第3話:被写体は嘘をつく
日高咲は、二人いる。
僕の脳内で、この突拍子もない仮説が渦を巻いていた。一人は、僕が知る、太陽のような笑顔を振りまくクラスの中心人物。もう一人は、僕しか知らない、眼鏡に三つ編みで、体育館の隅にひっそりと佇んでいた少女。
同一人物だという事実は、ゼッケンの名前が証明している。だが、僕の感情がそれを頑なに拒絶していた。まるで質の悪い合成写真を見せられているような、強烈な違和感。昨夜、あの写真を発見してからというもの、僕の頭の中は飽和状態のフィルムのように、何も考えられなくなっていた。
翌朝の教室は、いつもと同じ喧騒に満ちている。しかし、僕の目には、そのすべてが色褪せた風景のように映っていた。僕のピントは、ただ一点、日高咲という謎めいた被写体にだけ、無理やり合わせられていた。
彼女は今日も、友達と楽しそうに笑っている。その完璧な笑顔を見るたびに、僕は中学時代のあの写真とを比較してしまう。あの控えめな少女が、高校デビューを果たしてここまで変わるものだろうか。いや、これは単なるイメージチェンジという言葉で片付けられる変化ではない。まるで、魂ごと入れ替わってしまったかのような、根源的な変容だ。
「――ねえ、咲、この後って買い出しだよね?」
「うん、そうだよ! 布とかペンキとか、結構買うものあるし、大変かも」
ホームルームが終わり、放課後。実行委員会の時間がやってきた。僕にとっては憂鬱以外の何物でもない時間だ。教室の隅で荷物をまとめていると、藤堂蓮が日高さんに声をかけるのが聞こえた。
「じゃあ俺、車出すぜ。親のだけど。その方が楽だろ」
「え、いいの!? 助かるー!」
ほら、まただ。藤堂のスマートな提案に、日高さんが嬉しそうに声を弾ませる。あのプリクラが、僕の脳裏をチラつく。二人が付き合っているという「事実」は、僕の心を重く沈ませるアンカーだ。僕が彼女の過去にどれだけ疑問を抱こうと、現在の彼女の一番近くにいるのは、紛れもなく藤堂なのだ。
空き教室に集まった僕たち四人の前で、澪さんがテキパキと買い物リストを広げた。
「結構量が多いから、二手に分かれようか。画材屋に行く組と、ホームセンターに行く組」
「はーい! じゃあどうやって決める?」と日高さん。
「めんどくせーし、あみだでいいんじゃね?」と藤堂。
澪さんがノートの切れ端にささっと作ったあみだくじ。その結果は、残酷なまでに僕の期待を裏切った。
画材屋組:日高咲、夏目蒼
ホームセンター組:藤堂蓮、宮下澪
「げ、マジか」と舌打ちする藤堂と、「まあ、仕方ないね」と冷静な澪さん。そして、僕の隣で、日高さんが「よろしくね、夏目くん」と、少し困ったように、でも嬉しそうに微笑んだ。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。二人きり。日高さんと、僕が。
「おい、日高。二人じゃ荷物持てねーだろ。俺もそっち行くわ」
藤堂が助け舟(あるいは僕に対する牽制)を出そうとした、その時。
「あんたはこっち。ペンキ缶とか重いものがあるんだから、男子が一人いないと困るでしょ」
澪さんが、ピシャリと藤堂を制した。その目は笑っていない。まるで、「余計な口出しするな」とでも言いたげな、鋭い光を宿していた。澪さんは、どうしてこうも意図的に、僕と日高さんを二人きりにさせようとするのだろうか。彼女の真意が読めず、僕はただ狼狽えるしかなかった。
こうして、僕は日高さんと二人きりで、駅前の大型画材店へ向かうことになった。
並んで歩く歩道。僕と彼女の間には、人が一人通れるくらいの、気まずい距離が空いていた。何を話せばいいのかわからない。沈黙が痛い。
「……あのさ」
先に沈黙を破ったのは、彼女の方だった。
「夏目くんのデザイン、やっぱりすごくいいなって思って。みんなも言ってたよ」
「あ……どうも……」
「なんていうか……夏目くんの写真みたいだなって」
「え?」
思わぬ言葉に、僕は彼女の方を見た。彼女は少し照れたように視線を逸らしながら、言葉を続けた。
「夏目くんの写真って、ただ綺麗なだけじゃなくて、なんだか……優しいから。あのデザインも、そんな感じがしたの。見てると、ホッとするっていうか」
優しい。僕の写真が?
三上先輩には「残酷だ」と評された僕の写真が、彼女には「優しい」と映るのか。
被写体によって、写真はこうも解釈が変わるものなのか。あるいは、彼女自身が、僕にそう見られたいと願っているのか。
「……日高さんは、どうして、俺のデザインがいいって言ってくれたの? 藤堂は、インパクトが弱いって言ってたけど」
気づけば、そんな問いが口をついて出ていた。聞きたかった。君は、どうして隣にいる彼の意見よりも、僕の拙い落書きを選んでくれたのか。
彼女は少しだけ足を止め、僕の方をまっすぐに見つめた。
「蓮は、派手なものが好きだから。でも、私は……静かなものの方が、好きだから。ただ、それだけだよ」
その答えは、僕が彼女に抱いていた「太陽」のイメージとはかけ離れていた。静かなものが好き? いつも輪の中心で、誰よりも明るく輝いている君が?
僕の混乱をよそに、彼女は「あ、お店、見えてきた!」と再び歩き出した。その背中を追いながら、僕は一つの決意を固めた。
聞くなら、今しかない。
店に入り、買い物リストを見ながら画材を選んでいく。アクリル絵の具の色を選ぶ彼女の横顔は、真剣そのものだ。その姿は、僕がファインダー越しに見てきた彼女と何も変わらない。でも、僕の中の「違和感」は、もう無視できないほどに膨れ上がっていた。
「……日高さん」
「ん? なに?」
「中学の時って、どこだったの?」
僕の言葉に、絵の具のチューブを手に取ろうとしていた彼女の指が、ピタリと止まった。
空気が、凍る。
彼女の顔から、すっと表情が消えた。いつも浮かべている、あの人懐っこい笑顔が、まるで仮面が剥がれ落ちるように消え失せた。
「……なんで、そんなこと聞くの?」
声が、低い。これまで僕が聞いたことのない、冷たい声色だった。
まずい。地雷を踏んだ。そう直感した。
「いや、その……同じクラスになったのに、全然知らないなって、思って……」
しどろもどろになる僕を、彼女は冷たい瞳で見つめていた。しかし、その瞳の奥には、確かな動揺の色が揺らめいている。
「ごめん……あんまり、昔の話、好きじゃなくて」
そう言って、彼女は俯いてしまった。長い睫毛が震えている。その姿は、僕に罪悪感を抱かせるには十分すぎるほど、痛々しく、儚げに見えた。
これ以上、踏み込んではいけない。僕の本能が、警鐘を鳴らしていた。
「……ごめん。変なこと聞いて」
「ううん、こっちこそ、ごめんね。さ、早く買っちゃお!」
彼女は無理やり作ったような笑顔を浮かべると、足早にレジの方へ向かってしまった。
残された僕は、自分の迂闊さを呪った。同時に、彼女の反応が、僕の仮説をより強固なものにしたことも事実だった。
中学時代の話は、彼女にとってのタブーなのだ。
重い空気のまま会計を済ませ、二人分の画材が入った大きな紙袋を僕が一人で持つ。店を出ると、外はすっかり夕暮れに染まっていた。帰り道も、行きと同じように、気まずい沈黙が続いた。
その沈黙を破ったのは、またしても彼女だった。
「あ……」
彼女が、ふと足を止め、ある一点を食い入るように見つめていた。その視線の先にあるのは、小さな雑貨屋のショーウィンドウ。中には、ファンシーなキャラクターグッズが所狭しと並べられている。
彼女が見つめていたのは、その中の一つ。
『ぽかぽかアザラシ』という、少しレトロな雰囲気の、気の抜けた顔をしたアザラシのキャラクターだった。キーホルダーやぬいぐるみが、いくつか並べられている。
彼女はそのキャラクターから、目が離せないようだった。その横顔は、僕が今まで一度も見たことのない表情をしていた。
懐かしむような、愛おしむような、切ないような……。まるで、遠い昔に別れた、大切な友達に再会したかのような、そんな表情。そこには、いつも彼女が纏っている完璧な笑顔の鎧は、どこにもなかった。
その時、僕の脳裏に、電撃が走った。
『ぽかぽかアザラシ』。
そうだ。あのキャラクター……僕は、知っている。
僕は慌ててスマホを取り出し、写真フォルダを開いた。目的の写真はすぐに見つかる。中学時代のコンクール応募作品。体育館の隅に佇む、眼鏡の少女。
僕は、写真の解像度を最大まで上げた。そして、少女が持っていたスクールバッグにぶら下がっている、小さなキーホルダーにズームする。
間違いない。
ピントは甘いが、その丸っこいフォルムと気の抜けた顔は、今、日高さんが見つめている『ぽかぽかアザラシ』そのものだった。
「……そのキャラクター、好きなの?」
僕は、恐る恐る尋ねた。
僕の声に、彼女はハッと我に返ったように振り向いた。その目には、涙が薄っすらと浮かんでいるように見えた。
「え? う、ううん! 別に……! ただ、なんか懐かしいなって思っただけ!」
彼女は慌ててそう言うと、再び僕に背を向けて歩き出してしまった。
嘘だ。
その反応は、ただの「懐かしい」という感情だけではない。彼女にとって、あのキャラクターは、ただのキャラクターではないのだ。それは、僕の知らない、過去の彼女に繋がる、重要な鍵なのだ。
追いかける僕の頭の中は、パズルのピースが一つハマったような、奇妙な興奮に包まれていた。
今の彼女は、このキャラクターのことを「好きだ」とは言わない。しかし、過去の彼女は、そのキーホルダーを大切にカバンにつけていた。
この食い違いは、一体何を意味するのか。
学校への帰り道。彼女は、もう何も話さなかった。
空き教室に戻ると、藤堂と澪さんはすでに作業を始めていた。
「お、おせーじゃん」と藤堂。
「ご、ごめん! ちょっと道草しちゃって」と、日高さんは無理やり明るい声を作って答えた。
僕が黙って荷物を置くと、澪さんが僕の顔をじっと見てきた。その視線は、何かを探るようで、僕は思わず目を逸らした。
その日の作業が終わり、帰り支度をしていた時だった。
「夏目くん」
日高さんが、僕を呼び止めた。藤堂と澪さんは、もう教室にはいない。二人きりだった。
「今日は、その……ありがとう。荷物、重かったでしょ」
「……ううん」
「あと、その……ごめんね。さっき、変な態度とって」
彼女は、俯きながらそう言った。
僕は、何と答えていいかわからなかった。
「……夏目くんってさ」
彼女は顔を上げると、決心したような目で僕を見た。
「どうして、いつもカメラ持ってるの? どうして、写真を撮るの?」
唐突な質問だった。でも、その瞳は真剣だった。
僕は少し考えてから、正直に答えた。
「……本当のものを、写したいから、だと思う」
「本当のもの……?」
「うん。笑顔とか、景色とか……そこに写ってるものが、嘘か本当かなんて、撮った自分にしかわからないけど。でも、ファインダーを覗いてる時だけは、本当のものが見える気がするから。……ただの、自己満足だけど」
僕の拙い言葉を、彼女は黙って聞いていた。
夕日が差し込む教室で、彼女のシルエットがオレンジ色に縁取られる。
長い沈黙の後、彼女は、か細く、少し震える声で言った。
「……私のことも、撮ってくれる?」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
それは、これまでクラスの女子が僕に言ってきた「モデルになってよ」という軽いノリとは、全く違う響きを持っていた。
まるで、祈るような、あるいは、何かにすがるような……。
彼女の瞳の奥に、懇願のような色が揺らめいていた。
それは、僕が跨線橋でファインダー越しに見た色と、よく似ていた。
「本当の私を、写してくれる……?」
被写体は、嘘をつく。
でも、その嘘の下にある本当の姿を、このレンズなら暴けるかもしれない。
いや、彼女は、僕に暴いてほしいと願っているのかもしれない。
僕は、無言で、こくりと頷いた。
それが、どんな意味を持つのかもわからないまま。
ただ、彼女の瞳から、もう逃げることはできないと悟った。
僕のファインダーは、これから、この嘘つきで、謎だらけで、そしてひどく魅力的な被写体を、どこまでも追いかけることになるだろう。