第1話:シャッターチャンスは残酷だ
「人殺し」
凛と響いた声は、驚くほど静かな教室によく通った。
その声の主は、日高咲。
クラスの、いや、学年の中心に咲く太陽のような彼女が、今、氷点下の眼差しで僕――夏目蒼を射抜いている。その手には、僕が撮った一枚の写真。そこに写っているのは、他の誰でもない、彼女自身の笑顔だった。
「どうして、あんな写真を撮ったの? 夏目くんのせいで、全部……全部めちゃくちゃになった!」
違う。そんなつもりじゃなかった。ただ、君の本当の笑顔が撮りたかっただけで――。
喉まで出かかった言葉は、声にならない。彼女の瞳から零れ落ちた一筋の涙が、床に落ちるよりも早く、僕の意識は真っ白に塗り潰されていった。
……という、悪夢から覚めた僕の視界に飛び込んできたのは、見慣れた教室の天井と、後方で騒ぐクラスメイトたちのぼやけた輪郭だった。心臓が、まるで誰かに鷲掴みにされたかのようにドクドクと痛い。額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭い、僕はゆっくりと呼吸を整えた。
(……また、この夢か)
最近、決まってこの悪夢を見る。日高さんに罵倒される夢。現実の彼女は、僕みたいな教室の隅にいる地味な人間に、憎しみの感情すら向けることはないというのに。
僕はそっと、自分の席から一番遠い、教室の最前列の窓際にいる彼女に視線を向けた。
キラキラと降り注ぐ四月の陽光を浴びて、友達と笑い合う日高咲。艶のある栗色の髪が、笑うたびにふわりと揺れる。通った鼻筋、少し大きな瞳、弧を描く唇。そのどれもが、神様が丹精込めて作り上げたとしか思えない完璧な造形をしていた。
彼女は太陽だ。誰もがその光に惹きつけられ、自然と周りには人の輪ができる。僕のような、日陰でしか生きられない人間とは、住む世界が違う。
だから、直接関わるなんておこがましいことは考えない。
僕にできるのは、こうして誰にも気づかれないように、彼女の姿を心の中のシャッターで切り取ることだけ。
僕、夏目蒼は、人付き合いが致命的に下手だ。人と話すより、本を読んだり、カメラを構えたりしている方がずっと楽だ。そんな僕にとって、高校の写真部は唯一の安息地であり、自己表現の場だった。
「――お、蒼。また日高さん撮ってたのか?」
昼休み。薄暗い写真部の部室で、僕はパソコンの画面に映し出されたデータとにらめっこしていた。背後から声をかけてきたのは、部長の三上先輩だ。気怠げな雰囲気とは裏腹に、その腕は全国コンクールで何度も入賞するほど確かだ。
「……別に、撮ってません。たまたま、フレームに入っただけです」
「はいはい。その『たまたま』で、お前のSDカードは日高さんでいっぱいなんだろ」
三上先輩はニヤニヤしながら僕の隣の椅子に腰を下ろし、画面を覗き込んだ。そこには、文化祭の準備期間中に僕が撮った写真が一覧で表示されている。そのほとんどに、確かに日高さんの姿があった。友達とふざけあう姿、真剣に作業する横顔、そして、一瞬だけ見せる、ふとした憂いの表情。
「お前の写真は面白いよな」
三上先輩はマウスを操作し、一枚の写真を拡大した。
それは、体育祭の準備中、一人で倉庫の片隅に佇む日高さんを望遠レンズで捉えた一枚だった。クラスメイトたちの喧騒から切り離された彼女は、いつも見せる太陽のような笑顔を消し、どこか遠くを見つめていた。その表情には、僕だけが知る、微かな影が落ちている。
「ただ綺麗なだけじゃない。可愛いだけじゃない。被写体が隠してる『嘘』とか『本音』みたいなもんが、滲み出てるっつーか。……時々、残酷なまでに、な」
残酷、という言葉が、冒頭の悪夢と重なって胸に突き刺さった。
「こいつ、本当に笑ってんのかな」
三上先輩の独り言のような呟きに、僕はドキリとした。
そうだ。僕が日高さんを撮り続ける理由は、そこにあるのかもしれない。彼女の完璧な笑顔の裏側に、何か別の感情が隠れているような気がしてならないからだ。まるで、精巧な仮面を被っているような。その仮面の下にある本当の顔を、このレンズなら写し出せるのではないか。そんな、独りよがりな期待を抱いてしまうから。
「ま、ほどほどにしとけよ。ストーカーで訴えられても知らねーからな」
「……してません」
軽口を叩いて部室を出ていく三上先輩の背中を見送りながら、僕はもう一度、画面の中の日高さんを見つめた。
彼女の隣には、いつも藤堂蓮がいる。バスケ部のエースで、モデルのような長身と爽やかな笑顔を持つ、絵に描いたようなイケメンだ。日高さんが太陽なら、藤堂は彼女の光をさらに輝かせる月のような存在。二人が並んで歩いているだけで、そこだけ少女漫画のワンシーンのように華やいで見える。
クラスの誰もが、二人は付き合っていると信じて疑わない。もちろん、僕もその一人だ。お似合いすぎる二人の姿は、僕のような日陰の住人にとっては眩しすぎて、直視することすらためらわれる。だから、ファインダー越しに盗み見るのが精一杯だった。
そんな、決して交わるはずのなかった僕と彼女の、いや、僕と「太陽と月」の運命が、思わぬ形で交錯したのは、その日の放課後のことだった。
「――じゃあ、文化祭実行委員の装飾係、まだ決まってないんだよな。誰かいないかー?」
ホームルームの終わり。担任の気の抜けた声が教室に響く。文化祭まであと一ヶ月。クラスはすでに浮き足立ち、各々が企画の準備に盛り上がっていた。実行委員なんて面倒な役職、誰もやりたがらない。案の定、教室はシーンと静まり返っていた。
僕はもちろん、手を挙げるつもりなんて毛頭ない。装飾なんて、センスの塊みたいな人間がやるべきだ。僕が関われば、きっとお通夜みたいな飾り付けになるに決まってる。
早く決まってくれ、と心の中で念じながら息を潜めていると、不意に隣の席の女子が僕の腕を肘でつついた。
「ねえ、夏目くん、写真部なんでしょ? デザインとか得意そうだし、やれば?」
「え」
突然話を振られ、心臓が跳ねた。僕と彼女は、このクラスになってから一言も話したことがないはずだ。
「そうだよ! 夏目くんの写真、すごくいいって評判だし!」
「ナイスアイデア!」
一度火が付くと、クラスの空気は一瞬で燃え広がる。「夏目なら安心」「他にいない」という無責任な賛同の声が、僕を逃げ場のないステージへと押し上げていく。やめてくれ。僕にそんな大役は務まらない。
断るタイミングを完全に失い、顔面蒼白になっている僕の耳に、天使のような、それでいて悪魔のような声が届いた。
「じゃあ、私もやろうかな。夏目くん一人じゃ大変だろうし」
声の主は、日高咲だった。
彼女がにっこりと笑いながら手を挙げると、クラス中から「おぉー!」という歓声が上がる。
「日高さんがやってくれるなら百人力だ!」
「マジか! じゃあ俺も!」
その声に続いたのは、もちろん藤堂蓮だった。彼が手を挙げたことで、この面倒な係の価値は一気にプラチナチケットへと変わる。結果、僕と日高さんと藤堂、そして日高さんの親友でしっかり者の宮下澪さんの四人が、装飾係を務めることになった。
……最悪だ。
いや、ある意味では最高の布陣なのかもしれない。だけど僕にとっては、公開処刑を宣告されたのと同義だった。太陽と月、そしてその側近に囲まれた、しがない日陰の石ころ。どう考えても場違いすぎる。
その日の放課後。第一回の装飾係の打ち合わせが、空き教室で行われた。
机を向かい合わせに並べ、日高さんと藤堂が隣同士、その正面に澪さんが座り、僕がその隣、という席順になった。自然と、僕の正面には日高さんが座ることになる。
「えーっと、まずはテーマ決めからだよね! 何か案ある人ー?」
仕切り役を買って出た日高さんが、明るくそう言った。藤堂がすかさず「日高のセンスに任せるよ」と返し、二人の間で楽しげな空気が流れる。澪さんは手元のノートに何かを書き込みながら、冷静に二人を見守っている。
僕は、ただただ息を殺し、石ころに徹することしかできなかった。
「夏目くんは、何かアイデアある?」
不意に、日高さんが僕に話を振った。キラキラした瞳が、まっすぐに僕を捉える。近すぎる。太陽が、近すぎる。光が強すぎて、目が眩みそうだ。
「……いや、と、特に……」
「そっか。じゃあ何か思いついたら、いつでも言ってね!」
彼女は気を悪くした様子もなく、そう言って笑った。その屈託のなさが、僕には余計に眩しかった。
どうして、僕なんかに話を振るんだろう。僕と藤堂では、あまりに対応が違いすぎる。彼女の優しさは、時に無自覚な刃となって僕の心を抉るのだ。
その時だった。
日高さんが身を乗り出した拍子に、机の端に置いてあった彼女の生徒手帳が、床に滑り落ちた。パタン、と軽い音を立てて開いたページが、僕の足元で止まる。
「あ、ごめん」
僕は咄嗟にそれを拾い上げようとして、固まった。
開かれたページには、一枚のプリクラが貼られていた。
制服姿の日高さんと藤堂が、顔を寄せ合い、楽しそうに笑っている。二人の間には、手書きの文字で「ずっと一緒」と書かれ、ハートマークが添えられていた。
それは、僕が抱いていた「二人は付き合っている」という確信を、動かぬ証拠として突きつけるものだった。
心臓が、冷水を浴びせられたように冷えていく。
わかっていたことじゃないか。何を今さらショックを受けているんだ。
「夏目くん?」
僕が固まっているのを不思議に思ったのか、日高さんが首を傾げた。僕は慌てて生徒手帳を拾い上げ、乱暴に閉じて彼女に突き出した。
「……どうぞ」
「あ、ありがとう」
僕の無愛想な態度に、彼女は少しだけ戸惑ったような顔をした。
もう、ここにはいられない。息が詰まる。
「……すみません、俺、部活があるので、今日はこれで」
「え、あ、うん……」
僕は一方的にそう告げると、逃げるように教室を飛び出した。背後で誰かが僕を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返る余裕はなかった。
部室に駆け込み、荒い息を整えながらカメラバッグを掴む。
こんな日は、写真を撮るに限る。無心でシャッターを切っていれば、余計なことを考えずに済む。僕は宛もなく、夕暮れの街へと足を向けた。
(何を期待してたんだ)
自嘲の笑みが漏れる。
日高さんが僕に優しくしてくれたから? 実行委員で一緒になれたから? それで、何か変わるかもしれないなんて、一瞬でも夢を見てしまったのか。馬鹿馬鹿しい。
彼女が貼っていたプリクラが、脳裏に焼き付いて離れない。「ずっと一緒」。その言葉が、僕と彼女の間にある、決して越えられない壁の分厚さを物語っていた。
僕は、ただのクラスメイトA。
彼女の人生の物語においては、名前も与えられないエキストラだ。
それなのに、僕は彼女の何を撮ろうとしていたんだろう。仮面の下の素顔? 残酷な真実?
違う。
本当は、ただ、僕だけに向けられた笑顔が欲しかっただけだ。
そんなありもしない幻想を、ファインダー越しに追い求めていただけなんだ。
気づけば、僕は学校近くの跨線橋の上に立っていた。夕日が街を茜色に染め、線路がどこまでも続いている。僕はカメラを構え、ファインダーを覗いた。ガタン、ゴトン、とリズミカルな音を立てて、電車が通り過ぎていく。
その瞬間、ファインダーの端に、見慣れた人影が映り込んだ。
日高咲だった。
彼女は一人で、僕とは反対側の歩道に立ち、沈みゆく夕日をじっと見つめていた。
いつもの友達も、そして藤堂もいない。たった一人。
その横顔は、僕が知っているどの彼女とも違っていた。笑顔はなく、かといって悲しんでいるわけでもない。ただひたすらに空っぽな、感情の色が抜け落ちたような表情。まるで、世界から自分だけが取り残されてしまったかのような、途方もない孤独を滲ませていた。
僕は、息を呑んだ。
これだ。これこそが、僕がずっと探していた、彼女の『本当』の一欠片なのではないか。
指が、勝手にシャッタースピードと絞りを調整していく。心臓の音が、電車の通過音よりも大きく響く。
撮りたい。この一瞬を、切り取らなければ。
僕がシャッターボタンに指をかけ、息を止めた、その時。
不意に、彼女がこちらを振り向いた。
僕の存在に気づいたのか、その大きな瞳が、驚きに見開かれる。
まずい。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
僕の指は、無情にもシャッターを押し込んでいた。
カシャッ。
乾いたシャッター音が、夕暮れの空気に吸い込まれていく。
ファインダー越しに、僕と彼女の視線が、確かに交わった。
彼女の唇が、何かを形作ろうとして、わずかに開く。
その表情は、僕があの悪夢で見た、憎しみの色とは違っていた。
もっと、ずっと複雑で、見たこともないような、深い色をしていた。
それは、まるで――。
――どうして、あなたなの?
声にならない声が、ファインダーの向こうから聞こえた気がした。
僕と彼女の長い長いすれ違いは、この一枚の写真から、残酷なほど鮮やかに始まってしまったのだった。