第8話:冬のトライアングル
僕の写真が、市のフォトコンテストで最優秀賞を受賞した。
そのニュースは、小さな波紋のように学校中に広がり、僕、夏目蒼は、にわかに「時の人」となっていた。そして、その写真の被写体である日高咲もまた、以前にも増して注目を集める存在となった。
「『一瞬の永遠』、見たよ! マジで最高だった!」
「夏目って、すげー奴だったんだな!」
今まで話したこともなかったクラスメイトたちから、声をかけられるようになった。僕は相変わらずうまく対応できず、曖昧に会釈を返すのが精一杯だったが、悪い気はしなかった。僕の撮った写真が、僕という人間を、少しだけ世界に繋ぎ止めてくれたような気がした。
日高さんとの関係も、あの受賞をきっかけに、また一歩、前進した。僕たちは、誰が見てもわかるくらい、互いを意識していた。言葉には出さないけれど、その視線や、ふとした瞬間の仕草に、互いへの想いが溢れていた。その甘酸っぱい空気を、クラスメイトたちも、そして藤堂蓮も、静かに見守ってくれていた。
季節は、秋から冬へと移り変わろうとしていた。
吐く息が白くなり、マフラーや手袋が欠かせない季節。そんなある日のこと、僕たちのクラスに、衝撃が走った。
「転校生を紹介する。一条蓮くんだ」
担任の紹介で教室に入ってきたのは、紛れもなく、あの城南高校の制服を着ていた少年だった。
フォトコンテストのタイトルを名付けてくれた、日高凛の友達――一条蓮。
彼が、なぜ、このタイミングで、僕たちの学校に?
教室が、ざわめきに包まれる。特に女子生徒たちの目は、ハートマークになっていた。彼の、中性的で整った顔立ちと、物腰の柔らかい雰囲気は、藤堂蓮とはまた違った種類の魅力を放っていた。
「一条蓮です。親の仕事の都合で、急に引っ越してきました。写真は、僕の趣味です。よろしくお願いします」
にこやかに挨拶する一条くんの視線が、僕を捉え、そして、僕の隣の席――日高さんの席で、ぴたりと止まった。
日高さんは、信じられないというように目を見開き、固まっている。
「……咲ちゃん、久しぶり。元気そうで、よかった」
一条くんは、優しく微笑みかけた。その呼び方に、クラス中が「え、知り合い!?」と色めき立つ。藤堂蓮だけが、苦虫を噛み潰したような顔で、その光景を睨みつけていた。
こうして、僕たちの穏やかだった日常に、一条蓮という名の、強力なスパイスが投じられた。
彼は、驚くほど早くクラスに溶け込んだ。持ち前のコミュニケーション能力の高さと、誰に対しても分け隔てなく接する態度で、すぐにクラスの人気者になった。
そして、彼は、当然のように、日高さんに接近していった。
「咲ちゃん、今日の昼、一緒に食べない? 昔の話、たくさんしたいんだ」
「咲ちゃん、この問題、わかんないんだけど、教えてくれないかな?」
彼は、昔のよしみという最強の武器を使い、巧みに彼女の隣のポジションを確保していく。日高さんも、幼馴染との再会を、素直に喜んでいるように見えた。二人が、楽しそうに昔話に花を咲かせている姿を見るたびに、僕の心は、チクチクと痛んだ。
僕には、彼らの会話に入っていく資格がない。僕の知らない、凛さんがまだ生きていた頃の、三人の思い出。それは、僕が決して踏み込むことのでない、聖域だった。
「……気に食わねえな、あいつ」
放課後の部室で、僕が撮った一条くんと日高さんのツーショット写真を眺めていると、背後から藤堂の声がした。いつの間にか、彼が僕の後ろに立っていた。
「昔からそうだ。あいつは、いつもそうだ。欲しいものは、全部、手に入れないと気が済まない。人も、物も……」
その言葉には、僕と同じ、嫉妬の色が滲んでいた。しかし、それだけではない。もっと根深い、警戒心のようなものが感じられた。
「……一条って、凛さんとは、どういう関係だったんだ?」
「……ただの、友達だよ。咲が、紹介したんだ。凛は、学校に友達がいなかったからな。咲が、自分の幼馴染だった一条を、引き合わせた。そしたら、凛の奴、すぐに一条に懐いちまって……」
藤堂は、忌々しげに続けた。
「凛が、一番、心を開いてた相手だ。俺にも、咲にすら見せないような顔を、あいつにだけは、見せてた。……凛が死ぬ、あの日まではな」
あの日。
その言葉に、僕は反応した。
「あの日、一条も、何か知ってるのか?」
「さあな。あいつは、あの日以来、凛のことについては、一切、口を開かねえ。ただ……」
藤堂は、そこで言葉を切った。そして、僕の目をまっすぐに見て、言った。
「夏目、お前も、気をつけろ。一条は、お前が思ってるような、いい奴じゃねえかもしれねえぞ」
藤堂の警告が、僕の心に、小さな棘のように引っかかった。
一条くんは、確かに、誰にでも優しくて、非の打ち所がない好青年に見える。凛さんのことを、心から悼んでいるようにも見えた。
でも、藤堂の言う通り、彼の完璧すぎる笑顔の裏には、何か別の顔が隠されているのだろうか。
そんな疑念を抱えながらも、日々は過ぎていく。
冬休みを間近に控えた、ある日の放課後。実行委員会の片付けで、僕と日高さんは、二人きりで倉庫の整理をしていた。
「……一条くんと、仲、いいんだね」
僕は、自分でも驚くほど、意地の悪い質問をしていた。
僕の言葉に、日高さんは、少し困ったように微笑んだ。
「うん……昔から、お兄ちゃんみたいな人だったから。蓮くんがいると、なんだか、姉さんがまだ、そばにいてくれるような気がして……」
その答えは、僕が聞きたかったものではなかったけれど、彼女の純粋な気持ちを、僕は否定できなかった。
「……夏目くんは、やきもち、妬いてるの?」
彼女が、いたずらっぽく笑いながら、僕の顔を覗き込んできた。
その無邪気な問いに、僕は顔を真っ赤にして、俯くしかなかった。
「……妬いてるよ」
かろうじて、そう答えるのが精一杯だった。
僕の答えに、彼女は、嬉しそうに、そして愛おしそうに、微笑んだ。
その時だった。
倉庫のドアが、勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、一条蓮だった。彼の顔からは、いつもの柔和な笑みは消え、冷たい、能面のような表情をしていた。
「咲ちゃん、こんなとこにいたんだ。探したよ」
「蓮くん? どうしたの……」
「ちょっと、二人だけで、話がしたいんだ。夏目くん、悪いけど、席を外してくれるかな?」
彼の口調は丁寧だったが、その目には、有無を言わせぬ強い意志が宿っていた。
僕は、不安そうな顔をする日高さんを残し、黙って倉庫を出るしかなかった。
閉められたドアの向こうから、二人の話し声が、かすかに聞こえてくる。
僕は、聞くつもりはなかった。でも、聞こえてしまったのだ。
「――いつまで、こんな茶番を続けるつもりだ?」
一条くんの、冷え切った声だった。
「咲ちゃん、君は、いつまで、『悲劇のヒロイン』を演じているんだ? 凛の代わりに、みんなに同情されて、守られて……楽しいか?」
「ち、違う……! 私は、そんなつもりじゃ……!」
「違わないだろ! 君は、凛から、すべてを奪ったじゃないか!」
奪った?
一体、何のことだ?
「君が、あんな告げ口をしなければ……! 君が、凛の居場所を、あいつらに教えさえしなければ、凛は、死なずに済んだんだ!」
告げ口?
居場所?
「覚えてないなんて、言わせないぞ。あの日、凛は、君にだけ、秘密の隠れ家の場所を教えたはずだ。それなのに、君は……!」
ドアの向こうの会話は、僕にとって、衝撃的な内容だった。
日高さんが、凛さんの居場所を、いじめていた相手に教えた?
そんな……まさか……。
「やめて……もう、やめて……!」
日高さんの、悲痛な叫び声が聞こえた。
僕は、いてもたってもいられず、倉庫のドアを、勢いよく開けた。
中では、一条くんが、泣き崩れる日高さんの腕を、強く掴んでいた。
その目は、僕が今まで見たこともないような、憎しみの色に染まっていた。
「……離せよ」
僕が、低い声で言うと、一条くんは、ハッとしたように僕を見た。
そして、ゆっくりと、日高さんの腕を離した。
「……聞かれてたか。まあ、いいや」
彼は、開き直ったように、フッと息を吐いた。
「これが、真実だよ、夏目くん。君が、女神様みたいに崇めてる、この子の、本当の姿だ」
彼は、僕の写真が載ったコンテストのパンフレットを、ポケットから取り出すと、僕の足元に投げ捨てた。
「『一瞬の永遠』? 笑わせるな。こいつの笑顔なんて、全部、嘘っぱちだ。こいつは、姉を裏切って、見殺しにした、最低の人間なんだよ」
一条くんは、それだけ言うと、僕たちの間を通り抜け、無言で去っていった。
残されたのは、床に蹲って泣きじゃくる日高さんと、呆然と立ち尽くす僕だけだった。
僕は、彼女に、何と声をかければいいのか、わからなかった。
一条くんの言葉が、本当だとしたら?
彼女は、僕が思っていたような、純粋な被害者ではなかった……?
僕は、ゆっくりと、彼女の隣にしゃがみこんだ。
そして、震える彼女の肩に、そっと、手を置いた。
彼女は、顔を上げた。その顔は、涙と、絶望と、そして、深い罪悪感で、ぐしゃぐしゃになっていた。
「……違うの」
彼女は、か細い声で、言った。
「私……裏切ってなんかない……信じて……」
その瞳は、僕に、必死に助けを求めていた。
僕は、信じたい。彼女の言葉を。
でも、一条くんの言葉が、まるで呪いのように、僕の頭から離れない。
僕のファインダーは、またしても、ノイズだらけになってしまった。
何が、本当で、何が、嘘なのか。
冬の冷たい空気が、僕たちの間に横たわる、深く、暗い亀裂を、さらに広げていくようだった。
トライアングルの頂点に立つ三人の想いは、複雑に絡み合い、もう、誰にも、解きほぐすことはできないのかもしれない。