第五十八話 春の故郷(1)
ひらりとまぶたに舞い落ちた花びらに、男は目を細めた。
薄桃色に色づいた一枚の花弁をつまみ上げ、顔を上げる。
そして、一面に色づいた桜の木を見上げた。
ずっと俯いていたから、うっかり見落とすところだった。
「……そうか。ここらの桜は、早いのか」
そんなふうに呟いた男を、おかっぱ頭の女中が呼ぶ。
「大河原さん、お待たせいたしました」
「ああこりゃどうも。お構いなく」
通された客間に座って、待つこと数分。
しばらくして、艶やかな着物姿の華絵が現れた。
「お久しぶりです。大河原さん」
そう言って控えめに微笑んだ少女の顔を、思わずまじまじと見つめてしまった。
長かった髪は肩のあたりまで短く切りそろえられていたが、変化と言う変化はそれくらいだろう。
あんなことがあったと言うのに、彼女の立ち姿には一片の陰りも見当たらない。
長らく東京の拘置所に身柄を預けられていた大河原だったが、藤代と伊津乃と尽力の末に晴れて自由の身となった。それはまだ、ほんの一か月前の話だ。
正直な所、すべて様変わりした世界にまだ馴染めずにいる。
冨士白製薬の原薬工場で起こった大火災は、しばらくはマスメディアを騒がせた。
不祥事の後のタイミングだったから、世間は何か仕組まれたものを感じ取り、しばらくは専門家たちがああだこうだとテレビや雑誌で憶測を述べていた。
しかし肝心要の武永が火災によって命を落としてしまい、社長である藤代誠が行方不明のままとあれば、フラストレーションを向ける先を失った野次馬たちはしだいに散っていくだろう。
今はまだ多少やかましくもあるが、その内この大手製薬会社がもたらした一連の騒ぎだって、世間をにぎわせた過去の事件の一つとして、忘れられていくのだ。
どんなに苦労して集めたネタだって、所詮は数ある消耗品のひとつ。
良くも悪くも、飽きたら忘れ去られていく。
そんなものだ。
だからいちいち虚しさを覚えるような奴は、記者には向いていないんだ。
「やっと、落ち着いたんじゃないですか?」
複雑な思いでそう尋ねれば、華絵は少し戸惑ったようにして、それから頷いた。
「元より閉じた里です。ここにいる間は、外の情報があまり入ってきません」
「……なるほど」
よほど不満そうな顔をしていたのだろうか。
そんな大河原を見て、ふいに華絵がクスクスと笑い出す。
「大河原さんは、書き続けて下さいね」
告げられた言葉の真意が読めなくて、男が首をかしげる。
華絵は一呼吸ついて、開いた客間から見える桜の木に目を細めた。
「ずっと、書いてください。当家の過ちを」
「……ですが」
「家名を地に落として下さって構いません。いえ、そうなさるべきです」
伊津乃の茜の話では、華絵はこのまま藤代の本家の跡を継ぐという。
しかし武永とは違って、目の前の少女は大河原と共に戦ってきた盟友でもある。
そんな彼女が背に負う荷物の重さを思えば、虚しさはあれど、これ以上の戦いは不毛に思えた。
そんな思いで胸の内を告げれば、華絵はいいえ、と首を振る。
「私も一族の皆も、終わったなどとは考えていません。これからもずっと、続くのです」
「……華絵さん」
「これからなんですよ。大河原さん」
そう微笑んだ少女に何を言えばいいのだろう。
大河原は素直に頷いて、書けるところまで書き続けると、そう約束を残した。
「ああ、そうだ」
帰り際、華絵が思い出したように呼び止める。
「お庭、たまには手入れをしてくださいね」
肩越しに振り返った大河原は、ハッと目を見開いて、それからゆっくりと頷いた。
ああそうだったなと古い記憶がよみがえる。
そういえば、妻は庭をずいぶん大事にしていた。
そんなことも忘れていた。
ずっと俯いていたから、色んなものが見えなくなっていたのかもしれない。
――――俺も、これからだなぁ
見上げれば、そよぐ風に舞う桜が空の青を彩って踊る。
たくさんの木々や花々が、春を告げるようにして息吹く。
生い茂る緑も、色とりどりの花も、大地の土も、生命の活力に満ち溢れている。
里に住む人々がこの景観を愛していることがよくわかる。
愛され、慈しまれ、大事に保護されているからこそ、この景色は美しいままあり続けるのだろう。
何度も足を運んだ里のはずだったのに、きっと見えていなかった。
――――そのうち、また見に来るよ
宙にそよぐ桜の花弁にそう告げる。
悲しみと痛みと、ほんの少しの郷愁を胸に抱いて、記者は里を後にした。