第六十話 春の森にて
閉じた里の中でひっそりと、けれど盛大に祝言は執り行われた。
集まった親族一同の数は華絵が思うよりもずっと多く、その中で顔見知りを探す方が大変なくらいだったが、宝良や茜をはじめとする一族の姫たちが次々に祝いの言葉を述べる晴れやかな表情は、新婦である華絵よりもずっと幸せそうで、それが嬉しかった。
自分たちの新たなる第一歩が、いずれ続く彼らの礎となればいい。
そんなふうに願った。
無事に式を終えると緊張の糸が解けたのか、華絵は翌日熱を出して寝込んだ。
小巻や六花は大騒ぎしたが、ただの気疲れだと言ってなんとか収めた。
実際、ただの気疲れなのだ。
こんなに早く、式を挙げるつもりはなかった。
でも好き合っているのならば早く式を挙げた方がいい。
そんな六花の助言もあって、大した計画も立てずに向こう見ずなまま結婚式をあげてしまった。
後悔はしていないし、そうして良かったとも思う。
ただ役目を一つ終えて、ひどく疲れただけなのだ。
「昼食です」
そんな言葉と共に寝室のふすまが引かれて、お膳を持ったレンが現れる。
あまり顔色が良くない。きっと彼も疲れているのだろう。
すべての工場を焼き払ったせいで、ずっとレンが飲んでいた薬の供給が止まってしまっている。
冨士白第二ビルを取り仕切る阿久津が、せめてレンの薬だけでもとその製造に尽力してくれているそうだが、まだまだ見通しは立たないと聞く。
「ありがとうレン。こっちに持ってきて」
そう言って彼を迎え入れた。
夫婦になったという実感は、まだあまり湧かない。
彼はいまだに敬うようにして妻の名を呼ぶし、まるで小間使いのように彼女の身の回りの世話をしたがる。
まあそれも、次第に改善していってもらおう。
そんなのんびりとした気持ちで、華絵は微笑みを向けた。
「やっと終わったわね」
レンに体を支えられながら身を起こせば、深いため息と共に華絵が言う。
初めて経験してみて分かったが、結婚とは中々に大変なものだ。
その上家督を相続する手続きもあって、この一か月は目まぐるしく過ぎていった。
「イライラして、当たり散らかしたかも。ごめんねレン」
「かも、ではありません。実際に当たり散らしていました」
「そうだったかな?」
「ひどい有様でした」
思い出し笑いでもしているのだろうか。
可笑しそうに唇の端を持ち上げるレンを見て、華絵も笑う。
ここ最近のレンは、こうやって多くの言葉を話そうとしてくれる。
むっつりしたまま、せいぜい頷くだけの簡素なコミュニケーションから抜け出そうと、彼なりに努力しているのかもしれない。
柔らかく煮た粥をゆっくりと咀嚼している間、レンはじっと華絵を見つめている。
まったく食べづらいことこの上ないが、側から離れようとしないから、そのままにしておいた。
出て行けと命じれば、多分簡単なことだろう。
でも言わない限りは、彼は華絵の側にいようとする。
だからそれはレンの意志なのだ。
最近はそんなふうに理解しはじめている。
「ねぇ、これ食べたら散歩に行かない?」
「……」
「もう熱も下がったのよ。それに、少し新鮮な空気が吸いたいの」
「……」
「今日はお天気もいいし」
縋るような目で許しを請えば、長いため息の後レンが頷く。
それからまだ肌寒い外気が体に障らぬようにと華絵に厚着をさせ、二人はかつて足を運んだ養成所近くの森へと向かった。
◇
幼い頃、この森へ来た時あれは確か夏だった。
緑の葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日が美しかったのを覚えている。
大人になって二人でこの場所を訪れた時は、雪の降りしきる冬だった。
深々と降り積もる雪の中、強く抱きしめあったのを覚えている。
「もう春ね」
道すがら、咲き誇る花々を眺めて華絵は言った。
春の森は、ことさら美しかった。
「昔一緒にピクニックした場所はどこだったかしら。大きな木があって、確かあっちの方!」
そう言って駆け出そうとした華絵の腕をつかみ、レンがその体をひょいと抱き上げる。
「はしゃぎすぎないでください」
「小巻もそうだけど、少し過保護だと思う」
華絵の不満も無視して、レンは妻を抱えたまま歩き出し、やがて大きな桜の木の根元に彼女の体を座らせた。
「ここ? これがあの木?」
「そうです」
「よく覚えてたわね」
「忘れるはずもありません」
そう言ってレンが華絵の右隣に腰を下ろした時、かすかなデジャブを感じて、そう言えばそうだったなと、一人納得する。
あの時も彼はこの場所で、左耳が不自由な華絵のために、こんな風に座りなおした。
――――「じゃあね、レンは大人になったら私をお嫁さんにする! ……とか……」
かつてそんなふうに言ってはしゃぐ幼い日の自分を思い出す。
そんな無茶なお願いに、あっさりと頷いた幼いレンも。
「まさか、本当に結婚する日がくるとは……」
思わずそんな言葉を呟いて、華絵は晴れた日の春の空を見上げる。
隣に腰かけたレンが、黙ったまま華絵の手を取って優しく握った。
いちいち言葉にはしないけれど、本当はいつだって驚いている。
レンがそうやって華絵に触れようとしてくるたびに思う。
まさか、こんな日が来るなんて。
「……華絵様」
ぽかぽかとした春の陽気にうっかり目を閉じかけていた妻の名をレンが呼ぶ。
華絵が目を向ければ、青い瞳で真っすぐに見つめる男と視線が交差した。
「なあに」
「……いえ、ただ」
言葉を途中で止めて、レンはふいに華絵の唇に自身の唇を重ねた。
それは優しくて、ゆっくりとした長いキスだった。
やがて苦しくなった華絵が少しだけレンの体を押し戻すと、どういうわけか彼は薄っすらと微笑みながら、なおも名残惜しそうに華絵の唇に指を這わせる。
「……どうしたの?」
「少し、昔のことを思い出しました」
「昔?」
「あの時、本当はこうしたかったのだと思い出したのです」
その言葉に、かつてのあの日の少年の控えめなキスを思い出した。
そうだったのかと華絵も優しく微笑む。
「これからはずっと一緒よ」
「はい」
繋いだ手に熱がこもると、飢えた青い瞳が再び少女の唇を舌で撫でた。
華絵はじっと目を閉じて、その際限のない愛情を受け止める。
愛しているよと心の中で囁いて、両腕を伸ばし抱き合うようにキスを繰り返せば、その内閉じた瞼の裏に、青い炎が浮かんで見えた。
チラチラとくすぶるその中心に鬼がいた。
華絵はその鬼にそっと手を伸ばす。
彼は自分を縛る鎖の先を、こちらに向けて伸ばしている。
いつからあの手綱を、こちらへ差し出していたのだろう。
――――おいで
そう心で囁いた。
不器用な鬼が、青い瞳から涙をこぼす。
その魂ごと抱きしめるようにして、華絵は回した腕に力を込めた。
「……レン」
そして、愛しいその名を、キスの合間に紡いだ。




