塔の支配
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黒毛の巨大コボルトは、ゆっくりと立ち上がった。
石造りの階段の前。
巨大な戦斧を脇に置き、まるで玉座に座る王のように佇んでいた異形が、その重い腰を上げる。
金属が擦れる音が静寂の街に響いた。
その身長は三メートル近い。
周囲のコボルトたちとは明らかに格が違う。
その姿は明らかに他のコボルトとは違っていた。
黒曜石のような黒毛。
幾重にも刻まれた古傷。
そして無数の修復痕が残る赤黒い甲冑に巨大な戦斧。
長年戦場を生き抜いた歴戦の将軍を思わせる風格があった。
だが。
赤星が驚いたのはそこではなかった。
怪物ではない。
猛獣でもない。
自分でも理由は分からなかったが、赤星は引き金を引く気になれなかった。
「……」
金色の瞳。
その視線がこちらを見ている。
敵を見る目ではない。
獲物を見る目でもない。
もっと別の――
どこか疲れ切った老人のような目だった。
「……なに?」
榊原美桜三曹が思わず呟く。
猫耳が緊張で僅かに伏せられている。
ネームド・コボルトは叫ばなかった。
警鐘も鳴らさない。
部下を呼ばない。
ただ。
静かに。
赤星たちを見つめていた。
まるで――。
最初から知っていたかのように。
「見つかっていた?」
黒川鉄馬一曹が小声で言う。
「いや…」
赤星は首を横に振った。
違う。
そういう反応じゃない。
黒川も拳を握ったまま動かない。
誰も撃たない。
それほどまでに異様だった。
天井を照らす白い光球だけが、街全体を薄く照らしている。
遠くの建物。
石畳。
使われているはずの井戸。
人のいない市場。
その全てが妙に整いすぎている。
まるで誰かが毎日管理しているかのように。
「……なんなんだよ、この街」
アレックス二尉が思わず呟く。
誰も答えられなかった。
赤星も同じことを考えていた。
塔とは何だ。
階層が上がるほど、その疑問は大きくなっている。
一階層は工場だった。
壁の中で兵器を生産していた。
十階層は進化装置だった。
そして十一階層に入った途端…。
これだ…。
街に、文明…。
ここには生活がある。
だが生産がない。
住民がいる。
だが子供がいない。
食料もある。
だが畑がない。
存在しているものと、存在していないものが噛み合わない。
その歪さが赤星の背筋を冷やしていた。
(こいつらは……何なんだ)
人間に近い。
あまりにも近い。
だからこそ不気味だった。
その時。
黒毛のコボルトがゆっくりと口を開いた。
「グル……」
低い声。
意味は分からない。
その声音には明らかな感情があった。
赤星は無意識に耳を澄ませる。
もしかしたら何か分かるかもしれない。
そんな予感がした。
コボルトは胸に拳を当て、戦斧を地面へ突き立てる。
轟音。
石畳が震えた。
その衝撃に周囲の建物から無数のコボルトが現れる。
槍兵。
盾兵。
弓兵。
「敵襲!」
榊原一曹が叫ぶ。
だが、異変は続いた。
現れたコボルトたちは階段の前に整列する。
まるで軍隊のように…。
「……防衛陣形?」
アレックス二尉が呟く。
その光景に赤星は違和感を覚えた。
野生動物ではない。
魔物でもない。
訓練された兵士だ。
その数、数十体。
普通なら包囲された瞬間に戦闘開始だ。
赤星は息を呑んだ。
(訓練されている)
コイツらは獣ではない。
理性のない魔物でもない。
完全に兵士そのものだ。
兵士であるなら、命令する存在がいる。
隊に命令を下している。
任務を与えている存在が…。
その瞬間。
無線機にノイズが走った。
『――こちらベータ!』
ノーマンの声だった。
赤星の顔が険しくなる。
無線封止。
それを破るということは。
何かが起きた、という事だ。
『全隊注意!』
『接触したネームドが喋った!!』
一瞬。
思考が止まる。
榊原も黒川も顔を見合わせる。
『人間の言葉じゃない!』
『だが言語だ!』
『何かを繰り返してる!』
ノーマンの声にも動揺が滲んでいた。
戦場で滅多に感情を乱さない男が、揺している。
その事実が事態の異常さを物語っていた。
目の前の黒毛コボルトもまた。
ゆっくりと口を開いた。
金色の瞳が真っ直ぐ赤星を捉える。
まるで何かを伝えようとするように。
必死に。
「ニ……」
榊原が目を見開く。
黒川の呼吸が止まる。
「……ゲ……ロ……」
誰も動かなかった。
理解できなかった。
いや。
理解してしまった。
日本語だった。
たどたどしい、壊れた機械のような発音。
それでも。
「ニゲロ」
そう聞こえた。
赤星の心臓が大きく脈打つ。
寒気が走る。
敵が警告している。
命乞いではない。
助けを求めているのでもない。
これは警告だ。
俺たちに逃げろ、と言っている。
この先へ進むな。
そう言っている。
「お前……何を知ってる」
赤星は思わず口にしていた。
当然返事など期待していない。
だがコボルトは反応した。
激しく首を振り、苦しそうに喉を押さえる。
苦悶の表情で震える腕で天井を指差した。
その金色の瞳に浮かんでいたのは。
敵意ではない。
恐怖だった。
思い出すだけで震えるような恐怖。
赤星は息を呑む。
その表情を見た瞬間、直感した。
このコボルトは、自分たちより遥かに多くを知っている。
塔のことを。上層のことを。
そして――
次の瞬間だった。
コボルトが絶叫した。
「グアァァァァアアアアアアアアッ!!」
頭を抱え。
全身の血管が黒く浮き出る。
金色だった瞳が。
ゆっくりと、墨を流し込んだように黒く染まっていく。
赤星の背筋に悪寒が走る。
まるで、"誰か" が口封じをしている。
そんな錯覚だった。
錯覚ではないかもしれない。
コボルトは何かを話そうとした。
そして壊れた。
まるで禁忌に触れたかのように。
「総員戦闘用意!」
赤星の怒号が響く。
その瞬間。
黒毛のコボルトが戦斧を握った。
先ほどまでの理性は消えている。
こにいるのは戦士ではない。
操り人形のような何か。
周囲のコボルトたちも一斉に吠え始める。
理性が消える。
秩序が消える。
兵士たちが怪物へ変わる。
赤星は戦斧を構えるネームドを見据えながら、確信していた。
こな塔はただのダンジョンではない。
ただの異世界でもない。
そして守護者たちも、最初から守護者だったわけではない。
もし、このコボルトたちが、守護者へ作り替えられた存在だとしたら。
かつての自分たちと同じように。
塔へ挑み。
敗れた文明の成れの果てなのではないか?
そんな恐ろしい考えが赤星の脳裏に過った。
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