第5話:やっぱりシャッターチャンスは残酷だ
海沿いの公園での一件以来、僕と日高咲の関係は、再び振り出しに戻った。いや、振り出し以下かもしれない。教室で目が合えば、彼女はまるで罪人のように視線を逸らし、僕の半径五メートル以内には決して近づこうとしなかった。彼女が築いた透明な壁は、以前よりもずっと分厚く、冷たくなっていた。
「おい、蒼。お前、日高さんに何したんだよ」
昼休み、写真部の暗室で、三上先輩が呆れたように僕に問いかけた。文化祭実行委員会のメンバーが、部室の僕を訪ねてきたのだ。ただし、そこに日高さんの姿はなかった。
「最近、日高さんの様子がどうもおかしいって、もっぱらの噂だぜ。お前と二人で撮影に行った日から、だろ?」
「……何も、してません」
僕の答えに、一緒に来ていた宮下澪さんが、鋭い視線を向けてきた。
「嘘。あんた、咲に何か言ったでしょ。中学の時のこととか」
図星を突かれ、僕は言葉に詰まる。澪さんは、なぜそこまで確信を持っているんだ? まるで、僕の行動も、それに対する日高さんの反応も、すべてお見通しだと言わんばかりに。
隣にいた藤堂蓮は、腕を組み、不機嫌そうな顔で僕を睨みつけていた。
「夏目、だっけ。お前、あんまり日高にちょっかい出すなよ。あいつ、見かけによらず繊細なんだから」
その言葉は、まるで恋人を守る騎士のようだった。同時に、僕を「日高を傷つける敵」として明確に断定していた。僕は何も言い返せず、ただ唇を噛むしかなかった。僕が彼女の秘密に触れたことで、事態は僕が思っていたよりもずっと、複雑に絡み合ってしまっている。
「咲、今日の買い出しも体調悪いって休んだわ。あんたが何か言ったせいで、あの子がどれだけ追い詰められてるか、わかってる?」
澪さんの責めるような声が、暗室に響く。
違う。僕は、追い詰めたかったわけじゃない。ただ、知りたかっただけだ。ファインダー越しに見える、君の「本当」を。
結局、僕は彼らに何も説明できないまま、彼らは嵐のように去っていった。一人残された暗室で、僕は現像液のトレイに、あの日の写真を浸した。
ゆっくりと、白い印画紙に像が浮かび上がってくる。
迷子の少女のような、空っぽな表情の日高咲。
そして、その背景にぼんやりと写り込む、慰霊碑。
『この地で、未来ある若者の命が失われたことを悼み…』
この碑文が、頭から離れない。この碑は、彼女と何か関係があるのだろうか。だとしたら、一体……。
その日の放課後、僕は再びあの海沿いの公園を訪れた。目的は、あの慰霊碑だ。
夕暮れの公園は、静まり返っていた。僕は慰霊碑の前に立ち、プレートに刻まれた文字を改めて目で追う。碑文の下には、小さな文字で、こう記されていた。
『平成二十七年七月七日 市立つばさ中学校二年 日高 凛 ここに眠る』
「ひだか……りん……?」
息が、止まった。
日高。僕が知る彼女と同じ苗字。そして、この場所で亡くなったという、中学二年生の少女。
まさか。
そんな、あり得ない。
僕の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい形を成して組み合わさっていく。
中学時代の、眼鏡の少女。
高校に入ってからの、太陽のような少女。
二人は、別人なのではないか?
『ぽかぽかアザラシ』が好きだったのは、僕が体育館で見た、あの眼鏡の少女。
では、今の彼女は?
混乱する頭で、僕はスマホを取り出し、検索窓に『市立つばさ中学校 事故』と打ち込んだ。
震える指で検索ボタンを押す。
ヒットしたいくつかの記事の中に、僕が求めている情報があった。
『市内公園の崖から女子中学生が転落、死亡。事故か、自殺か』
記事の日付は、慰霊碑に刻まれていた日付と同じだった。
記事には、亡くなった女子生徒の名前として、『日高凛』と記されていた。添えられた写真は、白黒で不鮮明だったが、僕が中学のコンクール写真で見た、あの眼鏡の少女の面影があった。
そして、記事を読み進めていくうちに、僕は衝撃的な一文に目を奪われた。
『亡くなった凛さんには、双子の妹がおり、学校関係者によると、二人は瓜二つだったという…』
双子の、妹。
血の気が、引いていく。
心臓が、氷水に浸されたように冷たくなっていく。
そういうことか。
僕が体育館で見たのは、姉の『凛』。
そして、今、僕のクラスにいるのは、双子の妹の方……。
だから、雰囲気が全く違うのか。
だから、中学時代の話を、あれほどまでに嫌がったのか。
だから、僕が凛の存在を指摘した時、あんなにも怯えたのか。
僕が今まで追いかけていた被写体は、日高咲ではなかった。
僕は、死んだ少女の幻影を、彼女に重ねて見ていただけだったのか。
僕は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。
だとしたら、彼女は、一体どんな想いで、毎日を生きているんだ? 亡くなった姉と瓜二つの顔で、姉が通っていたはずの高校に通い、姉の友人だったかもしれない人間たちに囲まれて。それは、想像を絶する苦しみではないのか。
藤堂蓮は、この事実を知っているのだろうか。
宮下澪は?
澪さんの、あの全てを見透かしたような態度は、この事実を知っているからこそのものだったのか。
『写真は、時々、写しちゃいけないものまで写してしまう』
父の言葉が、脳内でリフレインする。
僕は、知ってしまった。彼女が、その笑顔の仮面の下に隠していた、あまりにも重く、悲しい秘密を。
僕が撮った一枚の写真は、残酷なまでに、彼女の真実を暴いてしまったのだ。
翌日、学校へ行くと、教室の空気が異様だった。
僕が教室に入った瞬間、クラスメイトたちのひそひそ話がぴたりと止み、好奇と非難が入り混じった視線が僕に突き刺さる。
僕の席の隣の女子が、小さな声で教えてくれた。
「ねえ、夏目くん……日高さん、学校、辞めるかもしれないんだって」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。
辞める? なぜ?
休み時間、僕は意を決して、藤堂蓮の元へ向かった。バスケ部の連中と廊下で騒いでいた彼は、僕の姿を認めると、あからさまに嫌な顔をした。
「……話がある」
「あ? 俺はお前と話すことなんてねーよ」
「日高さんのことだ」
その名前を出すと、彼の表情が変わった。彼は仲間たちに目配せしてその場を離れると、僕を人気のない階段の踊り場へと連れて行った。
「お前のせいだからな」
開口一番、彼は憎しみのこもった声で言った。
「お前が、あいつの古傷を抉ったせいだ。咲は……あいつは、ずっと苦しんでたんだ。忘れようとして、必死に笑ってたのに」
咲。
やはり、僕のクラスにいるのは、妹の方だった。
「……知ってたのか。双子だってこと」
「当たり前だろ」
藤堂は、忌々しげに吐き捨てた。
「俺と、凛と、咲は、ガキの頃からの幼馴染だ。全部、知ってんだよ」
凛、という名前を、彼はひどく優しい響きで口にした。
「凛が死んだのは、事故なんかじゃねえ。いじめだよ。あいつは、ずっと学校でいじめられてた。地味で、大人しいからって、くだらねえ理由でな」
初めて聞く事実に、僕は息を呑んだ。
あの体育館で見た、凛さんの控えめな佇まい。あれは、ただの性格ではなかったのか。
「あの日……凛は、俺に助けを求めてきた。『もう、学校に行きたくない』って。でも俺は、部活のことで頭がいっぱいで、ちゃんと話を聞いてやれなかった。『明日聞くから』って……それが、あいつと交わした最後の言葉だ」
藤堂の拳が、壁に叩きつけられた。ゴツリ、と鈍い音が響く。彼の目には、後悔と悲しみの色が、深く刻まれていた。
「咲が、今のようになったのは、俺のせいでもある。俺が、あいつに言ったんだ。『お前は、凛の分まで笑って生きろ』って。『お前が太陽みたいに明るくしてれば、誰も文句言わねえだろ』ってな。咲は、俺のために、必死に『明るい日高咲』を演じてくれてたんだ。お前みたいな奴に、土足で踏み荒らされるためじゃねえ!」
彼の言葉の一つ一つが、僕の胸に突き刺さる。
そうだ。僕は、踏み荒らしてしまったのだ。彼女が、そして彼が、必死に守ってきた、脆くて儚い世界を。
「……ごめん」
僕の口から出たのは、そんな陳腐な一言だけだった。
「謝って済むことかよ!」
藤堂が、僕の胸ぐらを掴んだ。その瞳は、怒りと悲しみで潤んでいた。
「もう二度と、咲に近づくな」
そう言って僕を突き放すと、彼は背を向けて去っていった。
一人残された僕は、ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。
僕は、どうすればよかったんだろう。
知らなければ、よかったのか。
ファインダー越しに、何も気づかずに、彼女の完璧な笑顔だけを撮り続けていれば、よかったのか。
いや、違う。
僕が撮りたかったのは、そんな偽りの笑顔じゃない。
僕は、迷子の少女のような、あの表情にこそ、心を揺さぶられたんだ。
放課後。僕は、もう一度、写真部の部室へ向かった。
決着を、つけなければならない。
僕は、自分が撮った中で、最高の一枚だと思える写真を、引き伸ばしてプリントした。
海沿いの公園で撮った、迷子の少女のような、日高咲。
その写真を手に、僕は教室へと向かった。
彼女は、まだ教室にいた。一人きり。自分の席に座り、窓の外を、ぼんやりと眺めていた。その姿は、僕が撮った写真の中の彼女と、瓜二つだった。
僕の足音に気づき、彼女はびくりと肩を震わせた。
僕の顔を見ると、怯えたように、でも、どこか諦めたように、静かに僕を見つめた。
「……夏目くん」
「日高さん」
僕は、彼女の机の上に、一枚の写真を置いた。
僕が撮った、彼女の写真。
彼女は、恐る恐る、その写真に視線を落とした。
そこに写っている自分の、見たこともない表情を見て、彼女の目が、わずかに見開かれた。
「……これ……」
「これが、俺が撮りたかった、君だ」
僕は、静かに言った。
「太陽みたいに笑ってる君も、綺麗だと思う。でも、俺は……こっちの君の方が、ずっと……綺麗だと思った」
僕の言葉に、彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは、机の上の写真に、小さな染みを作った。
「……どうして」
彼女の声は、震えていた。
「どうして、こんな顔の私を……綺麗だなんて言うの……?」
「わからない。でも、本当だと思ったから」
僕は、続けた。
「俺は、君が双子だったことも、お姉さんのことも、知らなかった。ただ、ファインダー越しに見てる君が、時々、すごく悲しい顔をするから……気になってた。君が笑えば笑うほど、君の周りにある光が強くなればなるほど、君自身の影が、濃くなってるように見えた」
彼女は、何も言わずに、ただ涙を流し続けていた。
「君は、誰かのために笑う必要なんかない。無理に、太陽にならなくたっていい。君は、君のままでいいんだ」
その時だった。
僕の脳裏に、あの悪夢が、鮮明に蘇った。
『人殺し』
凛、と響いた声。
氷点下の眼差しで、僕を射抜く彼女。
ああ、そうか。
あの夢は、僕自身の罪悪感が見せていた幻じゃない。
あれは、彼女の心の叫びだったんだ。
僕は、写真を撮ることで、彼女の秘密を暴き、彼女を追い詰めた。
僕は、カメラという凶器を持った、加害者だった。
シャッターチャンスは、時に、ひどく残酷だ。
「……ごめん」
僕は、もう一度、謝った。
でも、今度の「ごめん」は、意味が違った。
「君を、傷つけた。本当に、ごめん」
僕が頭を下げた、その時。
彼女は、ゆっくりと首を横に振った。
そして、涙で濡れた瞳で、僕をまっすぐに見て、言った。
「……ううん」
「夏目くんは、わかってくれたから」
「初めて、わかってくれたから」
「誰も気づいてくれなかった、本当の私を……見つけてくれたから」
その瞬間、僕の耳元で、カシャッ、と幻のシャッター音が鳴った気がした。
僕のファインダーが、初めて、被写体の心の奥にある、ほんの一欠片の「真実」を、捉えた瞬間だった。
僕と彼女の、長くて、もどかしいすれ違いは、この一枚の写真から始まり、そして今、この一枚の写真によって、新たな局面を迎えようとしていた。