第9話:クリスマスの告白
倉庫での一件以来、僕たちの世界は、再び厚い氷に覆われてしまった。一条蓮が投下した「真実」という名の爆弾は、僕と日高咲との間に芽生えかけていた、か細い信頼の芽を、根こそぎ吹き飛ばしてしまった。
日高さんは、学校に来なくなった。
表向きの理由は「体調不良」。だが、それが嘘であることは、誰の目にも明らかだった。一条くんの言葉が、彼女の心を完全に壊してしまったのだ。
教室の、空になった彼女の席を見るたびに、僕の胸は罪悪感で押し潰されそうになった。僕が、彼女の過去を暴こうとしなければ。僕の写真が、一条くんの目に留まることさえなければ。彼女は、今も、ここで笑っていたかもしれない。
一条くんは、何事もなかったかのように、学校に通い続けていた。クラスでの人気も相変わらずだ。しかし、彼の笑顔は、僕の目には、薄っぺらな仮面のようにしか見えなかった。彼が日高さんを追い詰めた張本人であるという事実を知っているのは、世界で、僕だけだった。
「……なあ、夏目」
ある日の放課後、藤堂蓮が、僕に声をかけてきた。彼の表情は、これまでになく真剣だった。
「咲から、何か聞いてねえか? あいつ、俺からの連絡にも、一切、返事をしねえんだ」
「……俺も、何も」
「……そうか。やっぱり、一条の奴が、何かしたんだな」
藤堂は、僕が倉庫での出来事を知っていることに、気づいているようだった。
「あいつは、昔から、凛のことになると、周りが見えなくなる。凛が死んだのは、自分のせいだと思い込んでるからだ」
「自分のせい……?」
「ああ。凛が死ぬ前日、一条は、凛と大喧嘩したんだ。理由は知らねえ。でも、そのせいで、凛は誰にも助けを求められずに、一人で……」
藤堂の言葉は、僕にとって、新たなパズルのピースだった。
一条くんは、凛さんを救えなかった後悔から、日高さんを憎んでいる? だが、それだけだろうか。彼の憎しみは、もっと個人的で、根深いもののように感じられた。
「頼む、夏目」と、藤堂は、僕に頭を下げた。「お前しか、いないんだ。咲の心を、もう一度、開けるのは。お前の写真だけが、あいつを救えるんだ」
藤堂の、悲痛な願い。
僕は、何も言えずに、ただ、強く拳を握りしめた。
僕に、そんな資格があるのだろうか。
僕は、日高さんの家の前まで、何度も足を運んだ。しかし、インターホンを押す勇気は、どうしても出なかった。彼女に、どんな顔をして会えばいい? なんて言葉をかければいい?
時間だけが、無情に過ぎていく。街は、クリスマスイルミネーションで彩られ、否応なしに、浮かれた雰囲気を醸し出していた。
クリスマスイブの日。
僕は、一枚の写真を手に、再び、彼女の家の前に立っていた。
それは、コンテストで最優秀賞を受賞した写真ではない。
僕が、海沿いの公園で撮った、迷子の少女のような、彼女の写真。
僕が、初めて「本当の彼女」だと思った、あの写真だ。
深呼吸を一つして、僕は、インターホンを押した。
応対に出たのは、彼女の母親だった。僕が名乗ると、彼女は少し驚いたような顔をしたが、僕を家の中へと招き入れてくれた。
通されたリビングには、クリスマスツリーが飾られていたが、どこか、寂しい空気が漂っていた。
「あの子に、会ってやってくれないかしら」
彼女の母親は、疲れ果てた表情で、僕に言った。
「あの子、あの日以来、ずっと部屋に閉じこもって……。私たちにも、心を閉ざしてしまって。でも、あなたの名前だけは、時々、呟いているの。『夏目くんなら、わかってくれる』って……」
その言葉に、僕は、覚悟を決めた。
案内された、二階の彼女の部屋。ドアには、『Saki』というプレートの隣に、もう一つ、色褪せたプレートが掛かっていた。
『Rin』
僕は、ノックをする。
返事はない。
僕は、ゆっくりと、ドアを開けた。
部屋の中は、薄暗かった。カーテンが閉め切られ、光を拒絶している。
彼女は、ベッドの上で、膝を抱えて座っていた。その姿は、あまりにも小さく、儚く見えた。
「……日高さん」
僕の声に、彼女の肩が、びくりと震えた。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、憔悴しきっていた。
「……なんで、来たの」
「会いたかったから」
僕は、正直に言った。
「君に、聞きたいことがあったから。君自身の、口から」
僕は、彼女のベッドのそばまで行き、床に座った。そして、手に持っていた写真を、彼女に差し出した。
「あの日、倉庫で、一条が言ってたこと……本当なの?」
僕の問いに、彼女は、顔を歪めた。
そして、堰を切ったように、話し始めた。
「……違うの」
彼女の、か細い声が、静かな部屋に響いた。
「私は、姉さんの居場所を、教えたりしてない。あの日、姉さん、私にだけ、手紙をくれたの。『もう疲れた。少しだけ、一人になりたい。秘密の場所にいるから、誰にも言わないでね』って」
彼女が言う「秘密の場所」とは、姉妹だけが知っている、森の中の、古い廃屋のことだった。
「でも、いじめっこの子たちが、私を捕まえて……『凛はどこだ』って。私、怖くて……何も言えなかった。そしたら、あの子たち、私のカバンから、姉さんの手紙を……!」
彼女は、嗚咽を漏らしながら、続けた。
「私のせいなの。私が、手紙を、ちゃんと隠してなかったから。私が、あの子たちに逆らえなかったから……! 私が、姉さんを……!」
これが、真実だった。
彼女は、裏切ったのではない。守れなかったのだ。
あまりにも無力で、幼い少女が、たった一人で背負うには、重すぎる罪悪感。
「一条くんは……蓮くんは、そのことを、知らないの。彼は、私が自ら教えたんだって、思い込んでる。だって、あの日、姉さんが死んだ崖の上で……私、そう言っちゃったから」
「え……?」
「蓮くんが、私を責めたから。『お前が、凛の居場所を教えたんだろ!』って。私、パニックになっちゃって……怖くて……『ごめんなさい』って……謝っちゃったの。そしたら、彼は……」
彼女は、すべてを、自分のせいだと思い込むことで、一条くんを、そして、自分自身を守ろうとしていたのだ。なんという、悲しい嘘。
「……話してくれて、ありがとう」
僕は、彼女の冷たくなった手を、そっと握った。
「もう、一人で、背負わなくていい。俺も、一緒に背負うから」
僕の言葉に、彼女は、子供のように、声を上げて泣き始めた。
僕は、ただ、黙って、彼女の涙を受け止めた。
しばらくして、彼女が少し落ち着いた頃。
僕は、ずっと気になっていたことを、尋ねた。
「……一条くんと、凛さんは、どうして、喧嘩したの?」
その問いに、彼女は、はっとしたように顔を上げた。
そして、何かを、ひどく恐れるような目で、僕を見た。
「それは……」
彼女が、言いかけた、その時。
部屋のドアが、静かに開いた。
そこに立っていたのは、一条蓮だった。
息を切らし、何かから逃げてきたような、必死の形相で。
「……咲ちゃん」
彼は、日高さんの名前を呼んだ。そして、僕の存在に気づくと、一瞬、怯んだような顔をした。
「どうして、ここに……」
「お前の後を、つけてきたからだ」
部屋の外から、藤堂蓮の声がした。彼も、来ていたのだ。
「一条、全部、話せ。お前が、凛と、最後に何を話したのか。お前が、咲を、ここまで追い詰めた、本当の理由を」
藤堂に促され、一条くんは、観念したように、ゆっくりと、話し始めた。
「……俺は、凛が好きだった」
衝撃的な、告白だった。
「でも、凛は……俺のことなんて、見てなかった。あいつが、本当に好きだったのは……」
一条くんは、そこで言葉を切り、僕の方を、信じられないというような目で、見た。
「……夏目くん、君だ」
「え…………?」
僕の頭は、真っ白になった。
凛さんが、僕を?
接点なんて、何もなかったはずだ。
「凛は、ずっと、君を見てた。体育館の隅から、君が、写真を撮ってる姿を。君が、誰にも見向きもされないような、風景や、猫や、そういうものを、すごく優しい顔で撮ってるのを、ずっと、見てた」
「そして、あの日……凛は、君に、告白するって、決めてたんだ」
「……そんな」
「でも、俺は、それを、止めようとした。俺は、君が、妬ましかった。俺じゃなくて、君が、凛の特別なんだってことが、許せなかった。だから、俺は、凛に、酷いことを言ったんだ。『お前みたいな地味な女が、夏目に告白したって、相手にされるわけない』って……」
一条くんは、顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「それが、俺と凛の、最後の会話だ。俺のせいで、凛は……告白する勇気をなくして、一人で、あの崖に……!」
すべてのピースが、繋がった。
一条くんは、僕への嫉妬と、凛さんを救えなかった罪悪感から、日高さんを憎み、僕を憎み、そして、自分自身を憎んでいたのだ。
部屋は、重い沈黙に包まれた。
三人の、それぞれの後悔と、悲しみが、交錯する。
その沈黙を破ったのは、日高さんだった。
彼女は、静かに立ち上がると、一条くんの前に立った。
「……蓮くん」
彼女は、泣き濡れた瞳で、彼を見上げた。
「……姉さんはね、きっと、蓮くんのことも、大好きだったと思うよ」
「姉さん、よく言ってた。『蓮くんは、私の、一番のヒーローだ』って。学校で辛い時、いつも、蓮くんがくれた言葉を、お守りにしてたんだって」
一条くんは、顔を上げた。その目は、驚きに、見開かれている。
「だから、自分を責めないで。姉さんは、そんなこと、望んでない」
日高さんの、優しく、そして強い言葉が、凍りついた彼の心を、ゆっくりと溶かしていくようだった。
そして、彼女は、僕の方に向き直った。
その瞳は、もう、迷ってはいなかった。
「夏目くん」
「……うん」
「私、夏目くんが好きです」
それは、あまりにも、まっすぐな、告白だった。
文化祭の前夜に聞いた、あの幻聴なんかじゃない。
彼女自身の、本当の、心の声。
「姉さんが、好きだった人だから、とかじゃない。私が、夏目蒼くんを、好きなんです。私のことを、見つけてくれて、救ってくれた、あなたが好きです」
僕は、何も言えなかった。
ただ、彼女の言葉を、全身で、受け止めることしかできなかった。
外は、ホワイトクリスマスになっていた。
静かに降り積もる雪が、僕たちの過去の傷を、すべて、覆い隠してくれるようだった。
僕と彼女の、長く、すれ違い続けた物語は、この聖なる夜に、ようやく、一つの答えにたどり着いた。
でも、それは、終わりではない。
ここから始まる、新たな物語の、プロローグに過ぎなかった。