第7話:一瞬の永遠
文化祭の喧騒が嘘のように過ぎ去り、学校は再び日常の軌道に戻った。しかし、僕、夏目蒼と、日高咲を取り巻く空気は、確実に変化していた。僕たちの『星空のカフェ』は大成功を収め、その中心で輝いていた彼女の笑顔と共に、僕が撮った写真もまた、クラスメイトたちの間で静かな話題となっていた。
「夏目くんの写真、すごいね! なんか、雑誌のグラビアみたい!」
「日高さんの、今までで一番いい笑顔じゃない?」
廊下ですれ違う女子生徒たちから、そんな言葉をかけられるようになった。僕は相変わらず「どうも」としか返せず、すぐにその場を立ち去ってしまうのだが、心の中ではむず痒いような、誇らしいような、複雑な感情が渦巻いていた。
僕と日高さんの関係は、文化祭前夜に交わした、あの言葉を境に、新たな段階へと進んでいた。それは「友達」と呼ぶにはあまりにもぎこちなく、「恋人」と呼ぶにはあまりにも未熟な、名前のない関係。僕たちは、互いの心に触れることを恐れながらも、惹かれ合っていることを、もう否定できずにいた。
そんなある日、写真部の部室で、三上先輩が興奮した様子で僕に駆け寄ってきた。
「おい、蒼! これ見ろ!」
先輩が僕の目の前に突き出したのは、一枚のプリントアウトされた紙。それは、市の教育委員会が主催する『高校生フォトコンテスト』の募集要項だった。
「お前、これに出せ。文化祭の、あの日高さんの写真で」
「え……でも、あんなの、ただのスナップ写真ですよ」
「バカ野郎! あれのどこがただのスナップだ。あれは、お前にしか撮れねえ『作品』だろ。被写体との関係性、ストーリー、光の捉え方……全部ひっくるめて、完璧だ」
先輩は、僕が撮ったあの一枚――カフェの喧騒の中、僕だけに向けられた、はにかんだ笑顔の写真を、ベタ褒めした。
「いいか、これは命令だ。部長命令。締め切りは来週だからな。さっさと準備しろよ」
そう言って、先輩は僕の肩をバンと叩いて部室を出ていった。
コンテスト、か。
考えたこともなかった。僕の写真は、誰かに評価されるために撮っているわけじゃない。ただ、僕が「本当だ」と感じた瞬間を、切り取っているだけだ。
でも、三上先輩にあそこまで言われると、少しだけ心が揺らぐ。
そして何より、あの笑顔を、僕だけのものにしておくのは、どこか勿体無いような気もしていた。
問題は、被写体である日高さんの許可を得られるかどうかだ。コンテストに出すとなれば、彼女のフルネームも公表されることになる。姉の凛さんのことがあった後で、彼女がそれを望むだろうか。
放課後、僕は意を決して、日高さんを屋上へ呼び出した。ほとんど使われることのない、僕たちだけの秘密の場所。
「話って、なあに?」
フェンスの向こうに広がる街並みを眺めながら、彼女が尋ねた。夕暮れの風が、彼女の髪を優しく揺らしている。
僕は、フォトコンテストのことを切り出した。僕が撮った、あの笑顔の写真を、コンテストに応募したいこと。そして、そのためには、彼女の許可が必要なこと。
僕の話を、彼女は黙って聞いていた。
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……嬉しい」
「え?」
「夏目くんが、私の写真を『作品』だって思ってくれたことが、すごく嬉しい」
彼女は、僕の方に向き直った。その瞳は、夕日を反射して、キラキラと輝いている。
「でも、少しだけ、怖いな」
「……怖い?」
「うん。私の名前が、写真と一緒に、たくさんの人に見られるのが。また、昔みたいに……何か言われるんじゃないかって」
彼女の言う「昔みたいに」という言葉が、僕の胸を締め付けた。姉の凛さんが亡くなった時、双子の妹である彼女は、心ない好奇の目に晒されたに違いない。
「……無理なら、いいんだ。俺、勝手なこと言って、ごめん」
僕がそう言うと、彼女は静かに首を横に振った。
「ううん。……考えさせて。少しだけ、時間が欲しい」
「わかった」
僕たちは、それ以上何も話さず、ただ、沈みゆく夕日を二人で眺めていた。彼女が、何を恐れ、何に迷っているのか、僕には痛いほどわかった。これは、彼女が過去と向き合うための、新たな試練なのかもしれない。
数日後。僕は、写真部の部室で、応募用のプリント作業をしていた。まだ彼女からの返事はない。でも、僕は、彼女が「いいよ」と言ってくれることを、なぜか信じていた。だから、最高の状態でプリントを仕上げておきたかった。
暗室の赤い光の中で、僕は一枚の印画紙を現像液に浸す。
ゆっくりと、彼女の笑顔が浮かび上がってくる。
僕だけに向けられた、あの特別な笑顔。
「――夏見つけ……」
不意に、部室のドアが開き、聞き慣れない声がした。
そこに立っていたのは、僕の知らない、一人の男子生徒だった。線の細い、中性的な顔立ち。どこかの進学校の生徒だろうか、見慣れない制服を着ている。
「……誰ですか?」
「あ、ごめん。俺、城南高校の、一条蓮って言うんだけど」
一条蓮。
その名前に、僕は聞き覚えがなかった。
「写真部の夏目蒼くん、だよね? ちょっと、君に話があって来たんだ」
彼は、人懐っこい笑みを浮かべながら、部室に入ってきた。そして、僕が現像している写真に目を留めると、その表情を一変させた。
「……この子……」
彼の視線は、写真の中の日高咲に釘付けになっている。
「日高……さん……?」
彼は、写真の少女の名前を、呟いた。しかし、その呼び方は、どこか不自然だった。まるで、目の前の存在が信じられないとでも言うように。
「この写真の子、知ってるんですか?」
「あ、ああ……うん。昔、少しだけね」
一条と名乗る少年は、動揺を隠せない様子で答えた。
「君が、これを撮ったのか。すごいな……。こんな顔、するようになったんだ、彼女」
その言葉には、羨望と、ほんの少しの嫉妬のような響きが混じっていた。
彼は一体、何者なんだ?
「それで、話というのは?」
「ああ、そうそう。実は俺、君の噂を聞いて来たんだ。文化祭の写真が、すごく良かったって。俺も、写真やってるから、ぜひ一度、見せてもらえないかと思って」
彼はそう言うと、自分のカメラバッグから、立派な一眼レフを取り出して見せた。彼の言葉に嘘はないようだった。
僕は、文化祭で撮った他の写真も、彼に見せることにした。彼は、一枚一枚、食い入るように写真を見つめ、時折、感心したように唸っている。
「やっぱり、すごいな、君の写真は。被写体への愛が感じられる」
「……愛、ですか」
「そうだよ。特に、この子の写真はね。君は、彼女のことが、好きなんだろ?」
ストレートな物言いに、僕はたじろいだ。赤くなった顔を、彼に見られたくなかった。
「……彼女、元気にしてるか?」
一条くんは、ポツリと尋ねた。その問いは、どこか奇妙だった。まるで、何年も会っていない相手の安否を気遣うような。
「……ええ、元気ですよ。クラスでも、いつも中心にいて……」
「そっか……よかった」
彼は、心から安堵したように、息を吐いた。
そして、彼は、僕の心を見透かすような目で、言った。
「――凛のことは、もう、乗り越えられたのかな」
その名前に、僕は凍りついた。
凛。
彼は、姉の凛を知っている。それも、ごく当たり前のように、その名前を口にした。
「あなた、一体……?」
「俺は、凛の、友達だよ」
一条蓮は、静かに言った。
「あいつが……死ぬ、少し前まで、一番、仲が良かった、友達だ」
衝撃の事実だった。藤堂蓮と同じように、彼もまた、日高姉妹の過去を知る人物だったのだ。
「どうして、それを……」
「凛が亡くなってから、俺、親の都合で引っ越したんだ。咲ちゃんとも、それっきりになっててね。ずっと、気になってたんだ。あの子が、ちゃんと笑えてるかなって」
彼の瞳には、深い悲しみと、そして、咲を想う、温かい色が浮かんでいた。
「君の写真を見て、安心したよ。彼女、いい友達に巡り会えたんだな。君みたいな、カメラマンに」
彼は、僕がコンテストに応募しようとしている写真――あのはにかんだ笑顔の写真を、もう一度、じっと見つめた。
「この写真……いいね。すごく、いい。今の彼女の、すべてが写ってる」
そして、彼は、僕に衝撃的な提案をした。
「この写真、タイトルはもう決めてるのか?」
「……いえ、まだです」
「だったら、『一瞬の永遠』なんて、どうかな」
一瞬の永遠。
「俺ね、凛とよく話してたんだ。『写真って、なんだろうね』って。その時、あいつが言ったんだ。『写真っていうのは、一瞬を、永遠にする魔法なんじゃないかな』って」
凛さんが、言った言葉。
その言葉は、僕が写真を撮る理由そのもののように思えた。
「この笑顔は、一瞬のものかもしれない。でも、君がそれを写真に撮ったことで、それは永遠になった。君と彼女の、そして、それを見守っていた、凛の想いも、この一枚に閉じ込められてる。……そんな気がするんだ」
一条くんの言葉に、僕は、胸が熱くなるのを感じた。
そうだ。この写真のタイトルは、これしかない。
その日の帰り道。僕は、日高さんにメッセージを送った。
『話がある。明日、屋上で待ってる』と。
翌日の放課後。屋上で僕を待っていた彼女は、どこか吹っ切れたような、晴れやかな顔をしていた。
「夏目くん、私、決めたよ」
僕が何か言う前に、彼女が口火を切った。
「コンテスト、出してほしい。私の写真」
「……いいのか?」
「うん。怖くないって言ったら、嘘になる。でも、逃げてばかりじゃ、ダメだなって思ったから。夏目くんが撮ってくれた、あの写真の中の私は、ちゃんと前を向いて笑えてる気がするから」
彼女は、僕の目をまっすぐに見て、言った。
「それに、姉も、きっと喜んでくれると思うから」
凛さんの名前を、彼女は、初めて僕の前で、自らの口にした。
それは、彼女が、大きな一歩を踏み出した証だった。
僕は、彼女に、一条蓮という少年と会ったことを話した。
凛さんの友達だったということ。
そして、彼が提案してくれた、タイトルのことを。
「『一瞬の永遠』……」
彼女は、そのタイトルを、噛みしめるように繰り返した。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「……そっか。蓮くん……覚えててくれたんだ、姉さんのこと」
彼女は、一条くんのことを、「蓮くん」と呼んだ。その響きには、幼馴染に対するような、親しみがこもっていた。
「姉さんね、写真が好きだったんだ。撮るのも、撮られるのも。だから、私、ずっとカメラが怖かった。カメラは、姉さんを思い出させるから。でも、夏目くんのカメラは、不思議と、怖くなかった」
彼女は、僕の首から下がっているカメラに、そっと指で触れた。
「夏目くんが撮ってくれる私は、姉さんじゃない、本当の私だって、思えたから」
「日高さん……」
「だから、お願い。その写真で、私を、永遠にして」
僕は、何も言えずに、ただ、強く頷いた。
数週間後。
市のフォトコンテストの結果が、発表された。
僕と日高さんは、二人で、市庁舎の掲示板の前に立っていた。
たくさんの写真が並ぶ中、ひときわ大きく展示されている一枚があった。
『最優秀賞 「一瞬の永遠」 桜ヶ丘高校二年 夏目 蒼』
僕が撮った、日高咲の写真だった。
写真の中の彼女は、はにかみながら、幸せそうに笑っていた。
その写真を見て、現実の彼女は、涙を流しながら、僕が今まで見た中で、一番美しい笑顔を見せた。
「ありがとう、夏目くん」
その瞬間、僕たちの周りの喧騒は、すべて消え去っていた。
僕のファインダーは、ようやく、彼女の本当の笑顔に、ピントを合わせたのだ。
僕と彼女の物語は、この一枚の写真によって、大きく、そして鮮やかに、動き始めたのだった。