子 絆のバイオリン