第2話:ノイズまみれのファインダー
最悪のシャッター音から一夜が明けた。
僕、夏目蒼にとって、学校へ向かう足取りは、まるで処刑台への階段を上る囚人のように重かった。跨線橋での一件以来、日高咲の、あの見たこともない表情が脳裏に焼き付いて離れない。怒りでも、驚きでもない、何かを問いただすような、あるいは助けを求めるような……。いや、そんなのは僕の勝手な願望がフィルターとなって見せた幻覚だろう。現実は、盗撮魔に対する軽蔑の眼差し、それ以外にあり得ない。
教室のドアを開けると、案の定、彼女はもう席にいた。友達に囲まれ、いつもと同じように笑っている。太陽は、昨日と同じ軌道で輝いている。僕という小さな星が、彼女の視界の隅で燃え尽きようとしていることなど、知る由もないように。
僕は誰にも気づかれないよう、息を殺して自分の席へと向かった。その途中、ほんの一瞬、日高さんと目が合った気がした。彼女の口が、何かを言おうとわずかに動いたように見えたのは、きっと気のせいだ。すぐに逸らされた視線が、僕と彼女の間に引かれた決定的な境界線を物語っていた。
(終わった……)
高校生活、第二章の幕開けと同時に、僕のささやかな楽しみと平穏は終わりを告げたのだ。僕は机に突っ伏し、今日一日、どうやって石ころとしての役目を全うするか、それだけを考えていた。
昼休み。逃げ込むようにやってきた写真部の部室は、今日もカビと薬品の匂いが混じった、僕にとっての聖域だった。三脚の森を抜け、定位置のパソコンの前に座る。昨日撮ったデータを確認する気にはなれず、ただぼんやりと画面を眺めていると、背後から気配がした。
「よお、生きてたか、盗撮魔」
振り返るまでもなく、声の主は三上先輩だとわかった。その手には、いつものように缶コーヒーが握られている。
「……盗撮じゃありません。風景を撮ってただけです」
「その風景の中に、いつも特定の人物が写り込んでるだけ、だろ? で、なんか進展はあったのかよ」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる先輩に、僕は昨日の出来事をぽつりぽつりと話した。ファインダー越しに目が合ってしまったこと、そして、シャッターを切ってしまったこと。
「はっ、最高にドラマチックじゃねえか。で、これがその決定的瞬間ってやつか?」
先輩は僕の肩越しに手を伸ばし、勝手にマウスを操作してSDカードのプレビュー画面を開いた。一番最後に記録されたデータ。跨線橋で撮った、日高さんの写真。
クリックされ、拡大された画像を見て、三上先輩の軽口がぴたりと止まった。彼の表情から、いつもの揶揄うような色が消える。
「……おい、蒼」
「はい」
「これは……ただ事じゃねえな」
真剣な声だった。僕はゴクリと唾を飲む。
「この女、お前のこと、知ってる顔だぞ。ただ驚いてるんじゃない。もっと前から、お前が自分を撮ってることに、気づいてた目だ」
「え……」
「しかも、だ。嫌悪感じゃねえ。どっちかっていうと……そうだな、何かを期待してるような……違うか。何かを諦めてるような……クソ、どっちだ。とにかく、複雑な感情が写りすぎてる。お前、こいつに何したんだ?」
三上先輩の言葉は、僕の混乱をさらに増幅させた。期待? 諦め? そんなはずはない。僕と彼女は、昨日初めてまともに言葉を交わした(と僕は思っている)程度の関係なのに。
「何も……してません」
「ふぅん……」
先輩は顎に手をやり、しばらく写真を睨みつけていたが、やがて興味を失ったかのように椅子から立ち上がった。
「ま、どっちにしろ、お前が撮る日高咲って女は面白い。被写体として最高だ。……そういや、あいつ、中学の頃ってもっと地味じゃなかったか? 俺の記憶違いかもしんねーけど」
去り際に投げかけられた言葉を、その時の僕は深く考えなかった。中学時代の彼女なんて、知る由もない。僕の頭は、ただ「嫌われてはいないのかもしれない」という、先輩の無責任な分析によって生まれた淡い期待でいっぱいになっていた。
だが、その期待は、放課後の実行委員会で無残にも打ち砕かれることになる。
空き教室に集まったのは、昨日と同じ四人。しかし、昨日とは明らかに空気が違っていた。日高さんは、僕と一切目を合わせようとしない。彼女の注意はすべて、隣にいる藤堂蓮に向けられていた。
「それでね、蓮! ここの壁、どういう飾りにするか悩んでて……」
「ん? ああ、プロジェクションマッピングとか面白くね? 俺、そういうの得意な友達いるぜ」
「ほんと!? すごい!」
完璧な太陽と月の会話。そこに僕や澪さんが入り込む隙はない。僕は完全にアウェーだった。気まずさに耐えかね、手持ち無沙汰にスケッチブックを開き、シャープペンを走らせる。別にアイデアがあるわけじゃない。ただ、何かをしていないと、この息の詰まるような空間に耐えられそうになかった。
(テーマは『星空のカフェ』……か)
昨日、かろうじて決まったテーマを思い出しながら、僕は無意識にペンを動かしていた。天井から星のオブジェを吊るして、壁にはグラデーションの布を垂らして、テーブルには小さなランタンを置いて……。
「――夏目くん、それ、見せて」
静かだが、芯の通った声に顔を上げると、正面に座っていた宮下澪さんが、僕の手元をじっと見ていた。
「え、あ、いや、これはただの落書きで……」
「いいから」
有無を言わさぬ圧力に負け、僕は恐る恐るスケッチブックを彼女に差し出した。澪さんはページをめくり、僕の拙いスケッチを真剣な眼差しで眺めている。その隣から、日高さんも遠慮がちに覗き込んだ。
「わ……すごい。夏目くん、絵も上手なんだ」
日高さんの素直な感嘆の声に、心臓が跳ねる。やめてくれ、そんな風に褒めないでほしい。
「これ、すごくいいじゃない」と澪さんが言った。「テーマに合ってるし、何より、優しい感じがする。私は好きだよ、このデザイン」
その言葉に、藤堂が「どれどれ?」と身を乗り出してきた。彼は僕のスケッチを一瞥するなり、少しつまらなそうに言った。
「ふーん。まあ、悪くはないけど……もうちょい派手さが欲しいよな。文化祭なんだし。インパクトが弱くね?」
「そうかな?」
澪さんが少し不満げに返した、その時だった。
「……私は、こっちの方が好きだな」
そう言ったのは、日高さんだった。
藤堂の意見に反論する形で、彼女は僕のデザインを擁護した。
「なんだか、見てると落ち着く感じがする。星空だけど、冷たいんじゃなくて、温かい感じ。……いいと思う、すごく」
まっすぐな瞳で、彼女は僕を見た。昨日までの気まずさが嘘のように、その瞳には何のフィルターもかかっていないように見えた。
僕は混乱した。どういうことだ? 藤堂と付き合っている君が、どうして彼の意見よりも僕の落書きを……。
「日高がそう言うなら、まあ、いいけど」
藤堂は少し不貞腐れたようにそう言うと、スマホをいじり始めた。教室に、再び気まずい沈黙が流れる。日高さんは、何か言いたげに僕の方を見ていたが、結局、最後まで口を開くことはなかった。
結局、その日は僕のデザイン案を元に進めるということで話がまとまり、早々にお開きになった。僕は逃げるように教室を飛び出し、一人、家路につく。
(わけがわからない)
彼女の行動すべてが、僕の理解を超えている。僕を避けているかと思えば、突然褒めたり、擁護したりする。まるで、僕の感情を試しているかのようだ。
「夏目くん!」
背後から呼び止められ、振り返ると、そこには澪さんが立っていた。日高さんや藤堂の姿はない。彼女は少し息を切らしながら僕の隣に並ぶと、ずけずけと言った。
「あんた、なんで咲のこと避けてるのよ」
「え……いや、別に……」
「別に、じゃないでしょ。今日の咲、あんたに話しかけようとして、ずっとタイミング探ってたんだから。あんたが壁作りすぎなのよ」
澪さんの言葉は、僕にとって信じがたいものだった。日高さんが、僕に?
「昨日のこと、気にしてたよ。跨線橋でのこと。でも、怒ってるとかじゃなくて……『なんで夏目くんが、あそこにいたんだろう』って。そればっかり言ってた」
なんで、と言われても困る。それは僕のセリフだ。いつも輪の中心にいる彼女が、どうして一人で、あんな場所にいたのか。
僕が答えに窮していると、澪さんはふっと息を吐き、少しだけ声のトーンを落とした。
「ねえ、夏目くんって、咲のこと、どう思ってるの?」
核心を突く質問に、僕は言葉を失った。どう、と言われても……。
「……別に、どうも。ただの、クラスメイト……」
「嘘」
澪さんは僕の答えを、食い気味に一刀両断した。そして、僕の目を見て、意味深な笑みを浮かべる。それは、全てを見透かしているような、少しだけ意地悪な笑みだった。
「あんまり、見たままを信じない方がいいかもよ」
「え……?」
「特に、あの子……日高咲に関してはね。彼女が笑ってるからって、本当に笑ってるなんて思わないことね」
それだけ言うと、澪さんは「じゃあね」と手を振り、僕とは違う方向へと曲がっていった。
一人残された僕は、彼女の言葉を反芻していた。
『見たままを信じない方がいい』
それは、三上先輩が言っていた「被写体が隠してる嘘」という言葉と奇妙にリンクした。日高咲は、何を隠しているというんだ?
重い足取りで家に帰り着き、自分の部屋に閉じこもる。僕はパソコンを立ち上げ、昨日撮ったSDカードを挿入した。もう一度、あの写真を確認したかった。
画面に映し出された、跨線橋での日高さん。
三上先輩や澪さんの言葉というフィルターを通して見ると、その表情はまた違った意味を帯びてくる。これは、諦めか、期待か、それとも懇願か。ノイズまみれの僕のファインダーでは、もう彼女の本当の感情を読み解くことはできなかった。
僕は、このどうしようもない気持ちを振り払うように、SDカード内の不要なデータを整理し始めた。溜まりに溜まった写真データを削除していく。風景、猫、友達……その中に、ふと見覚えのあるフォルダが目に入った。
『中学市総体・写真コンクール応募作品』
そうだ。中学三年生の時、僕は初めて市のコンクールに応募したんだ。懐かしさから、僕はそのフォルダをダブルクリックした。中には、当時僕が一生懸命撮ったであろう、拙い写真が十数枚入っていた。
その一枚に、僕の視線は釘付けになった。
体育館で、バスケットボールの試合を応援する生徒たちを撮った一枚だ。その群衆の片隅に、一人の少女が写り込んでいる。
顔は今よりずっと幼い。けれど、その面影にはどこか見覚えがあった。
しかし、その雰囲気は、僕が知る誰とも似ていなかった。
分厚い黒縁の眼鏡。
きっちりと二つに分けられた、三つ編みのおさげ髪。
少し俯きがちで、自信なさげに仲間を応援する、控えめな佇まい。
僕が知る「日高咲」とは、まるで正反対。太陽ではなく、日陰に咲く露草のような、そんな印象の少女だった。
(誰だっけ、これ……同じ中学だった子かな……)
記憶の糸をたぐり寄せようとした、その時。
僕は、写真の解像度を最大まで上げて、ある一点に気づいてしまった。
少女の胸元。そこに付けられた、布製のゼッケン。白い布に、手書きで名前が書かれている。その文字は、ピントの甘さで少し滲んでいたが、かろうじて読むことができた。
そこに書かれていた名前は――『日高』。
「え…………?」
声にならない声が、喉から漏れた。
嘘だろ。
僕は慌てて、文化祭準備の時にこっそり撮った、日高さんの笑顔の写真を隣に並べて表示した。
片や、クラスの中心で太陽のように笑う、完璧な美少女。
片や、体育館の隅でひっそりと佇む、眼鏡の地味な少女。
輪郭、目鼻立ちの配置。パーツは、確かに同じ人物のものだ。だが、その放つオーラ、雰囲気、何もかもが違いすぎる。まるで、別人じゃないか。
僕の頭の中で、昨日見たプリクラがフラッシュバックする。
『ずっと一緒』と書かれた、完璧な笑顔の日高咲。
そして今、目の前にある、僕の知らない過去の日高咲。
澪さんの言葉が、雷鳴のように頭の中で響き渡った。
『あんまり、見たままを信じない方がいいかもよ』
『特に、あの子……日高咲に関してはね』
ノイズだらけだった僕のファインダーが、ようやく一つの「違和感」にピントを合わせた。
君は、誰なんだ?
僕が知っている日高咲と、僕の知らない日高咲。
一体、どっちが本当の君なんだ?
僕と彼女を隔てる壁は、単なる勘違いなどではなかった。もっと根深く、複雑で、そしておそらくは、悲しい秘密によって築かれたものなのかもしれない。
僕の長い長い、ピント合わせの日々は、まだ始まったばかりだった。