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スイートシークレット

掲載日:2026/04/17

「甘い秘密、こぼれてます——お姉ちゃんの学校に潜入中!」

第1期【前半】第1〜12話


════════════════════════════════════════


第1話 「お姉ちゃん、それは無茶ってやつです」


 パリの三ツ星菓子店でも絶賛された十九歳のパティシエ、白瀬凛がガトーショコラの試作に没頭しているところに、姉の桜子から泣き声混じりの電話が入ったのは、春の終わりのことだった。


「凛くん助けてっ。正規講師が三人まとめて交通事故で入院して、来週から授業ができないの。凛くんなら教えられるでしょ!」


「……姉さん、僕の学歴もキャリアもない話を知ってますよね」


「お願いっ。三ヶ月だけ。あなたより技術のある人間、日本にいないんだから!」


 白瀬凛、二十歳。男だてらに女の子と間違われるほどの美貌を持つ天才パティシエ。くるくるした栗色の髪、透き通るような肌、華奢な輪郭。制服を着ていたら誰も男と気づかない、と姉に太鼓判を押されていた。そしてその姉は——世間体と経営的観点から、男性講師が入ることへの「リスク」を語り始めた。


「バレたら学院の信頼が崩れるの。だから凛くんは……白瀬凜子先生として来て?」


「女装はしません」


「顔だけで十分よ。凜子先生で通るから」


 かくして白瀬凛は、姉が経営する「聖シュクレ女子パティシエ学院」に臨時講師として潜入することになった。制服ではなく白衣を着ていれば問題ない——はずだった。


 初日の朝、凛が実習室に入ると、整然と並んだ実習台に二十人の視線が突き刺さった。全員が二十歳から二十三歳。ショートから長い黒髪まで、個性豊かな美女たちが凛を値踏みするように見つめている。


「え……」「すっごく可愛い先生……」「女の子みたい」


(女の子みたい、じゃなくて男なんだけどな)と凛は心の中で訂正しながら、コンポジットバターの温度について話し始めた。声を少し高めにするだけで「凜子先生」は完成する。喋れば喋るほど生徒たちの目が輝いていく。


「先生、お菓子作るとき何を一番大切にしてるんですか?」


 元気な声に顔を向けると、最前列でオレンジ色のヘアバンドをつけた小麦色の肌の女の子が目を爛々と輝かせていた。


「朝霞日和です! パティシエになるって決めてから五年、先生みたいな人を待ってたんです!」


(五年……それは本気だ)凛の口元がほんの少し緩んだ。「食べる人に幸せを届けること、かな。技術はそのための道具にすぎない」


 日和の目に、何かが宿った。凛はそれを見て、この三ヶ月が思ったより楽しくなりそうだ、と感じた。


 放課後、更衣室の扉を間違えて開けた凛は、着替え中の日和と目が合った。


「きゃああああ!!」


「す、すみません!! 扉が同じ色でっ——」


 豪速球のように飛んできたエプロンが凛の顔面に直撃した。日和は真っ赤になりながら叫ぶ。「先生も女なんだから気をつけてください!!」


(女……か)凛は廊下でひとり呟いた。「この三ヶ月、無事に乗り切れる気がしない」


──────────────────────────────


第2話 「クール美女は甘いものに弱い」


 二年生の実習クラスに入ると、雰囲気が一年生と明らかに違った。落ち着いた空気の中、目の端が切れ長の美女が腕を組んでこちらを見ている。霧島千夏、二十一歳。学院の成績トップで、前任の講師たちが「手に負えない」と口を揃えたという問題生徒だ。


「凜子先生、基礎のガナッシュなんて私には必要ないんですけど」


 凛は気にした様子もなく、ボウルにクリームを注ぎながら言った。「じゃあ目隠しして作ってみて」


「……は?」


「基礎が完璧なら手の感覚だけで仕上がる。それが確認できたら次に進む」


 千夏は鼻で笑ったが、バンダナを目に当てて作業を始めた。そして十五分後——彼女の顔が微妙に歪んだ。完成したガナッシュは、分離していた。


「…………」


「理論では知ってるけど、体が追いついてない。よくある話」凛はさらりと言った。「教えようか?」


 千夏は口を一文字に結んで「……お願いします」と絞り出した。それが彼女なりの全力の敬意だと、凛には何となくわかった。


 実習後、材料室で凛が棚の上段に手を伸ばしていると、後ろから千夏が伸び上がって隣に並んだ。身長差がほとんどない二人が肩を並べて棚に手を伸ばした瞬間、足場が滑り、千夏が凛の胸元に倒れ込んだ。


「っ——」


 凛の白衣のボタンが二つ弾け飛び、千夏の顔が凛の胸のあたりに埋まる。一瞬の静寂ののち、千夏が顔を上げると、凛の顔が見たことのないくらい赤くなっていた。


「……凜子先生って意外と……」千夏が何かを言いかけた。


「言わないで」凛は素早く白衣を直した。「材料、取れた?」


「……取れました」


 その夜、千夏は寮の自室でぼんやりと考えた。「凜子先生って、なんか……変な人だな」そして自分の頬が熱いことに気がついて、慌てて窓を開けた。


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第3話 「和と洋のはざまで、先生は転んだ」


 和洋融合菓子を専攻する特別クラスを担当することになった凛の前に現れたのは、和服姿が板についた大和撫子——桐原ほのか、二十歳だった。穏やかな微笑みと丁寧な言葉遣いが印象的な彼女は、抹茶とフランス産バターを組み合わせたテリーヌを、驚くほど繊細に作り上げていた。


「美しい仕事だ」凛が率直に言うと、ほのかはきょとんとした。


「先生、ほんとうに……? 指導教官の先生はいつも『もう少し西洋の技法に寄せろ』と言いなさるのです」


「それは違う。君の菓子には君にしかない文脈がある。それを消したら、ただのコピーになる」


 ほのかの目が潤んだ。「先生……」


「泣かないで。砂糖が溶ける前に仕上げよう」


 その日の午後、茶室に近い和室実習棟で、ほのかが和三盆の使い方を凛に教えていた。凛が正座に慣れず足がしびれてよろめいた瞬間、ほのかが支えようとして、二人は畳の上にもつれて倒れた。


 凛がほのかの柔らかな背中に手を回した格好になり、ほのかの長い黒髪が畳に広がる。間近でほのかの驚いた顔が凛を見上げていた。


「……先生、お顔が、とても近ございます」


「……す、すみません」凛は跳び起き、縁側の外を見た。「正座って難しいな」


「先生、本当に女性なのですか……?」ほのかが首を傾げた。「お顔立ちはどう見ても女性なのに、なんだか……男の方のように感じることがあって」


「……気のせいだよ」凛は笑った。胸の鼓動が少し速かった。


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第4話 「ギャルな三年生はツンデレでした」


 三年生の実習室に入ると、一番後ろの席で派手なネイルをしながらスマホを見ていたギャルが顔を上げた。椎名みお、二十二歳。金色に染めた髪に大きなピアス、校則ぎりぎりのメイク——しかし先週の実技試験でコンクール級のミルフィーユを仕上げた女だと、桜子から聞かされていた。


「新しい先生って聞いてたけど、こんなに若いんすね。てか可愛すぎて笑えるんだけど」


「技術はある?」凛は単刀直入に訊いた。


「は? あるに決まってんじゃん。この学院でウチに勝てる子、いないし」


「じゃあ組み合わせてみよう。今から即興で、渡した食材だけでプティガトーを一つ」


 みおは「は、余裕っしょ」と言いながら立ち上がり、三十分後——彼女の作ったプティガトーは、クラスで唯一、凛が一口食べて黙ったものだった。


「……悔しいけど、うまい」


「…………え? 先生、今褒めた?」みおが固まった。


「欠点もある。話しながら直そう」


 みおは耳まで赤くしながら「……べっつに、嬉しくないし」と呟いた。


 放課後、シャワー室の時間割を確認せず入った凛の前に、タオル一枚で出てきたみおが立っていた。


「…………」「…………」


「出てけ!!! キモっ!!!」


 廊下に転がり出た凛は、扉越しに「先生も女でしょ!? なんで赤くなってんの!?」という声を聞いて、深呼吸した。(この秘密、本当に保てるのか……?)


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第5話 「データではわからないこと」


 東條梨花、二十一歳。丸いメガネをかけた理論派で、実習中もタブレットにデータを打ち込み続けている。バターと卵の最適配合比をAIで算出してきたと言って提出した菓子は——美しかったが、感動がなかった。


「凜子先生、私のフォーミュラのどこに問題があるんですか。全指標でクリアしています」


「食べてみて」凛は自分が作ったシュークリームを差し出した。


 梨花がそれを口にした瞬間、眉がぴくっと動いた。「……なんですか、このフィリングの配合は。データ的にありえない」


「でも美味しいでしょ」


「……美味しい、ですね」梨花が眼鏡の奥で瞬いた。「なぜですか。計算上、この温度でこの素材は——」


「人の直感には、まだデータになってない情報が入ってる。それがレシピの外側にある部分」


 梨花は三秒沈黙して、タブレットに「直感:定量化要」と入力した。凛は笑いをこらえた。


 研究室で資料を探していた凛は、梨花が抱えていた段ボールと正面衝突した。菓子の成分資料が宙を舞い、二人は絡まるように床に倒れた。梨花のメガネが凛の胸ポケットに引っかかり、近距離で二人の顔が向き合う。


「……先生の目、12.4mmの瞳孔径……測定してもいいですか」


「今は状況が状況だから遠慮して」凛は真顔で答えた。


 梨花は頬をうっすら染めながら「状況……分析中」と呟いた。


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第6話 「名家の令嬢は負けを認めない」


 結城さくら、二十歳。料理家の名門・結城家の長女で、背筋がすっと伸びた令嬢然とした美女だ。他の生徒には敬語で接しながら、凛に対してだけは何故か対等を主張してくる。


「凜子先生とは同い年です。敬語は不要ですわ」


「講師と生徒の関係は年齢じゃなくて立場で決まる」凛はさらりと言った。


「では私が先生を超えたら、フラットな関係になれますか」


「超えた時に考える」


 さくらは静かに闘志に火がついた顔をした。それから三日間、彼女は誰よりも遅く実習室に残って練習した。そして金曜日、凛の前にケーキを差し出した。


 凛が食べて、目を細めた。「……いい。でも砂糖の引き方が一段階雑。そこだけ」


「ご指摘ありがとうございます」さくらは悔しそうに、しかし確かに嬉しそうに頭を下げた。


 放課後の試食室で、さくらが凛に和菓子を振る舞おうとしてこぼしたクリームが、凛の制服の上着の前面に飛び散った。


「申し訳ありません! 今すぐ——」さくらが慌てて布を当てようとしたとき、凛が上着を脱ぎかけて、その下のシャツ越しに、明らかに女性ではない体のラインが一瞬見えた。


 さくらが目を丸くして固まった。


「……ど、どうかしましたか」凛が素早く上着を直した。


「……いいえ。気のせいかもしれませんが……」さくらは静かに目を伏せた。「失礼しました」


(バレた——?)凛の背中に冷や汗が伝った。しかしさくらはそれ以上何も言わず、ただ頬が少し赤くなっていた。


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第7話 「学年長のお姉さんは距離がゼロ」


 四年生の瀬川つばき、二十三歳は、学院の非公式「お母さん」的存在で、下級生の面倒見が良く、先生と生徒の橋渡し役でもあった。背が高く、落ち着いたオーラのある美人で、凛を初めて見た瞬間に目を細めた。


「あなたが新しい先生? なんて可愛いの」


「よろしくおねがいします、瀬川さん」


「つばきでいいわ。先生、もしかして私より年下じゃないかしら」


「三歳ちょっと下です」


「じゃあ先生じゃなくて凜子ちゃんと呼んでいい?」


 凛は職員室でこの問答を繰り広げながら、つばきが実に自然に凛の隣に座ってきたことに気づいた。パーソナルスペースの概念がない。肩が触れている。匂いがいい。


「……凜子ちゃん、髪綺麗ね。触っていい?」


「ちょっ……!」


 つばきは笑いながら凛の栗色の髪を一房すくった。「本当に綺麗。サラサラ」


 学院の近くの温泉施設で行われた一泊研修の初日夜。凛が間違えて女性用の浴室棟に近づいてしまったところで、風呂上がりのつばきと廊下で遭遇した。つばきはバスタオルを体に巻いていて、まだ髪が湿っている。


「あら凜子ちゃん、もうお風呂済んだの?」


「あ、いや、道を間違えて——」


「じゃあ一緒に入りましょう」


「遠慮しますっ!!」


 凛は全力で男湯の方向へ走り去った。つばきは首を傾げながら「なんで先生ったら、女の子同士なのに恥ずかしがるのかしら」と微笑んだ。


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第8話 「小さな声で、ありがとう」


 涼宮あかり、二十歳。入学以来、一度も発言したことがないと言われる超引っ込み思案の一年生だった。身長が学院で一番小さく、廊下ですれ違うと空気に溶けそうなほど存在感が薄い。しかし凛が最初の授業で「じゃあ全員一言、今日学んだことを言ってみよう」と回したとき、順番が来てあかりが消え入るような声で「……クリームの、空気の入れ方が……わかりました」と言った瞬間——


「うん、ちゃんと聞こえたよ」凛が静かに言った。「よかった」


 あかりの目に涙が浮かんだ。誰かに「聞こえた」と言われたのが、初めてだった。


 放課後、一人で実習室に残って練習しているあかりを見つけた凛は、隣のテーブルで黙って自分の作業をした。あかりは最初びくびくしていたが、三十分後には集中して作業している。


「……先生、見ていてもいいですか」あかりが小さな声で言った。


「どうぞ」


 凛がパートシュクレを伸ばす手元を、あかりが食い入るように見る。やがて「……すごい」と息を漏らした。


「真似してみたら?」


 あかりが恐る恐る生地に触れると、初めてきれいな厚さで伸びた。あかりが顔を上げて、ぱっと笑った。その笑顔を見て、凛は少し驚いた。さっきまでの存在感のなさが嘘のように、あかりの笑顔は眩しかった。


「……ありがとう、ございます」


「どういたしまして」


 翌日から、あかりは少しだけ、廊下での足音が大きくなった。


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第9話 「チョコレートと涙の味」


 天野るな、二十一歳。チョコレート工芸師を目指す情熱家で、授業中でも感動すると泣く。凛が単粒カカオのテンパリングを実演したとき、るなはラインの前で静かに泣いていた。


「……泣いてるの?」


「綺麗すぎて……このチョコの艶……テーブルに映ってる先生の顔も綺麗で……」


「褒め方がごっちゃになってる」凛は苦笑した。「拭いて。塩分がチョコに落ちる」


 るなはわっと笑いながら目を拭った。こういう子は、感性がいい、と凛は思った。


 るなが学院の昼休みに中庭のベンチで泣いているのを見つけたのは、翌週のことだった。今度は違う泣き方——静かで、自分を押し込めるような泣き方だった。


「どうした?」凛が隣に座った。


「……コンクールの課題、全然できなくて。自分には才能がないのかなって」


 凛は少し考えて、ポケットから紙切れを出した。「これ、三年前に僕が初めてコンクールに出たときのメモ。全部できなかったことのリスト」


「…………」るなが紙を見た。小さな字でびっしり書かれた「失敗リスト」。「先生も、こんなに失敗してたんですか」


「才能がある子は最初から全部できる——そんな子、見たことない」


 るながまた泣いた。でもこっちの涙は、さっきとは違う種類だと凛にはわかった。


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第10話 「観察眼を持つ女は危険です」


 宮本柚希、二十二歳。文章を書くのが得意で、将来は料理研究家と食評家を兼ねたいという変わり種。授業中ずっとノートを取っているが、よく見ると菓子の記録ではなく、「凜子先生観察日記」と書いてあった。


「それ見せて」凛がさらりと手を伸ばすと、柚希は素早くノートを胸に抱えた。


「プライバシーですよ先生」


「なんで先生を観察してるの」


「……先生って、女の子に見えるのに、時々すごく男っぽい仕草をするんです。ロールモデルとして記録価値があるかと」


 凛の背中に冷や汗が流れた。「……なるほど」


「先生の手、大きいですよね。女性にしては」


「……菓子職人は手を鍛えるから」


「姿勢が綺麗なのに、歩き方が少し外股で——」


「今日の実習行こうか!」


 放課後、柚希が廊下の奥で転んで足首をひねった。凛がすぐに駆け寄り、しゃがんで足首を確認しようとして、スカートのすそが思い切り顔に覆い被さった。


「ちょっ——!」


「すみません! でも先生……今の接触、明らかに女性の手じゃなかったですよ?」


 凛が立ち上がり、真顔で言った。「観察日記に書いた?」


「もちろんです」と柚希は微笑んだ。「でも、先生の秘密は——私だけのものにしておきます」


(この子は、知っている)凛は確信した。しかし柚希の目には、糾弾ではなく、静かな好奇心と——何か別のものが混じっていた。


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第11話 「秘密が揺らぐ夜、お姉ちゃんはのんき」


 柚希が何かを知っている——その確信を抱えたまま、凛は姉の桜子に報告しに行った。学院長室で桜子はのんきにマカロンを食べていた。


「姉さん、宮本さんが僕のことに気づいてるかもしれない」


「あら、柚希ちゃん? 頭いいから仕方ないわ」


「仕方ないじゃないですよ! バレたらどうするんですか」


「凛くんがバレないように頑張れば解決じゃない?」


「……姉さんの楽観主義、すごいですね」


 桜子はにっこりした。「でも正直に言うと、最近生徒たちの授業評価が過去最高なのよ。凛くんの教え方が良いから。だから少々のトラブルは目をつぶるわ」


 凛は脱力しながら、しかし少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。


 夜、寮の隣の部屋から日和とあかりの笑い声が聞こえてくる。どうやら二人が仲良くなったらしい。


 凛は屋上に出て夜空を見上げた。三ヶ月の約束のはずが、もう一ヶ月が経った。あと二ヶ月——しかし最近、「あと二ヶ月しかない」という言葉の方が頭に浮かぶようになっていた。


(バカなことを考えてる)凛はひとり苦笑した。でも風が夜の砂糖みたいに甘かった。


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第12話 「中間発表会と、こぼれた砂糖」


 前半クライマックス。学院恒例の「中間発表会」——在校生全員が保護者や業界関係者の前で自分の作品を披露する大一番だ。今年は凛が担当するクラスの生徒たちが揃って力を入れていた。


 日和は「食べた人が笑顔になる菓子」をテーマに、鮮やかなフルーツと軽いクリームの組み合わせを完成させた。千夏は目隠し特訓の成果でガナッシュの完成度が格段に上がり、「まだ満足していない」と言いながらも堂々とした作品を出した。ほのかの和洋融合テリーヌは審査員に絶賛された。みおはコンクールレベルの飴細工に挑戦し、みごとに成功した。


 そして一番後ろのテーブルで——あかりが小さな手でシュークリームを差し出した。ほんの少し不格好な形。でも味は、控えめに言っても学院トップクラスだった。あかりの母親が「すごい」と言って涙ぐんだ。あかり自身も泣き始めた。


 凛は少し離れた場所からそれを見ていた。


 発表会の後、片付けをしていた凛に、十人の生徒たちが次々と話しかけてきた。感謝の言葉、質問、「先生ならどうする?」という相談。気づくと凛は糖衣がけ作業中の砂糖を手にしたまま、生徒たちに囲まれていた。


 日和が笑いながら「先生、砂糖こぼれてますよ」と言った。


 凛の手から砂糖がさらさらと床に落ちていた。凛はそれを見て、ふと笑った。


「……ほんとだ」


(甘い秘密が、こぼれてく。でもまだ、もう少しだけ——)


 凛は砂糖を拾い集めながら、囲んでいる十人の顔を順番に見た。それぞれに違う個性、違う夢、違う笑顔。この三ヶ月が終わることを、凛は初めて、本当の意味で惜しいと思った。


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「甘い秘密、こぼれてます——お姉ちゃんの学校に潜入中!」

第1期【後半】第13〜24話


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第13話 「インフルエンサー志望の女の子は大惨事製造機」


 神崎芽衣、二十一歳。見た目はまるでアイドルで、自分のSNSアカウントには菓子の写真を日々投稿している。フォロワー十万人超えのお菓子インフルエンサーだ——が、問題は彼女の実技試験成績が学院ワースト三位という事実だった。


「写真は最高なのに、どうして実物がここまで……」


「盛り付けだけ上手いんです! 味は……もう少し」芽衣は艶やかな笑顔でVサインをした。


 凛が彼女の実習を見ていると、原因はすぐにわかった。計量が目分量。温度計を見ない。手順書を読まない。その代わり、完成したものの写真角度とライティングだけは神がかっていた。


「まず計量から直そう。一グラム単位で」


「えー、先生ってそういうとこ几帳面ですよね」芽衣がにこにこしながら凛の腕に手を絡ませた。「教えてくれる? 先生の手、触ってみたかったんですよね。パティシエの手って綺麗で」


(近い近い近い)凛は内心パニックになりながら計量スプーンを差し出した。「まずこれを持って」


 実習の後半、芽衣がバターを溶かしたボウルを持ち上げた瞬間にバランスを崩し、ボウルの中身が弧を描いて飛んだ。全て凛に直撃。


「きゃーー!! 先生ごめんなさいっ、えっ、白衣がっ——!」芽衣が慌てて凛の白衣を引っ張ると、ボタンが全開になった。「えっ、えっ、えっ!」


「落ち着いて!!」凛は素早く白衣を押さえた。クラス中が固まっている。芽衣が真っ赤な顔で「先生……お胸、細いんですね……」と呟いた。


「仕事柄ね」凛は奇跡的な冷静さで答えた。胸の動悸はその後三十分止まらなかった。


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第14話 「体育会系とデコレーション戦争」


 水上莉子、二十歳。元陸上部の長距離選手で、体力と根性だけは学院随一。ただし菓子づくりに「力強さ」を持ち込みすぎる傾向があった。スポンジを混ぜると消泡して煉瓦になり、クリームを絞るとバズーカになる。


「先生、どうすれば繊細にできますか! 気合いが足りないんでしょうか!」


「気合いを抜くのが課題だよ」凛は苦笑した。「菓子づくりって、力じゃなくてリズムなんだ」


 凛が莉子の手を後ろから取って絞り袋を一緒に持った。「こう——力を抜いて、呼吸に合わせて」


 莉子が固まった。「せ、先生、手が……」


「菓子職人の手だから硬いでしょ。ごめんね」


「硬い……? でも、綺麗な形のクリームが出てる……!」


 莉子の目が輝いた。「すごいっ、初めてローズ絞りができた!」


 体育祭の準備と重なって莉子が実習室で一人ランニング後に作業していた夜、凛が扉を開けると——ランニングウェアのまま作業している莉子と目が合った。運動後で頬が赤く、汗で少し乱れた前髪が頬に張り付いている。


「先生! ちょっと待ってください、今こんな格好で——」


「忘れ物を取りに来ただけ。続けて」凛は素早く踵を返した。廊下で深呼吸をする。(あの笑顔、あかんやつだ)と凛は他人事のように思った。


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第15話 「指先が語ること——感動の砂糖細工」


 橘花音、二十二歳。補聴器を使用している彼女は、聴覚の代わりに触覚が異常に鋭敏だった。デコレーションの実習で、彼女の指先が砂糖細工をなぞる動きは、まるで彫刻家のようだった。


 凛が彼女に話しかけるとき、必ず正面から口の動きがわかるようにする、という習慣が自然に身についていた。ある日の実習後、花音が筆談で一枚の紙を差し出した。


『先生はいつも私の方を向いてくれる。他の先生は横向きで話す。ありがとう』


 凛は少し考えて、筆談で返した。『気づいてなかった。でも、当たり前のことだと思う』


 花音が小さく微笑んだ。その笑顔は、砂糖細工と同じくらい繊細で美しかった。


 学院の文化祭で、花音が制作した砂糖細工の薔薇が展示された。指先の感覚だけで作られた三百枚の薔薇の花びらは、ガラスケースの中で光を集めて輝いていた。


 凛がそれを見て、思わず「綺麗だ」と声に出した。花音は口の動きを読んで、静かに頷いた。


 その夜、凛は実習ノートに書いた。「技術は感覚で伝わる。言葉がすべてじゃない」


 それは、菓子づくりについての言葉でもあり、今日学んだことについての言葉でもあった。


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第16話 「芸術家気質の女の子は宇宙人でした」


 夏目詩織、二十歳。元小説家志望で、「菓子は食べられる物語だ」という信念のもとパティシエに転向した変わり者。実習中に突然「この砂糖の結晶に宇宙の始まりを感じる」と言い出して作業が止まる。


「詩織さん、手が止まってる」


「先生、この砂糖の粒って生命の縮図だと思いませんか。甘さという感情の結晶で——」


「哲学は後で。今はイタリアンメレンゲ」


「でも先生も感じてるでしょ。凜子先生って、菓子を作るとき目が変わる。あれは詩人の目です」


 凛は一瞬言葉に詰まった。「……メレンゲの泡立てに集中して」


 詩織が実習後に書いた「ガトーショコラについての詩」を凛が偶然読んだ。見事だった。チョコレートの溶ける瞬間を「夜が甘く崩れる」と表現し、焼き上がりを「時間が香りになる」と書いていた。


「……これ、うまい」凛が率直に言うと、詩織が両目を輝かせた。


「先生に褒められた! 菓子も詩も! ……好きです!」


「……菓子の話ね」


「全部含めてです!」詩織が笑った。凛は奇妙な温かさを感じながら、それをどう処理すべきか判断できずにいた。


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第17話 「四年生の先輩は全部お見通し」


 安西ひまり、二十三歳。プロパティシエ試験を三回受けて三回落ちている努力の人。「諦めないこと」が信念で、後輩たちから慕われている。凛を初めて見た日から、ずっと静かに目を細めていた。


 ある昼休み、ひまりが凛に隣に座った。


「凜子先生、少しいいですか」


「どうぞ」


「……先生の手のひら、見せてもらえませんか」


 凛は警戒しながら差し出した。ひまりが静かに見た。「……職人の手ですね。タコの位置と向きが、男性のそれに近い」


「……」


「私、試験に三回落ちてる間に、色んな職人さんに会ったんです。先生の所作、どこかで見た動きで」ひまりが顔を上げた。穏やかな目だった。「でも、先生の教え方は本物だと思ってます。だから——秘密、守ります」


 凛は静かに頭を下げた。「……ありがとう」


「その代わり、プロ試験の対策、特訓してもらえませんか」


「喜んで」


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第18話 「同じ名前でも全然違います!」


 星野凛花、二十一歳。主人公の「りん」と名前の音がほぼ同じで、呼ぶたびに二人同時に振り向くという混乱が毎日発生していた。しかも二人は前髪の色まで少し似ているため、廊下でシルエットだけだと見分けがつかない事件が続出した。


「凛花さん」「はい?」「……先生に言いました」「あ、すみません」


 凛花は天の邪鬼な性格で、凛に何かを頼まれると必ず一度「嫌です」と言ってから従う。褒められると「別に嬉しくない」と言いながら嬉しさが顔に出る。


 ある日、廊下の角で凛と凛花が正面衝突し、ちょうど隣を通りかかった桜子院長が「凛、大丈夫?」と声をかけた。二人が同時に振り向き、院長が固まった。


「……あら、どっちに言ったのかしら」


「「凜子先生(凜子先生の方)に言ったんですよね」」二人が同時に言い、また二人して互いを見た。


(この状況は複雑だ)凛は思った。


 実習中、凛花が「先生の名前と私の名前、似すぎて混乱する」とぼやきながら、作業台の上でバランスを崩して転びかけた。凛が反射的に支えると、凛花の顔が凛の胸元に埋まった。


「……っ、離して」凛花が赤い顔で言った。


「怪我しなかった?」


「……してないっ。別に先生に支えてもらって嬉しくもないし」凛花が顔を背けて、耳まで赤くなった。


──────────────────────────────


第19話 「お嬢様の素顔は砂糖よりも甘い」


 九条優月、二十二歳。旧家・九条家の令嬢で、立ち居振る舞いがあまりにも完璧すぎて他の生徒が近寄りがたいと感じている。常に微笑みを崩さず、感情を見せない——はずだった。


 しかし凛が実習中に「そこ、力が入りすぎてる」と優月の手首をそっと指摘した瞬間、優月が「ひゃ」と声を出した。完璧なお嬢様が「ひゃ」と言った。


「……今の、聞いてましたか」優月が耳を赤くした。


「聞いてない」凛は即答した。


「……ありがとう、ございます」


 それから優月は凛の隣に来るたびに微妙に「ひゃ」と言いそうになるのを必死に抑えるようになった。凛はその様子を見るたびに自分でも不思議なくらい笑いそうになった。


 優月が一人で夜遅くまで残っているのを見つけた凛は、差し入れのレモンティーを持って実習室に入った。優月が驚いて立ち上がり、椅子の足に足を引っかけて転倒——凛が飛び込んで支えた。優月が凛の腕の中で固まった。


「……凜子先生、先ほどから距離が……」


「転んだら怪我するから」


「……私、こういう状況で動揺するのが嫌いなのに」優月が静かに言った。「先生のそばにいると、動揺します」


「……ごめん」


「謝らないでください」優月が静かに凛の腕を離れた。「……嫌いじゃないので」


──────────────────────────────


第20話 「関西弁のムードメーカーが泣いた夜」


 福島なな、二十歳。関西弁でクラスをいつも明るくする人気者。誰もが「なな先輩は強い」と思っていた。


 しかしある夜、凛が屋上に出ると、なながひとりで星を見上げながら、声を殺して泣いていた。


「……なんで先生がおんねん」ななが慌てて目を拭った。


「散歩。泣いてた?」


「泣いてへんし。目にゴミが——」


「どうぞ」凛がポケットからハンカチを差し出した。


 ななが固まって、また泣いた。今度は声を出して。


「……お母さんが入院してて。でも学院に来てもうて……心配かけたくなくて……みんなには言えなくて……」


 凛は隣に座って、何も言わずにいた。なながひとしきり泣いてから「……なんも慰めてくれへんのですね先生」と言った。


「泣きたいときは泣いた方がいい。慰めたら止まるでしょ」


「……やっぱり変な先生や」ななが笑いながら泣いた。「でも……ありがとう」


 翌日、ははいつも通りの関西弁で実習室を盛り上げていた。でも笑い方が、少しだけ軽くなっていた気がした。凛だけが気づいていた。


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第21話 「甘えたは止まらない、先生も困る」


 高瀬彩花、二十一歳。元パン職人志望からパティシエへ転向したため、他の生徒より基礎が一歩遅れている。そのせいで凛に個別指導を受ける機会が増え、気づくと凛に依存するようになっていた。


「先生、ここわかりません」「先生、これ見てください」「先生、先生——」


 一日の間に三十七回「先生」と呼ぶ(柚希のカウント)。しかも毎回、何か理由をつけて凛との距離を縮めてくる。


「彩花さん、呼びすぎ」凛が苦笑した。


「だって先生、教えるの上手いんですもん。それに……先生のそばにいると安心するんです」彩花がしれっと言った。「先生って、お母さんみたいな安心感がある」


「……お母さん」


「お姉さん……いや、先生……でも先生ってなんか、男の人みたいな頼もしさもあって——あ、女の人でも頼もしい人いますよね、すみません」


 凛は冷や汗を流しながら「技術の質問は何でも来て」と言った。


 実習中、彩花が隣の台から身を乗り出して凛の手元を見ようとして滑り、凛に正面からもたれかかった。柔らかい衝撃とともに凛はその場で固まった。


「先生、温かい……」彩花がぽつりと言った。


「……彩花さん、立って」凛は平静を保った。


「もう少しだけ」


「立って」


「……はーい」


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第22話 「毒舌な三年生、先生にだけ甘い」


 白石美桜、二十二歳。椎名みおと名前が似ていてよく呼び間違えられる(本人は毎回不機嫌になる)。普段は舌鋒鋭い毒舌家で、下手な菓子を「これを菓子と呼ぶのは侮辱だ」と平然と言ってのける。しかし凛の菓子だけは黙って全部食べる。


「美桜さん、感想は?」凛が訊くと、


「……普通です」


「さっき全部食べてたけど」


「お腹が空いてただけです」


「三回目も食べてた」


「……体が求めてただけです」


 美桜が唇を尖らせながら目を逸らす。凛は「そうか」とだけ言って次の実習に進んだ。美桜が気配を消しながら凛の手元を凝視していることには、気づいていた。


 放課後、美桜が廊下で見知らぬ業者男性に強引に話しかけられているのを見た凛は、自然に美桜の隣に立った。「この子、うちの生徒です」と静かに言った。男性は凛の無表情に何かを感じて去っていった。


 美桜が凛を見上げた。「……別に、自分で追い払えましたけど」


「そうだね」凛は歩き出した。


「……ありがとう、ございます」美桜が小さく、しかし確かに言った。凛の背中がかすかに緩んだ。


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第23話 「秘密は甘く、こぼれていく」


 三ヶ月の終わりが近づいてきた。正規講師が復帰する日まで、あと二週間。


 しかし学院内では妙な空気が流れ始めていた。「凜子先生、本当に女の人なの?」という声が複数の生徒の間でこっそり交わされるようになっていたのだ。柚希の観察日記、さくらの目撃、ひまりの確信——それぞれが断片として存在し、しかし誰も公言しない。凛はその空気を感じながら、毎日実習室に立ち続けた。


 その日の放課後、二十人の生徒が実習室に集まっていた。凛が扉を開けると、静まり返った教室に全員の視線が集まった。


「……どうかした?」


 日和が立ち上がった。「先生、聞いてもいいですか。先生って——」


 凛は一瞬止まった。これだ——この瞬間が来た、と思った。


「……言いたいことがあるなら聞く」


 日和が深呼吸して言った。「先生って、すごく頼りになるけど——先生も、つらいことがあったりしますか。私たちって先生に甘えてばっかりで、先生のことを何も知らないなって」


 凛は一瞬放心した。(性別の話じゃないのか)


 凛は少し考えて、言った。「……正直に言うと、僕にもわからないことはたくさんある。完璧な先生じゃない。でも、みんなが真剣に菓子に向き合う姿を見てると——それが僕の答えになってる気がする」


「僕って言った!」芽衣が声を上げた。


「……言いましたね」千夏が静かに言った。


「先生、もしかして——」みおが言いかけた。


 静寂が実習室を満たした。凛は正直に言おうか迷って、しかし——


 さくらが静かに「知ってます」と言った。優月が「存じておりました」と言った。柚希が「もちろん」と言った。ひまりが頷いた。そしてだんだん他の生徒たちも、「知ってた」「なんとなく」「でも関係ない」と言い始めた。


 日和が真っ赤になりながら「えっ私だけ知らなかったの!?」と叫んで、教室が一気に笑いに包まれた。


 凛は、こんな形で秘密がこぼれるとは思っていなかった。しかし——笑い声の中で、何か大切なものがふわりと宙に浮いているような気がした。


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第24話(最終話) 「ありがとう、また——甘い秘密のその先へ」


 正規講師が復帰し、白瀬凛の聖シュクレ女子パティシエ学院での三ヶ月が終わる日。


 最後の実習日、凛は二十人の生徒全員に同じことを言った。「一つだけ教える。食べた人を笑顔にしたいなら、作るときに笑顔でいること。気持ちは必ず菓子に入る」


 教室に沈黙が広がった。泣いているのは、あかりとるなだけじゃなかった。


 放課後、生徒たちが実習室に凛を呼んだ。テーブルの上には、二十人がそれぞれ自分の得意な菓子を一つずつ並べていた。


 日和の「笑顔のフルーツタルト」。千夏の「完璧なガナッシュのボンボンショコラ」。ほのかの「和三盆と抹茶のテリーヌ」。みおの「飴細工の薔薇」。梨花の「データと感性のシュークリーム」。さくらの「洗練されたミルフィーユ」。つばきの「包み込むような大きなモンブラン」。あかりの「不格好だけど世界で一番美味しいシュークリーム」。るなの「手作りの一粒チョコレート」。柚希の「観察を込めた繊細なプティフール」——


 芽衣、莉子、花音、詩織、ひまり、凛花、優月、なな、彩花、美桜——二十人それぞれの、今持てる全力の菓子。


「全部食べてほしいです」日和が言った。「全部先生に食べてほしくて作りました」


 凛は一つ一つを食べた。全部違う。全部美味しい。全部——この三ヶ月で確かに変化していた。


 最後の一粒、るなのチョコレートを口にした瞬間、凛の目から何かがこぼれた。声もなく、ただ、こぼれた。


「……うまいよ」凛は言った。声が少し揺れた。「全員、うまい」


 二十人が笑った。泣きながら笑った。凛も笑った。泣きながら笑った。


 桜子が扉の外から覗いていて、ハンカチで目を押さえていた。


 夜、荷物をまとめた凛が校門を出ようとすると、後ろから日和の声が来た。「先生!」


 振り返ると、二十人全員が門のところに立っていた。


「また来てください」日和が言った。「次は先生として、じゃなくていい。ただの凛さんとして」


「ただの凛……」凛は笑った。「考えとく」


「絶対来てください」千夏が静かに言った。


「絶対」みおが続けた。


 二十人の声が重なった。「絶対来てください!」


 凛は空を見上げた。夜の砂糖みたいな甘い風が吹いていた。


「……うん」凛は言った。「また来る」


 甘い秘密は、もうこぼれてしまっていた。でもそのこぼれた先に、もっと甘い何かが待っていた——凛はそんな気がした。


——第1期 完——


第2期へ続く


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