第4話:フレームの中の二人
「本当の私を、写してくれる……?」
夕暮れの教室に響いた彼女の言葉は、僕、夏目蒼の心に深く、そして重く突き刺さった。それは、被写体からカメラマンへの、単なる依頼ではなかった。もっと切実で、救いを求めるような響きを帯びていた。僕はあの時、まるで魔法にかけられたかのように、無言で頷くことしかできなかった。
その翌日から、僕と日高咲の関係は、奇妙な段階へと移行した。
彼女は、僕を撮ることを、公式に「許可」したのだ。
昼休み、いつものように写真部の部室で現像作業に没頭していると、ひょっこりと彼女が顔を出した。
「やっほー、夏目くん。今、何してるの?」
突然の来訪者に、僕だけでなく、部室にいた三上先輩や他の部員たちも目を丸くしている。ここは男子部員しかいない、むさ苦しい空間だ。太陽が迷い込む場所ではない。
「……別に。ただの作業」
「そっか。ねえ、今度、私のこと撮ってくれるって言ってたよね? いつにする?」
彼女は屈託なくそう言った。その言葉に、周囲の部員たちが「ヒューヒュー!」と囃し立てる。三上先輩だけは、面白がるような、それでいて何かを見定めるような目で、僕と彼女を交互に見ていた。
「おいおい、日高さんじゃん。ついに蒼のストーキングが実を結んだってわけか」
「ちょっと先輩、ストーキングじゃないですよ!」
「あはは、そうなの? 夏目くん、私のこと撮ってくれてたんだ」
日高さんは、僕が今まで彼女の写真を撮り溜めていたことを、まるで知らなかったかのように、無邪気に笑った。その反応が、僕をさらに混乱させる。跨線橋での一件は、彼女の中でどう処理されているのだろうか。
結局、その週末、僕たちは二人きりで「撮影会」をすることになった。もちろん、文化祭の準備という大義名分付きで。「装飾の参考にする写真を撮る」という、後付けの理由を掲げて。
約束の土曜日。駅前で待ち合わせた彼女は、いつもの制服ではなく、白いワンピースに麦わら帽子という、僕の貧弱な語彙力では「天使」としか表現できないような出で立ちで現れた。眩しすぎて、直視できない。
「ご、ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこ。その格好……可愛いね」
「……どうも」
心臓が、早鐘のように鳴り響く。僕の言葉に、彼女の頬がほんのりと赤く染まったように見えたのは、きっと西日のせいだ。
僕たちは、海沿いの公園へと向かった。観光客もまばらな、静かな場所。僕はカメラを構え、ファインダーを覗き込む。フレームの中に、日高さんが収まる。
「じゃあ、撮るよ」
「うん」
カシャッ。カシャッ。
シャッター音が、心地よく響く。
彼女は、モデルのように完璧なポーズをとるわけではなかった。ただ、そこに「いる」だけ。海を眺めたり、砂浜に落ちている貝殻を拾ったり、飛んでいるカモメに手を振ったり。その自然な仕草の一つ一つが、驚くほど絵になった。
だが、僕の心は晴れなかった。
ファインダー越しの彼女は、完璧すぎたのだ。笑顔も、憂いを帯びた表情も、どこか作られたもののように見えてしまう。僕が撮りたい「本当の彼女」は、そこにはいなかった。
(違う、これじゃない……)
僕が撮りたいのは、タレントの宣材写真じゃない。もっと生身の、感情が滲み出るような、そんな一瞬なんだ。
跨線橋で見た、あの空っぽな表情。
雑貨屋の前で見た、あの切なげな横顔。
あれこそが、彼女の「本当」に繋がる断片のはずなのに。
僕がシャッターを切る手を止め、考え込んでいると、彼女が不安そうな顔でこちらを見た。
「……どうしたの? 私、変かな?」
「いや、そうじゃなくて……」
言葉に詰まる僕に、彼女は少し寂しそうに微笑んだ。
「……難しいよね。『本当の私』なんて、私自身も、よくわからないんだから」
その言葉は、僕の胸に重く響いた。
彼女は、自分でも自分のことがわからないのか。だから、僕の写真に、その答えを求めているのか。だとしたら、あまりにも重すぎる役目だ。
「……少し、休憩しよっか」
彼女の提案で、僕たちは公園のベンチに腰を下ろした。自動販売機で買ったお茶を飲みながら、とりとめのない話をする。学校のこと、文化祭のこと、友達のこと。その間も、彼女は決して「自分のこと」は話さなかった。特に、中学時代の話は、巧妙に避けられているような気がした。
「夏目くんはさ、どうして写真を始めたの?」
「……親父が、カメラマンだったから。昔、少しだけ」
「え、そうなの!?」
彼女は目を丸くした。僕自身のことを聞かれるのは苦手だが、なぜか彼女には、素直に話せる気がした。
「もう辞めちゃったけどね。俺が小さい頃、よく撮ってくれたんだ。でも、ある時から、親父は全く写真を撮らなくなった。カメラにも触れなくなった」
それは、僕の家庭の、小さな秘密だった。写真好きだった父は、ある出来事を境に、まるで写真に呪われたかのように、カメラから遠ざかってしまった。その理由は、僕も知らない。
「なんで……?」
「さあ……。でも、親父が言ってたんだ。『写真は、時々、写しちゃいけないものまで写してしまうからな』って」
その言葉を口にした瞬間、僕はハッとした。
写しちゃいけないもの。それは、三上先輩が言っていた「残酷な真実」という言葉と重なる。僕の父も、写真によって、何かを知ってしまったのだろうか。
僕の話を、彼女は真剣な眼差しで聞いていた。その瞳は、僕の過去を通して、何か別のものを見ているようだった。
「……夏目くんのお父さんと、私、少し似てるかも」
「え?」
「私もね、昔は、好きだったものがあったんだ。でも、今はもう、見ることすらできない」
そう言って、彼女は自嘲するように笑った。その笑顔は、僕が今まで見たどの笑顔よりも、悲しく見えた。
好きだったもの。それは、一体何なんだろう。
『ぽかぽかアザラシ』のことだろうか。それとも、もっと別の何かだろうか。
「そろそろ行こっか」
彼女は話を切り上げるように立ち上がった。僕たちの間に、また少しだけ距離ができたような気がした。
撮影を再開しても、僕の迷いは消えなかった。シャッターを切れば切るほど、僕と彼女の間にある見えない壁が、分厚くなっていくような感覚。そんな焦りの中、僕はふと、ある提案をした。
「……今度は、俺が撮りたいものを撮ってもいい?」
「え?」
「日高さんのリクエストじゃなくて、俺が撮りたいと思ったものを、撮らせてほしい」
それは、半ば賭けだった。僕の独りよがりな要求に、彼女がどう反応するか、わからなかった。
彼女は少し驚いたように僕を見つめた後、ふっと、柔らかく微笑んだ。
「うん、いいよ。夏目くんの、撮りたいように撮って」
その許可を得て、僕はカメラを構え直した。
もう、綺麗な笑顔を撮るのはやめた。ポーズを求めるのもやめた。
僕はただ、彼女に一つのことだけをお願いした。
「……何も考えなくていいから。ただ、そこにいて」
そして、僕は彼女から少し離れ、望遠レンズに切り替えた。被写体との物理的な距離は、時として、心理的な距離を縮めてくれることがある。
僕は、彼女が僕の存在を忘れるのを、じっと待った。
数分が経っただろうか。
最初は少しぎこちなかった彼女も、やがてカメラを意識するのをやめ、ただ、そこに佇んでいた。
夕暮れの光が、彼女の白いワンピースを淡く染める。潮風が、彼女の髪を優しく揺らす。
その時だった。
彼女の表情から、ふっと力が抜けた。
笑顔でもなく、悲しい顔でもない。
ただ、空っぽな、無垢な表情。
それは、僕が跨線橋で見た、あの表情に近かった。
これだ。
僕は、息を止めてシャッターを切った。
カシャッ。
静かなシャッター音が、僕の心臓の鼓動と重なる。
その一枚を撮った後、僕は何かに導かれるように、彼女に近づいた。
「……日高さん」
「ん?」
「中学の時、バスケ部の応援、行ってた?」
その質問は、何の脈絡もなかった。ただ、僕の口が、勝手に動いていた。
僕の言葉に、彼女の肩が、びくりと震えた。
顔が、見る見るうちに青ざめていく。
「な、なんで……それを……」
「やっぱり……」
僕の確信に満ちた声に、彼女は後ずさった。その瞳には、恐怖と混乱の色が浮かんでいる。
「あの時、体育館にいたの、君なんだね」
僕は、逃げ道を塞ぐように、言葉を続けた。
「眼鏡をかけて、三つ編みで……スクールバッグには、『ぽかぽかアザラシ』のキーホルダーがついてた」
決定的な一言だった。
彼女は、わなわなと唇を震わせ、何も言えずに立ち尽くしている。
その反応が、僕の仮説が真実であることを、何よりも雄弁に物語っていた。
「どうして……どうして夏目くんが、それを知ってるの……?」
絞り出すような声だった。それは、僕が初めて聞く、彼女の弱々しい、本当の声のような気がした。
どうして?
それは僕が、君を見ていたからだ。
君が、今の君になるずっと前から、僕は、君という存在を、ファインダー越しに認識していたからだ。
僕が答えを言う前に、彼女の足元で、スマホが鳴り響いた。
画面に表示された名前を見て、彼女の表情がさらに凍りつく。
『藤堂蓮』
彼女は震える手で電話に出ると、僕に背を向けた。
「……もしもし、蓮? うん……今? 夏目くんと……ううん、文化祭の……」
電話口で、必死に平静を装う彼女。だが、その声は上ずっている。
電話を切った後、彼女は一度もこちらを振り返ることなく、言った。
「ごめん、私、もう帰るね。蓮が……迎えに来てくれるって」
蓮、という名前が、僕の胸を刺した。
そうだ。彼女の隣には、いつも彼がいる。僕が彼女の過去にどれだけ迫ろうとも、現在の彼女を支えているのは、彼なのだ。
「撮影、ありがとう。写真は……また今度、見せて」
そう言って、彼女は逃げるように走り去ってしまった。
一人、夕暮れの公園に取り残された僕は、ただ立ち尽くすしかなかった。
手の中のカメラが、ずしりと重い。
僕は、彼女の秘密の扉に、触れてしまった。
それは、開けてはいけない扉だったのかもしれない。
家に帰り、撮ったデータを確認する。
何百枚と撮った、完璧な笑顔の彼女。そのどれもが、色褪せて見えた。
僕の目が探していたのは、たった一枚。
最後に撮った、あの空っぽな表情の彼女だ。
画面に映し出されたその写真は、僕の胸を締め付けた。
そこに写っていたのは、太陽のような日高咲ではなかった。
笑うことも、泣くこともできずに、ただ、そこに立ち尽くす、迷子の少女だった。
写真の隅に、小さく、何かが写り込んでいることに気づいた。
解像度を上げて、確認する。
それは、彼女が立っていた場所の近くにある、古い記念碑だった。プレートには、文字が刻まれている。
『この地で、未来ある若者の命が失われたことを悼み、ここに碑を建てる』
その碑が、何を意味するのか、僕にはまだわからなかった。
ただ、この一枚の写真が、僕と彼女の運命を、もう後戻りできない場所へと導いてしまったことだけは、確かだった。
フレームの中には、いつも二人きりだった。
僕と、君と。
でも、そのフレームの外側には、僕の知らない、たくさんの人々や、過去や、そして、おそらくは悲しい秘密が、複雑に絡み合っている。
僕のピントは、まだ、その全体像を捉えることができずにいた。