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Holy Drop

作者: 青山紀一郎

  Holy Drop

                                    

 

 ルベリエは太陽と絶交していました。それほど彼は、世界を嫌っていたのです。

 住んでいる家の窓には鎧戸を下ろし、厳重に鍵をかけて、光が部屋に入ってくるのを防ぎました。

 ルベリエの家はルッカの街の目抜き通りにあり、毎日大勢の人々が通ります。

 銀行員、役人、商人から貴族、聖職者そして王様たちが、ルベリエの家のある大通りを歩いていました。

 それでもルベリエは、家の窓を開けることをしませんでした。

 ルベリエは暗い家の中で何をしていたのでしょう?

 彼は子供の頃、森に住む隠者から与えられたある機械に、日がな一日、時間を費やしていたのでした。

 それは錬金術を嗜む隠者の発明した「ジゼル」という機械で、自分の部屋にいながらにして、世界中の人々と連絡が取れるというしろものでした。

 「ジゼル」はノートの見開き一枚ほどの大きさの鏡がついています。そうしてアルファベットの並んだ鍵盤がその下に、ピアノの鍵盤のようにあるのです。そう、それはさながら楽譜立ての部分に鏡が置いてあるピアノのようでした。

 初めて「ジゼル」を使った時、ルべリエはたいそう興奮しました。

 機械は蒸気式で、右の脇に着いているレバーを押すと、鏡がもやもやっと光ります。

 そうして「ジゼル」の鏡には、同じ機械を森の隠者や街の学者から買った人々が書いた文字が並んでいます。

 朝はおはよう。昼はこんにちは。夜にはこんばんは。

 初めのうちはそんなとりとめもない言葉でしたが、次第に言葉は複雑になってゆきました。

「今日は何をしましたか?」

 ある人がこんなことを書きました。

 暗いルベリエの部屋で、その鏡は銀色に光り、その言葉をちらちらと輝かせて、ルベリエの眼に飛び込んできました。

「今日は一日中寝ていたよ」

 鏡の下にある鍵盤を使ってこう打ち込みます。そうして一番右端にある鍵盤を押すと、そのメッセージは世界中の人々のもとへと飛んで行くのです。

 次には返事が返ってきます。

「僕は花に水をあげたよ」

「私は鳩に餌をやりに教会の前の広場にいったわ」

「一日中歩き通しさ。僕の国には軍隊があって、兵役があるからね。今日も行軍さ。また演習だから、しばらく書き込めないかもしれない」

 こんな言葉と向き合いながら、ルベリエは暮らしていたのです。

 彼の祖父はルベリエが十歳の時に、祖母は十四歳の時に死にました。

 家を支えているのは父のガエターノで、ルベリエの住む街で書記をしていました。

 ラテン語が話せるこの人は、その語学力を生かして、おびただしい書類を書いていました。

 食事を作るのは母のリリアーナです。

 毎朝、リゼットを作ると、それを部屋にこもっているルベリエのところに届けに行きます。

「おはようルベリエ。今日も部屋から出ないのかい?」

「なんだ母さんか」

「出ておいでよ、ルベリエ。今日はサンタ・アンブロージョのお祭りだよ。教会ではミサがあるよ。出ておいで、ルベリエ。ご飯はここに置いておくからね」

 こんな具合に、一家は生活していました。父が稼ぎ、母が守る。でもその生活も長くは続きそうにありません。

 ガエターノは定年が近いし、リリアーナもここ数年、胸の具合が良くありません。

 老いからくる疲れやすさもありました。

 そんな時、ある人物が、この家を訪れました。


「ドロップはいらんかね?おいしいおいしいドロップだよ。甘くて解けて消えちまう。『流星堂』のドロップを召し上がれ」

 その男はそんなことを言いながら、ルベリエの街へとやってきました。

 はじめ彼は、ルッカの街の大聖堂前の広場で、ドロップを売っていました。

 それを買った子供たちからたちまち評判になり、『流星堂』の名前は街中に知れ渡りました。

 彼はその日も、広場でドロップを売り、子供たちにやんややんやと騒ぎ立てられていました。

 でも彼には秘密がありました。

 彼は、ルッカの街の大貴族、ジョルディ=フレスコヴァルディ公爵の密使でした。

「公爵の誕生日の日のために、宮廷音楽家に頼んで『テ・デウム』を作曲させた。ついてはこれを演奏するだけの技量のある音楽家を集めたい。幸いにもこのルッカには音楽に才のある者が多い。そこで頼みがあるのだが、ひとつ街中へと潜って、腕利きの音楽家を雇ってきてくれないか?」

 こんな密命を、彼は受けていたのです。ドロップを持って若い子供たちを集めるのも、その中に輝くダイヤの原石を見つけるためであったのです。

 もちろん大人たちはそんな彼の秘密は知りません。

 大人たちはただ、飴売りの商人として、『流星堂』の看板を掲げて歩く旅の者だと思っていたのでした。

 そんな彼が、ある日、仕事も終わった夕方、街を散歩している時に、偶然に、ルベリエの家の前へとやってきたのです。

「これはごたいそうなことだ。この美しく晴れた日に、窓全部に鎧戸が下りている。これにはよほどの訳があるのだろう」

 飴売りはそう言って、たまたま戸口に植えられている白いジキタリスに水をやりにきた母のリリアーナと会いました。

 飴売りは母親から事情を聴くと、たいそう悲しげな顔をして、肩を落としてがっかりしました。

「おお、この太陽の都ルッカにあって、その光を拒むとは。ルベリエさんとやら、その人は大変な不幸をしょっている。せめて私のドロップをあげてください。少しでも彼の気分が良くなれば」

 そう言って彼は、オブラートに包まれた一粒のドロップを、リリアーナに渡しました。

 琥珀色の、楕円形をした、宝石のようなドロップでした。

 母のリリアーナは大変喜んで、それを買おうとしました。

「いえ、お金を頂こうと思ってきたのではありません」

 飴売りはこう言って謝礼を断りました。

「そのドロップにはね、魔法がかけてありますよ。それをなめるとね…。まあ、後はみなさんにお任せします」


「ルベリエや!ルベリエ!聴こえるかい?良い物を頂いたよ。おいしいドロップをね。街に来た飴屋さんがお前にってくれたのさ。食べてごらんよ」

 ルベリエの部屋の扉の前でリリアーナがそう言うと、めったに開くことのないその重い扉が開きました。

「ドロップだって!?」

「そうだよ。街でも評判の飴売りの方がお前にって。ありがたいねえ。さあルベリエ、食べてごらん!」

 リリアーナがそう言ってオブラートに包まれたドロップを示すと、ルベリエは珍しい薬草でも眺めるようにそれを見ていましたが、やがて指でつまむと、ぽいと口の中へ入れました。

「うわ、甘い…」

「おいしいと評判の飴屋さんだからね。魔法みたいにおいしいよ。きっと」

 こうしてルベリエはドロップをなめました。

 それは不思議な味でした。

 口の中でオルガン弾きがミサ曲を奏でているような、響き合い、和合する音楽のような風味が、口の中で咲き誇りました。ルベリエの口の中は生まれて初めて食べる魔法の味で一杯になりました。


 その日の夜のことです。

 もう夜中の二時になろうとしている時分、ルベリエはふとこんなことを考えました。

「部屋の片づけがしたくなったな…」

 それから机の上に置いてある燭台にマッチで火をつけると、その拙い光の中、ルベリエは部屋のあちこちに散らばって、積み重なっている本の整理を始めました。

 もう何年も動かしていない本の山です。一冊手に取るごとに、それを手に入れた時の想い出が蘇りました。

「これはヴェネチア旅行に行った時に、シモ―ヌ叔母さんが買ってくれた本だ。これはミラノの伯父さんの家に行った時に貰った『千一夜物語』だ。これは…」

 外が夜明けの光に白々と明ける頃、ルベリエは部屋の中の書物の整理を終えました。

 途中で雑巾を使ったり、掃除機をかけたり、音の多いひと時でしたが、ルベリエは不思議と疲れを感じませんでした。

 いる本は書棚に並べ、いらない本は縄で縛って捨てるようにしました。

 大山猫が鳴き、ミミズクが羽ばたきました。その日は終わりました。


 あくる日、またしても飴売りはルベリエの家へとやってきました。

「こんにちはリリアーナさん。ドロップはどうだね?」

 こんな風に尋ねた飴売りに、リリアーナは事の次第を告げました。

「ほう、それは見事に効き目が現れたな。昨日あげたドロップはね、部屋を整理したくなるドロップなんだ」

 それを聴いてリリアーナは言いました。

「飴売りさん!また素敵なドロップをお願い!せがれも喜んでるし」

「じゃあ今日は、これを差し上げよう」

 そういって飴売りは、昨日とは違うドロップを差し出しました。

 形は丸い、緑色の、暗闇の中の猫の眼のようなドロップでした。

「これをどうぞ。なに。御礼はいりませんからね」

 そう言って飴売りは立ち去りました。


「ルベリエや!ルベリエ!」

「なんだい、母さん?」

 厚い扉の向こうから、扉にろ過された希薄な声が聞こえます。

「あの飴売り屋さんがね、また来たんだよ!この戸をお開け!ルベリエ。新しいドロップが手に入ったのさ!」

 扉が開きました。ルベリエです。

「昨日のドロップはおいしかったろう?今日はこれを食べてごらんよ」

 リリアーナはそう言って、貰ったばかりのオブラートに包まれているドロップを示しました。

「わかった。母さん。食べてみるよ」

 そう言うと、ルベリエはまた扉を閉めました。

「今日は、どんな味なんだろう?」

 そう思いながらルベリエは、ドロップを口に入れました。

「はあ…。甘いメロンの味がする…」

その緑色のドロップは、飴屋の自信作でした。薬草の中でもとりわけ貴重な、『アルカナの樹』の葉を煎じつめて作るのです。この草はその辺の街や植物園では手に入りません。

 海の彼方。遠い南の果ての島々の中にある、鬱蒼とした森の中の木々の枝の懐に、着生している蘭の花が原料なのです。

 この花を採るには、海を越え、命を賭けて高い木に登り、小さなナイフでギシギシと根を切って持ってこなければなりません。

 飴売りがどこでそれを手に入れたかはいまだに謎です。

 そうしてドロップをなめたルベリエは、こんなことを考えました。

「今日は、音楽が聴きたくなったな」

 それからが大騒ぎでした。

 ルベリエは部屋から出ると、驚いている両親をしり目に、家にあるレコードプレーヤーと二十枚程のレコードを物置から出して来て、それを部屋に運びました。

 真っ先に聴いたのはスカルラッティのチェンバロ曲でした。

 昨日整理した自室にスピーカーとプレーヤーをとりつけると、大きな音でそれを聴きました。

 花火のようなチェンバロの音が、部屋に溢れました。

 ルベリエは初めじっと身を抑えて聴いていましたが、自然と指が動きます。

 指が動けば手が動き、手が動けば腕が動く、という風に、ルベリエの体はリズムに乗って動き出しました。

 今やルベリエはリズムに乗って、踊っていました。

 跳んだり、跳ねたり、チェンバロのリズムに乗って、存分に体を動かしました。

 眼の前にあった壁が消えていく…。

 レコードのA面が終わり、曲の後の余韻の中で、火照った自分の体が冷めていくにつれ、心地よい疲れがルベリエに浸みてきました。

 大山猫が鳴き、ミミズクが羽ばたきました。その日は終わりました。


 三日目になりました。飴売りはまたもや、ルベリエの家へとやってきました。

 そして事の次第をリリアーナから聞くと、たいそう満足げにこう言いました。

「昨日のドロップはね、音楽が聴きたくなるドロップなんだ。それにしてもスカルラッティを知っているとは、ルベリエさんとやらは大変な音楽好きではないのかね?」

「あの子は昔から音楽が好きでね。旅の音楽師がやってくるとそれはもう大騒ぎで家から飛び出していったものさ。いつの頃からか部屋にこもるようになっちまって…」

「なにか楽器は弾けるのかい?」

「あの子に楽器を触らせたことはないから」

 飴売りはしばらく立ちすくんでいましたが、やがておもむろに三つめのドロップをとりだしました。

 空と海が婚礼を挙げたような絶妙な青をしたドロップでした。そのまま結婚指輪にはめたくなるような、美しいドロップでした。

「今日はこれを」

 飴売りが言いました。

 リリアーナは黙って受け取りました。

 

「ルベリエや!ルベリエ!」

「なんだい母さん?」

「新しいドロップさ!これを食べてごらんよ」

 珍しく鍵の掛かっていない扉を開けて、ルベリエが現れました。

「わかった。ありがとう」

 それだけ言うと、また部屋に入って行きました。


「今日はどんな味がするんだろう」

 半ば好奇心に満ちた気持ちで、ルベリエはそれを口の中に入れました。

「はあ…、ソーダの味がする…」

 急に眠気がさしてきました。そのままルベリエはベッドに入ると、すぐに眠りました。

 朝日も夕陽もはいらないルベリエの部屋は、時間を知るのに時計しか手段がありません。

 深い眠りから目覚めると、ルベリエは机の上に置いてある目覚まし時計の針を見ました。

 針は二時四十四分を指しています。それが朝のなのか午後のなのかはわかりません。

「どうにも空が見たくなったな」

 ルベリエは、しかし、鎧戸を開けるにあたって、こう考えました。

「今開けたら太陽の光がはいってきてしまう。いままで守ってきた心地よい暗闇が、太陽の光で刺し殺されてしまう…」

 

 それは暑い夏の日のことでした。

 ルベリエには一つ下の妹がいました。

 名前はミュゼットといいます。

 小柄だけど好奇心の強いこの娘は、少年時代のルベリエをいつも引っ張ってきました。

 初めて教会のミサに行った時もそう。初めて伯父さんの家に行った時もそう。

 口より先に手が出るこの妹とルベリエは、仲のいい兄弟でした。

 ある日のこと、ルベリエとミュゼットは、ルッカの街の古書店めぐりをしようと約束していました。

 街の教会前の広場で待ち合わせだな。

 そういって二人は小学校へ行きました。

 学校が終わり、街にやってきたルベリエですが、広場にはミュゼットの姿がありません。

 三時に待ち合わせの約束なのに、聖堂の大時計が四時を告げても現れません。

 おかしい。何があったのだろう。

 そういってルベリエは一度家に帰りました。

 そこでルベリエが見たものは、二階の窓枠に綱をかけて、一階の入り口のところで首をくくっている妹の姿でした。

 足元には遺書がありました。

「朝が来るのが怖い」

 そこにはただ、こう書かれているだけでした。

 後になってわかったことですが、ミュゼットは学校でいじめれられていた、というのです。

 それも半端なものではなく、金銭を取り上げられたり、弁当に唾をかけられたり、数十人が見守るなかで土下座をさせられたり、といった過酷なものでした。

 そんな妹にとって、朝は恐ろしい一日の始まる時だったのです。

 朝が怖い。こんなミュゼットの言葉は、そのままルベリエの感情に響きました。

 わかった。わかったよミュゼット。僕がお前の分まで生きる。ただし朝は来させない。僕の生活の一瞬たりとも、朝が来るようなことにはしない。


 その日からルベリエは、太陽と縁を切ったのです。

 彼は終日鎧戸を下ろした部屋に暮らし、いつしか世界とも絶交した孤独な人として、生きていたのでした。


「でも、どうにも俺は空が見たい」

 ルベリエは考えました。鎧戸を開けるか、どうするか。

「ああ妹よ、兄を許せ!」

 ルベリエは意を決して、鎧戸を開けました。

 時刻は午前の二時過ぎでした。空に太陽はなく、ただ白い月が、彼方にきらめいているのが見えます。

「よ、夜空よ…、お前はこんなにも…」

 頭上に広がる星々を見上げながら、ルベリエはもう何年もみなかった星空を見たのでした。あれはオリオンか、カシオペアか。

 神の造りし天蓋に、銀色の釘の如く輝く星たち。

 そこからはただ、音楽が聞こえました。

 空を行く星たちの奏でる、人間が、今や忘れ果ててしまった天体の音楽が、満天の銀河に鳴り響いているのでした。

 大山猫が鳴き、ミミズクが羽ばたきました。その日は終わりました。


「ルベリエさんはどうだね」

「それが大変な変わりようでね。昨日は鎧戸を開けたようだよ」

 夕方、家の前にやってきた飴売りに、リリアーナは答えました。

「昨日あげたのは、空が見たくなるドロップだったからね。それじゃあ、今日はこれ」

 そういって飴屋はドロップを差し出しました。

 瑪瑙のように赤く、ちかりときらめくドロップでした。

「そいつは俺の謹製だぜ」

 飴屋が言いました。


 ドロップを口に入れました。

 その時、それは口の中で炸裂しました。

 ヴェネチアの夜祭りで上がる花火のような、生命感溢れる味でした。

 さながら百のトランペットが一時に鳴り響くような、乾いた感傷とほとばしる甘さが嵐となって、口元で唸っている、そんな味でした。

「俺は、俺は、太陽が見たい」

 ルベリエはついに決心しました。

「許せ、妹よ!」

 ルベリエはそう叫ぶと、三つある部屋の窓のうち、西側に面している鎧戸を開けました。

 同時に、おびただしい光の群れが、部屋になだれ込んできました。ミュゼットの死から十年。開けられることのなかった窓が開けられたのです。

 ルベリエは光にぶつかって眩暈がしました。太陽の光は惜しみなく降り注ぎます。その光の洗礼のさ中で、ルベリエは泣きました。泣いて泣いて、泣きまくりました。

 体の芯から溢れる涙が、喉に絡みついている嗚咽を濡らし、体中を使って泣いているルベリエの顔をグショグショにしました。

 太陽はただ、空にありました。誰の上にも等しく注ぐあの無量の慈悲が、一人の青年の魂を揺さぶったのです。

 口の奥、肺の中から振り絞るように出す声の中には、ミュゼット、ごめんよ、といった言葉の破片が、声にならない慟哭となってせりあがってきます。ルベリエの心に住みついていた暗闇の呪縛が、太陽の斧で断ち切られた瞬間でした。

「窓を開けた…、窓を開けたんだねルベリエ!」

 リリアーナが入ってきました。ルベリエは泣いたまま、その場にくずおれました。

 久しく感じたことのない、母の熱い抱擁が、長く、長く続きました。


 その時、飴屋は玄関先に来ていました。

「昨日俺があげたドロップは…」

 そう言って襟元をただすと、こう言いました。

「太陽が見たくなるドロップなんだよな」

 大山猫が鳴き、ミミズクが羽ばたきました。その日は終わりました。


 ルベリエの暮らしぶりはたいそう変わりました。

 ジゼルはもう使うこともなく、鍵盤には埃がうっすらと積もっています。

 彼は朝起きると、真っ先に部屋の窓を開けます。

 そうして入ってくるかぐわしい朝の空気と心地よい北風を存分に味わうと、今までは寝てばかりいた部屋のベッドを片づけ、朝食を食べに一階のダイニングまで降りてきます。

「母さん、おじいさんの遺品のトランペットがあるだろう?あれ、どこにやったの?今でもあるの?」

 そんなルベリエの問いかけに、リリアーナは凛とした声で返事をします。

「物置にしまってあるんじゃないかな」

 それから二人は、物置を探りました。

 小一時間ほど後に、黒い縦長のケースが見つかりました。

「これだ。おじいさんの大切な遺品だよ。壊れていないといいけど」

「僕、これを吹いてみようかな…」

「音が出れば大したものだよ」

 リリアーナが言いました。

「音を出すまでが大変なんだから。おじいさんはよくそう言ってたよ」

 ルベリエはそれを部屋に運びました。

 ケースを開けてみると、金色に輝くトランペットがありました。ルベリエはそれを取り出すと、吹き出し口に口をあてて、肺の底から思いっきり息を出し、それを鳴らそうとしました。

 ところがだめなのです。息は出ているはずなのに、それは曲がりくねった管の中をしばらく進むと、そこで力尽きてしまい、音にならないのです。

「なんとしてでもこのトランペットを弾いてみせる」

 ルベリエはそう考えました。

 そんなある夜、ルベリエは夢を見ました。

 南欧の海を思わせるさわやかな陽光と海風が香ばしい、ある港町の沿岸です。

 眼の前に見えるのはパルテノン神殿でした。ルベリエはギリシアに行ったことはありません。それでもその建物が、パルテノン神殿であることが分かるのです。

 白亜の神殿はまばゆいばかりの大理石で飾られ、人々が楽しげにそこかしこを行き来していました。ルベリエは夢の中で、ギリシアにいたのです。

「君、ラッパを吹きたいんだね?」

 突然、隣で声がしました。

 見ると、月桂冠をかぶった一人の少女が傍らに立っていました。

「それを吹くにはね、こうするんだよ」

 少女はそう言うと、いきなりルベリエに口づけをしました。

 舌と舌が触れ合い、この上なく甘美な蜂蜜のような接吻が交わされました。

 口づけをしながらら少女は言いました。

「舌をもっと奥へおやり」

 ルベリエは官能を麻痺させる快感に戸惑いながら、言われるままに舌を舌の歯の裏に持っていきました。

「そうしてこう息をするの」

 そう言って少女はそのふくよかな胸の中から、水晶のように透明な吐息を、ルベリエの口に与えました。喉に押し入ってくる陶酔に驚きながら、同じように胸の奥から息をしました。極上の口づけが完成しました。

「そう、それでいいんだよ。今私が言ったとおりにもう一度吹いてごらん。きっと吹けるようになっているはずだから」

 少女がそう言った時、ルベリエはふと眼をさましました。

 ルベリエはすぐさま、トランペットを取りました。そしていましがた見た夢の中の口づけと同じように、自分の唇をそのマウスピースにあてがい、喉の奥から息を吐きました。

 するとどうでしょう。あれほど動かなかった碇のようなトランペットが、金色の音で鳴りました。

「そうか、こうすればいいのだな!」

 ルベリエはコツがわかったのです。ちょうど初めて自転車に乗ることができた時のように、そのエッセンスを体で覚えたのでした。

 それからというもの、ルベリエはリリアーナに、なにか楽譜を買ってくれとせがむようになりました。

 そこでリリアーナは、リュリやシャルパンティエの舞曲、ミサ曲、オペラのアリアなどの楽譜を、街の楽譜店で買い求め、ルベリエに渡しました。

 ルベリエの家からは小気味よいレースのように軽快なトランペットの音色が聞こえるようになりました。

 飴屋がやってきました。

「これはこれは…。大変な変わりようだな。鎧戸が開いている。窓が開いている。ルベリエさんは元気になったのだね」

 飴屋はそう言って、二階の部屋から聞こえてくるトランペットの音色を聴きました。

「あなたのおかげです」

 リリアーナが言った。

「もう私の出る幕ではないようだね。では最後にこれを」

 飴屋はそう言って、真鍮色に輝く弾丸のような飴を差し出しました。

「ルベリエさんが世界と仲直りできるかもしれないよ」

 飴屋はこう言いました。


「ルベリエや!ルベリエ!」

「なんだい母さん」

「あの飴屋さんがね、最後のドロップを下さったよ。食べてごらん」

「僕はもうドロップは要らないよ」

 ルベリエはそう言います。

 リリアーナはしばし考えていましたが、やがて、自分でそれを食べてみることにしました。

 リリアーナはドロップを食べました。

 と、口の中に猛吹雪が吹き荒れるような食感が炸裂しました。歯も舌も全てが凍って、口の中は北極のように冷たくなってしまいました。リリアーナは思わずその場に倒れました。

「母さん、どうしたの?」

 そう言って扉を開けたルベリエは、その場に倒れているリリアーナを見て、卒倒せんばかりに驚きました。

「母さん!大丈夫!?」

 体を揺すってみても声はありません。リリアーナは失神しているようでした。

「どうしよう…。医者を呼んだほうがいいのかな。それとも…」

こんなことを考えていると、飴屋が玄関から入ってきました。

「やや、これは…」

 飴屋は驚いてリリアーナを見ていました。

「このドロップは、君のためのものなのだよ。君でない誰かが服用したら、死んでしまうよ」

「飴屋さん、なんとかなりませんか?僕に出来ることなら何でもします!」

 そう言うルベリエを前に、飴屋はしばし考えこんだ後、こう言いました。

「君は、トランペットが吹けるのだね?」

「はい、まだ未熟ですが、なんとか弾けます」

「ではそれをもって街のオペラハウスへ行こう」

「オペラハウス?そんなところへ行って何になるのです?」

「とにかく来たまえ!さあ、私と一緒に。トランペットを忘れずにね」

「でも僕は!」

 ルベリエが言いました。

「僕は、世界が嫌いなんです!」

「ルベリエよ!今この時、このひと時さえ戦えば、君は勝利者になれる。さあ、部屋を出よう!そうして明るい太陽の光の中を歩むのだ!心配することはない。君の心に住んでいた死神はもう姿を消しているのだから」

 こうしてルベリエは、飴売りに連れられて街へ出ました。

 激しい陽光が、礫のように降り注いています。街は人で溢れ、馬車が行き交い、とても賑やかです。

「ああ、人だ!僕は人が苦手だ!飴売りさん、どうしても行かなければならないの?」

「ルベリエよ、人間はけして怖いものではない。ただ、君が今までに出会った人間が、たまたまひどい人だったというだけだ。見たまえ!御者を、商人を、聖職者を!彼らは仕事に生きている。神から与えられた人生を、誇りを持って生きている。そしてそれはルベリエよ、君にも与えられているはずなのだ!」

「僕が、生きる理由ですか?」

 人ごみの中、あえぐようにルベリエは訊いた。

「そうだ。とにかく今は急ごう!時間はないのだ」


 ルッカの街には立派なオペラハウスがありました。ヴェネチアのフェニーチェ座やミラノのスカラ座にも劣らない、立派なものです。

 オペラハウスに着くと、飴屋は彼を中へ入れ、どんどんと劇場の奥へと連れて行きました。

「飴屋さん、いったいどこへ?」

「舞台の幕の裏さ」

 そういって飴屋は、大きな劇場の舞台へと彼を連れてきました。

 真昼の劇場は、人っ子一人いないがらんとした空間でした。明かりのともっていない大シャンデリアや緋色の幕が下がっています。

「今から君は、冥府へ下るのだ。そう。オペラハウスの劇場裏は彼岸の世界と繋がることが出来るのだよ。今、劇場には誰もいない。私の力で、この舞台裏を冥界へと繋いでみせよう。そして君は嘆きの川で、反対の川岸へとわたる船を守っているカロンテと出会うだろう。彼は生者が生きたまま川を渡ることを許さないだろう。だがルベリエよ、そこで君は、君のトランペットを奏でてお願いするのだ。そうすれば鉄の心臓と言われるカロンテの心も動き、なんとか彼岸へと渡れるだろう。そうしたら君は冥府の王プルートーに会い、懇願して母を連れ戻してこられるようにするのだ。君ならできる」

「わかりました」

 ルベリエが言いました。

「ではここから行きたまえ」

 そういって飴売りは、舞台の幕を開けました。

 不思議な光があたりを領しました。

 気がつくとルベリエは、荒涼たる川原にいました。

そこはおよそ色というものが無い世界でした。空も大地も川の水面も、漂白されたように彩りを失って、抜け殻のように存在していました。

静かでした。どこまでも音が無く、「おい」と一言しゃべったら、世界に亀裂が入って崩れてしまう、そんな究極の静寂が、全てを支配していました。

まもなくルベリエは、自分のほうに向かって歩いてくる一人の老人を見つけました。彼がカロンテなのでしょう。

灰色のマントをはおり、髪とひげは霜が降りたように白い、老人です。

「なんということだ。うつし世の姿のままここに来るとは。帰りたまえ。冥府には鉄の掟がある。およそ生あるものは一人たりとも、ここから先へは進めないのだ」

 ルベリエはそれを聴くと、カロンテに懇願しました。

「お願いします。あなたのために、音楽を奏でます。どうかその胸を和らげて、私を生きたまま冥府に入ることをお許しください」

 そう言ってルベリエはトランペットを手に取ると、一世一代の舞台とばかりにそれを吹きました。

 それは命あるものの喜びに満ちた歌でした。青い空、輝く太陽、羽ばたく鳥たちの声が、冥界の巌のような静けさを揺さぶりました。

 聴く者も弾く者も、音楽を持つことの喜びを味あわずにはいられない、あの羽根のような軽さが、カロンテの鉄の心臓を揺さぶりました。

 今やルベリエは竪琴を奏でるアポロンの如く、美しい声で歌うセシリアの如く、奇跡の音色を奏でる楽人でした。

「おお汝生ける者よ。お前は私にいままで知りもしなかったもの、音楽の喜びを教えてくれた。よいだろう。川を渡れ」

 こうしてルベリエは嘆きの川を渡りました。

 そして川向うに着くと、ここをひたすら歩くように言われました。ルベリエは言われたとおり、なにもない平野を、ただただ歩いてゆきました。

 と、突然、空が乱れました。鉛色の鏡のようにうつろだったその空には、もくもくと黒い雲が現れ、またたく間に、この世界に存在していたかすかな光を奪いました。

 稲光が空を切り裂き、ルベリエノ立っている場所のすぐ近くに、稲妻が二度、三度と落ちました。

 天に轟く大太鼓のような音色が、空に響き渡っていいました。

 空に築かれた雲の城の彼方から、大きな声が響きました。

「おお、この冥界に生あるものがやってくるとは!」

 声の主はプルートーでしょう。猛り狂う竜のように強靱で、天の覇者の如く舞飛ぶ声が降ってきます。ルベリエはあまりの恐ろしさに、見えない足かせをつけられたように脚が動かなくなり、答えようにも喉が凍ってしまい、舌が思うように動きません。

「言ってみよ。生きながらこの地にやってきたその訳を。おお青年よ、いまこそ語るがよい」

「わ、私は、母を、母を連れ戻しに来たんです」

 振り絞るようにやっとこの言葉を言いました。

「お前の母か」

 プルートーが応えました。

「そうです。あの人はまだ死ぬには早い。冥界の主よ。死者たちの王よ。どうか我が母を冥府から連れ帰ることを許したまえ」

 そう言うと、しばしの間、静寂が、逆巻く空に漂いました。

「おお青年よ。お前はひどく人を嫌うたちなのではないのかね」

 ルベリエはぎょっとしました。心の中にくすぶっていた呪わしい残り火に、油が注がれる思いでした。

「青年よ。お前のように世界を呪う者は、たとえ母を地上へ連れ帰っても、お前自身の幸福には何一つ良いことはないだろう。むしろ、傷つき震え涙するお前の姿をこれ以上見ないほうが、よほどいいとは言えまいか?」

 そう言われてルベリエは、言葉に窮しました。

「でも、でも僕はお母さんに戻ってきて欲しいんです」

「おお青年よ。その気持をもう少しだけ広げ、お前の周りにいる者たちにも与えるようにしてはどうだね?お前の住む現世は所詮人の渦。嫌っていても、なにも良いことはないぞ」

「プルートー様…」

 ルベリエはしばらく考え込みました。そして言いました。

「プルートー様、わかりました。これからは僕の周りにいる人たちにも、僕が家族に抱いているのと同じだけの愛を与えられるように頑張ります」

「よくぞ言った、青年よ」

 再び、地鳴りのようなプルートーの声が響きました。

「時に青年よ、お前はトランペットが吹けるのではないのかね?」

「はい、一応、吹くことは出来ます」

「ならば取引だ」

「なんです?それは?」

「現世に戻ったら、その楽器を使って、人々に良い音楽を与えることを使命とせよ。それが出来るのなら、母を連れ帰ることを許そう」

「プルートー様、ありがとう!」

「ただし、一つだけ約束がある」

「約束?なんです、それは?」

「母の手を引いて帰る時、消して振り向いてはならぬぞ。よいか、けして後ろを見ないことだ」

「わかりました。プルートー様」


 こうしてしばし後、荒野の向こうから歩いてくる一人の人物に出会いました。死に別れていた母です。

 母はルベリエの姿を見てたいそう驚き、震えました。

「一緒に帰ろう!お母さん」


 灰色の世界をずんずんと進んでゆきます。

 そうして再び、嘆きの川のほとりにやってきました。

「お母さん、僕はけしてお母さんの姿を振り返って見てはいけないんだ。よくつかまって。僕の手に」

 そういってルベリエは、カロンテにまた川を渡るようお願いしました。

「うむ。よかろう。若者よ。現世に帰ったら、せいぜいその楽器を大事にするがよいぞ」

 カロンテが船を漕ぎました。そうして向こう岸に着くと、カロンテは言いました。

「この先をひたすら進め。そうすれば現世に帰れる」

「ありがとう!カロンテさん」

 そしてルベリエは言われた通り、母の手を引きながらひたすら荒涼たる原野を進みました。

 どのくらい進んだでしょうか。ふと気がつくと、彼は見覚えのある景色にたどりつきました。

 堅い材木の匂いと、埃っぽい空気。

 いろいろな物が色を持っています。ここはどうやら冥府ではないようです。

「やあ、お帰り!良くやった!」

 飴売りが言いました。二人はオペラハウスの幕の裏側にいたのです。

 大山猫が鳴き、ミミズクが羽ばたきました。その日は終わりました。


「また別の国に行くのですか?」

 ある日、ルベリエはルッカの街の大聖堂前の広場で、飴売りに言いました。

「うむ。私はどうやら流浪の身でいるのが天職のようだ。そうだ、ルベリエよ。君に是非とも聴いてほしいお願いがある」

「なんです?それは?」

 ルッカの街の大貴族のフレスコヴァルディ公爵が君のことをたいそう気に入ってね。是非お抱えのトランペッターとして働いて欲しいと言うのだ。どうだねルベリエ?この話にのるかい?」

「飴売りさん。僕はあの時約束したんです。冥界の王に、トランペットを生業として生きていくと。だから喜んでそのお話をいただきます」

「それは良かった」

 そういうと飴屋は、公爵直筆のサインの書いてある契約書を取り出し、ルベリエに見せました。そこにはラテン語でこう書かれています。

「汝、ルベリエよ。余は汝に我が宮廷で楽師として勤めることを要求する。俸給は年額五千ドゥカート。担当する楽器はトランペットとする。この契約が、お互いに喜びをもたらすものだと信じよう」

「飴屋さん。僕、ここで働くよ!」

 すると飴屋はクスっと笑って、その契約書をルベリエに渡しました。

「では、活躍を期待しているよ。未来の大音楽家さんにね」

 そうして飴屋は広場に止まっている一台の箱馬車を呼び止めると、それに乗りました。

 御者が馬に鞭をいれました。馬車は軽々と過ぎ去ってゆきます。

「ありがとう!飴屋さん!」

 こう言ったルベリエの声が聞こえたかどうか、それは誰にもわかりません。

 飴売りのその後は知られていません。

 ヴェローナで飴売りをしていたとか、ベルガモで辻音楽師をしていたという噂もありました。

 そしてルベリエは、フレスコヴァルディ公爵のお抱えのトランペット吹きとなり、宮廷でその腕前を思う存分にふるいました。

 彼には仲間と呼べる友が出来ました。公爵の寵愛を一身に受けて、宮廷でその名を馳せるトランペッターとなりました。

 父も母も大喜びでした。ルベリエは一人前になったのです。

 それからしばらく後、ルッカの街で開かれた御前演奏会の会場で、意気揚々とトランペットを吹くルベリエの姿を見た者がありました。

 太陽も光も南風も、今はルベリエの味方でした。そして多くの人間たちが、その仲間になったのです。

ルベリエは太陽と結婚していました。それほど彼は、世界を愛していたのです。


                                       完



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