第6話:聞こえない「好き」
「夏目くんは、わかってくれたから」
夕暮れの教室で、彼女が零したその言葉は、僕が持っていたカメラの重さとは比べ物にならないほど、ずしりとした重みを持って僕の心に沈んだ。日高咲――いや、彼女は、僕が今まで追いかけてきた被写体は、僕に「見つけてくれた」と言った。それは、僕にとって免罪符であると同時に、新たな責任を背負わされた瞬間でもあった。
翌日、日高さんが学校を辞めるという噂は、嘘のように消えていた。彼女は、教室にいた。いつもと同じ席で、いつもと同じように友達と笑い合っている。しかし、その笑顔は、僕の目には以前とは全く違って見えた。完璧な仮面であることに変わりはない。だが、その仮面の下から、時折、僕だけに向けられる、戸惑いや、期待や、あるいは信頼のようなものが、微かに滲み出ているのを感じるようになったのだ。
僕と彼女の関係も、また少し変化した。あからさまに避けられることはなくなったが、かといって、親密に話すわけでもない。ただ、教室でふと目が合う回数が、格段に増えた。目が合うと、彼女は少しだけはにかんだように微笑み、すぐに視線を逸らす。その一連の動作が、僕の心臓を不規則に揺さぶった。
放課後の実行委員会。文化祭本番まで二週間を切り、準備は佳境に入っていた。僕がデザインした『星空のカフェ』の設営は、順調に進んでいる。
「夏目くん、ここの星の配置、どう思う?」
日高さんが、僕の隣に来て、ごく自然に話しかけてきた。その距離の近さに、僕はドギマギしてしまう。彼女の甘いシャンプーの香りが、鼻腔をくすぐった。
「あ……いいんじゃないかな。バランス、取れてると思う」
「そっか、よかった! あ、でも、こっちの大きい星は、もう少し高い位置の方が、奥行きが出るかな……?」
彼女は脚立に乗り、天井近くの星のオブジェに手を伸ばした。その時、彼女が足を滑らせ、ぐらりと体勢を崩した。
「危ない!」
僕は咄嗟に、彼女の腰を支えていた。柔らかな感触と、驚くほどの細さに、心臓が跳ね上がる。僕の腕の中で、彼女は顔を真っ赤にして固まっていた。
「……ご、ごめん! ありがとう……」
「い、いや……」
僕たちが慌てて離れた、その瞬間。教室の入り口で、藤堂蓮が仁王立ちになって僕たちを睨みつけていた。その目は、嫉妬と怒りの炎で燃え上がっている。
「……お前ら、何してんだ」
「ち、違うの、蓮! これは、その……」
藤堂は、日高さんの弁明を聞かずに、僕に向かって歩み寄ってきた。その拳が、固く握られている。まずい、殴られる。そう覚悟して、僕はぎゅっと目を瞑った。
「――そこまでよ」
凛とした声が、教室に響いた。間に入ったのは、宮下澪さんだった。彼女は冷静な目で藤堂を見据え、言った。
「あんたが、咲を縛り付けてどうするの。咲が誰と話そうと、誰と仲良くしようと、それは咲の自由でしょ」
「澪、お前は黙ってろ! こいつは、凛を……!」
「凛は、もういない」
澪さんの言葉は、短く、そして鋭かった。
「あんたが守ろうとしてるのは、咲なの? それとも、咲の向こうに見える、凛の幻なの?」
その言葉は、藤堂だけでなく、僕の胸にも深く突き刺さった。僕もまた、彼女の向こうに、死んだ少女の幻影を見ていたのではないか。
藤堂は、何も言い返せずに立ち尽くしていた。彼の瞳から、力が抜けていく。彼は、誰よりも日高さんを大切に思うが故に、彼女を過去に縛り付けてしまっていたのかもしれない。そして、彼自身もまた、凛が死んだあの日の後悔から、一歩も動けずにいたのだ。
重苦しい沈黙が流れる中、日高さんが、震える声で言った。
「……蓮、ごめん。でも、澪の言う通りだよ。私は……もう、大丈夫だから」
それは、藤堂に向けられた言葉でありながら、僕に向けられたメッセージのようにも聞こえた。そして何より、彼女自身に言い聞かせているようでもあった。
その日以来、藤堂が僕に敵意を向けることはなくなった。だが、彼の瞳には、諦めと、深い悲しみの色が宿るようになった。彼は、僕と日高さんの間に流れ始めた、見えない空気の変化を、敏感に感じ取っていたのだろう。
文化祭の準備は、着々と進んでいく。僕と日高さんが話す機会は、自然と増えていった。彼女は、僕にだけ、時折、弱音を吐くようになった。
「……なんだか、疲れちゃったな」
作業の合間に、二人で教室の隅に座り込んでいた時だった。彼女が、ぽつりと呟いた。
「『明るい日高咲』でいるのって、結構、体力使うんだよね」
そう言って、彼女は自嘲気味に笑った。その笑顔は、僕が撮ったあの写真の表情と、少しだけ似ていた。
「……無理しなくて、いいのに」
「ううん。これが、私だから。蓮との、約束だから」
彼女は、藤堂との約束を、今も健気に守ろうとしている。その純粋さが、健気さが、僕の胸を締め付けた。
「でもね」と、彼女は続けた。
「夏目くんといる時だけは、少しだけ、サボってもいいかなって、思えるようになった」
彼女は、僕の目をまっすぐに見つめて、そう言った。
その瞳は、僕を信頼してくれている、と告げていた。その信頼が、嬉しくて、そして少しだけ、怖かった。
僕は、彼女に聞きたいことが、たくさんあった。
姉の凛さんのこと。
いじめのこと。
あの日、崖の上で、一体何があったのか。
でも、聞けなかった。僕には、彼女の深い傷に、再び触れる勇気がなかった。
僕にできるのは、ただ、彼女の隣にいることだけ。
そして、シャッターを切ることだけだった。
僕は、文化祭の準備風景を、記録係として撮影し続けた。
ペンキで汚れたジャージ姿で笑う彼女。
真剣な顔でデザインナイフを操る彼女。
友達とふざけあう、無邪気な彼女。
そのどれもが、僕のファインダーの中では、特別な輝きを放っていた。
僕は、一枚の写真に、心を奪われた。
それは、日高さんが、僕のデザイン画を見ながら、一人で微笑んでいる写真だった。誰に見せるためでもない、本当に嬉しそうな、心からの笑み。
その笑顔は、僕がずっと撮りたいと願っていた、「本当の笑顔」そのものだった。
どうして、彼女はこんな顔をしていたんだろう。
僕のデザインが、彼女をこんな風に笑わせたのだろうか。
自惚れだとわかっていながらも、そう思わずにはいられなかった。
文化祭の前日。
すべての準備が終わり、がらんとした教室で、僕たちは最終チェックをしていた。壁一面に広がる星空、天井から吊るされた大小様々な星のオブジェ、テーブルに置かれた手作りのランタン。僕たちの『星空のカフェ』は、想像以上の出来栄えだった。
「……すごいね。本当に、星空の中にいるみたい」
日高さんが、うっとりとした声で呟いた。
ランタンの淡い光が、彼女の横顔を優しく照らしている。
「夏目くんのおかげだよ。本当に、ありがとう」
「……俺だけの力じゃない。日高さんや、みんなが頑張ったからだ」
「ううん。夏目くんが、きっかけをくれたの」
彼女は、僕の方に向き直った。その瞳は、真剣だった。
「夏目くんが、私のことを『見つけて』くれなかったら、私は、今もずっと、暗闇の中にいたと思う。笑ってるふりをして、本当は、泣き方もわからなくなってた」
「日高さん……」
「だから、ありがとう。私の写真を、撮ってくれて」
彼女は、深々と頭を下げた。
僕は、そんな彼女に、何と声をかけていいかわからなかった。
「……俺は、ただ、撮りたかっただけだ。君のことが、知りたかっただけだから」
それが、僕の精一杯の言葉だった。
その時、僕はずっと胸にしまっていた疑問を、口にしていた。
「……どうして、俺だったの?」
「え?」
「どうして、俺に、写真を撮ってほしいって言ったの? 俺は、君の秘密を暴こうとした、最低な奴なのに」
彼女は、少しだけ驚いたように目を見開いた後、ふっと、柔らかく微笑んだ。
「……覚えてる? 初めて、実行委員会で会った日のこと」
「うん」
「あの時、夏目くん、私の生徒手帳、拾ってくれたでしょ?」
もちろん、覚えている。藤堂とのツーショットプリクラが貼ってあった、あの生徒手帳だ。
「あの時ね、夏目くん、プリクラ、見なかったでしょ?」
「え……?」
僕は、固まった。
見なかった? いや、見た。はっきりと見た。だからこそ、僕は二人が付き合っていると確信し、絶望したんじゃないか。
「夏目くん、手帳を拾って、すぐに閉じて、私に返してくれた。中を見ようともしないで。……なんだか、すごく誠実な人だなって、思ったの」
違う。
僕は、ただ、見て見ぬふりをしただけだ。
傷つきたくなくて、真実から目を逸らしただけだ。
彼女は、僕の臆病さを、「誠実さ」だと勘違いしている。
「それにね」と、彼女は続けた。
「夏目くん、あの時、気づいてたでしょ?」
「……何を?」
「私が、本当は、『ぽかぽかアザラシ』が好きなこと」
僕は、息を呑んだ。
雑貨屋の前での一件。彼女は、僕が気づいていることに、気づいていたのか。
「みんな、今の私しか見てくれない。蓮も、澪も、私の過去を知ってるけど、でも、昔の私じゃなくて、今の私を見てる。でも、夏目くんだけは……今の私の向こうにいる、昔の私のことも、見てくれてる気がしたの」
「この人なら、本当の私を写してくれるかもしれない。ううん、この人にしか、写せないのかもしれないって……そう、思ったんだ」
彼女の告白は、僕にとって、あまりにも衝撃的だった。
僕が抱いていた劣等感や、勘違い、そのすべてが、彼女の中では全く違う意味を持っていた。
僕が聞こえるはずもないと思っていた心の声が、実は、ずっと前から彼女には届いていたのかもしれない。
僕たちの間に、甘くて、少しだけ切ない沈黙が流れる。
ランタンの光に照らされた彼女の唇が、わずかに動いた。
「好き」
そう聞こえた気がした。
あまりにも小さな声で、それは僕の願望が生み出した幻聴だったのかもしれない。
でも、確かに、そう聞こえたのだ。
僕は、彼女の顔を、まともに見ることができなかった。
心臓が、破裂しそうなくらい、うるさく鳴っていた。
僕のファインダーは、まだ、彼女の本当の気持ちに、ピントを合わせることができずにいた。
文化祭当日。
僕たちの『星空のカフェ』は、大盛況だった。
クラスの中心には、いつものように、太陽のような日高咲がいる。彼女の笑顔に惹きつけられて、たくさんの人が集まってくる。
僕は、少し離れた場所から、記録係として、その光景をカメラに収めていた。
その時、ふと、藤堂蓮が僕の隣に立った。
「……夏目」
「藤堂……」
「……ありがとうな」
彼は、僕の方を見ずに、ぽつりと言った。
「お前のおかげで、咲、少しだけ、昔の顔に戻った気がする」
その言葉は、僕にとって、最高の褒め言葉だった。
僕は、もう一度ファインダーを覗き、カフェの中心にいる日高さんにピントを合わせた。
彼女は、僕の視線に気づくと、人混みの中で、僕にだけわかるように、小さく、そして、はにかむように、微笑んだ。
その笑顔は、僕があのデザイン画の中で見た、あの笑顔と、全く同じだった。
カシャッ。
僕は、迷わずに、シャッターを切った。
僕の長い長い、ピント合わせの日々は、まだ終わらない。
でも、今は、それでいいと思えた。
この、もどかしくて、甘酸っぱい距離感を、もう少しだけ、楽しんでいたい。
ファインダー越しの君に、ピントが合う、その日まで。