第80話 新生活の下準備で目が回る。
早朝から実家を出た私達。
自転車に乗って新しい住居へと向かった。
「荷物の運び入れだけで良かったの?」
「ああ。どうせなら家具の配置は自分達で考えたいしな」
「それで」
会話にもあるとおり、引っ越しの荷物を玄関先まで届ける手配に切り替えた。
明君も言葉ではそう言っているが本音は別にあると思う。
いくら厳重に調査したとしても侵入される時は侵入されるから。
私達の新居へと他人が入る事は正直嫌だったようだ。
「しかしまぁ咲との新生活に待ったをかける間男が現れるとは」
「本当だよね。間男、死すべしだと思うよ」
早朝の空気は清々しい。
だが、私達の心は曇り空だった。
就寝前に瑠璃から報されたゴミ虫の釈放話。
お陰で眠る事すら出来なくなった。
眠れないので私のベッドでスキンシップに励んだ。
それは二人で抱き合って、長いキスをしただけだ。
「そういえばキングサイズベッドはどうなったんだ?」
「それ? 父さんの判断で処分されたみたい」
「処分? どういう事だ?」
「理由は分からないけど、明君のベッドで寝なさいって事じゃない? 宿でも同じ布団で寝ているから」
「それでか。就寝中の咲の抱き枕になる覚悟だけしておくか」
ちょ!? 抱き枕ってなに?
私、寝ている時ってそういう状態なの?
内心では焦ったが平静を装って問いかける。
「明君? それはどういう意味?」
「咲は気づいていないが、眠っている時の咲はエロくなる」
「……」
そう言われて、どう反応していいか、分からない。
「宿だと裸のまま抱きついてきた。言葉では言えない体勢にもなった」
「ボフッ」
それだけで身体中が熱いよ。
とっても恥ずかしくて。
「冗談だけど」
「冗談!?」
「後半だけな。抱きついてきたのは本当だが」
もう、ビックリしたぁ。
私は笑顔を意識して隣から脇腹を抓る。
「明君? 心臓に悪いからそういう冗談は止めてね?」
「痛っ! わ、悪かった。すまん」
この冗談も重苦しい空気を払拭するために行ったようだけど。
彼女さえも利用するって何なのだろうか?
「さて、ここからは沈黙な」
「え? どういう……あっ」
私は明君の言った言葉の意味が分からなかった。
だが、周囲を見回して納得した。
「アイウェアは着けておけよ。顔がばれると面倒だ」
「うん、分かった」
私達が通っているルート。
高級住宅街から出て直ぐが問題だった。
(我起家が近かったね……この先を抜けて直ぐ)
我起家は資産家ではないが顔役の立場を持っている。
一方の言祝家は詳細情報が取得出来ない謎の家だった。
この両者がどのような経緯で繋がったのかお爺さまも首を傾げていた。
単に言祝のババアが我起家の男と再婚した事がきっかけなんだけどね。
類友な空気感を持っていたから繋がったのだろうけど。
(あ、ハンドサイン)
それは、障害物ありの指示だった。
つまり、
(いやー! 居たし! だからか!)
私達の会いたくない人物が居る事に気づいた。
幸い、私達が自転車に乗っている姿は覚えられていない。
(気づかれる前に通り抜けるっと)
ちなみに、李香ちゃんの元婚約者は何らかの更生施設に入ったらしい。
可能なら陽希のバカもそこに入れてもらいたいよね?
更生が出来るか分からないけど、一生施設に居てほしい。
「なんだ? チャリカスかよ」
カチンときたけど我慢我慢。
ゴミにカスと言われてイラッとしたけど我慢した。
ゴミ虫の前を通り抜け、道を右へ左へと曲がっていく。
このルート選択は追跡を逃れるためらしい。
私は追跡者達が居たと知って問いかけた。
「私達って追跡されていたの?」
「いや、居ると仮定しただけな」
警戒して選んだルートだったらしい。
「新しい住居を知られると面倒だろ」
「確かに」
奴なら突撃したり嫌がらせをしたりするだろう。
それが法律違反でも俺様ルールでは問題ないと繰り返すはずだ。
ただね、なんでこんな事になったのか?
それだけが不可解だった。
「私達と言祝、我起って因縁でもあるのかな?」
「さぁ? 親世代よりも上であった可能性はあるが」
「お爺さまも知らないから、そこよりも上かな?」
「多分な。ただ、あのゴミ虫だけは別物だろう」
「あ、奴のつぶやき、聞こえていたんだ?」
「嫌でも聞こえるって。閑静な住宅街だぞ」
明君が苛立ち気に吐き捨てた。
そもそも、あそこに一人だけ突っ立って何をしていたのやら?
しかも早朝に立っていた事が不可解だった。
「意外と咲の実家に侵入しようとしていたりして」
「え? あ、でも、奴ならやりかねないね」
明君の言葉が妙にしっくりきた。
私はスマホを取り出して実家に連絡を入れた。
「あ、私。今着いた。それと、途中で不審者が居たから、あの子達を庭に放っておいて。うん。明君の想定でね、そう。入り込む可能性があるから」
相手は父さんだ。
不審者と聞いて理解したのは驚きだけど。
あの子達というのはウチの番犬、警察犬だったワンコ達。
滅多な事では庭に放たないが、今日は久方ぶりの出番になったね。
なお、普段はお爺さまの家の庭でのびのびと過ごしている。
今日は学校の後にお肉を届けてもらおうかな? 捕まれば、だけど。
私達は自転車を押してエントランスに入り、部屋番号を押す。
「お義父さんはなんて?」
「どうも釈放の事を知っていたみたい」
自動ドアが開くと明君のスマホに通知が入る。
それは何らかの許可証だった。
もしかして鍵かな?
「柏餅ですら知っているもんな」
ドアが閉じた後、明君は昨晩の話を語りながらポストに向かう。
「地元のニュースで流れたかな?」
「多分な」
ポストの前で許可証の番号を打ち込んで開いた。
ポストに何かが入っていると通知が届くんだ。
開けるには任意の番号が必要と。
「えっと、こちらもカードキーか。予備も含めて三枚っと」
「それって家の?」
「そうだな。一枚は咲に手渡しておくな」
「うん、ありがとう。ところでポストのそれは?」
「最初だけ送られてくる専用鍵だな。以降はこのカードキーで開けられるみたいだ」
「へぇ〜。それなんて便利だね。落とすと危険だけど」
「そうでもないぞ。この欄に指紋を登録するようになってるから、こうやって」
「え?」
そこには指紋が二つ登録出来る空欄があった。
左と右の文字が書かれていて主と副を兼ねているようだ。
「登録者以外は使えない仕組みだな。予備は家族の誰かに渡しておくしかないが」
「防犯設備が本格的過ぎて恐いね」
「分かる」
だけど今の私達の立場を思うと過剰でも安心かもしれない。
自転車を押したままエレベーターへと入る。
「引っ越し業者だとどうなるの?」
「管理人室で臨時許可証を発行してもらうみたいだな。逐一出入りが監視カメラで記録されるから、悪事を働けば顔写真と共に通報されるようだ」
「恐っ」
最上階へと向かう間はマンションの決まりなどを聞いていった。
大まかな決まりは前のマンションと大差なかったけどね。
最上階に到着すると荷物はまだ届いていなかった。
「今が早朝だから」
「それもあるな。開けるぞ」
「ところで隣家は?」
「まだ居ないな」
「そうなんだ」
最上階の部屋数は五部屋しか無かった。
玄関の間隔から分かるのは大きな家って事だよね。
「二人暮らしには広すぎない?」
「ホームパーティー仕様でもあるんだろう」
「あ、それで」
それだけで納得出来たよ。
私達は鍵を開けて室内に入る。
玄関は広く自転車を置くスペースまであった。
「ロードはそこに置けばいいのか」
「専用置き場もあるって凄いね?」
「ああ」
工具などを置く場所もある。
洗浄スペースまで完備だった。
(どう考えても明君のために建てられた建物に思えてならないよ?)
表向きは分譲する事になっているけど、どうなんだろう?
続いて廊下を進むと照明が点いた。
「自動照明?」
「最新式だな」
奥に進むとブラインドも勝手に上がっていく。
「人感センサー付きか」
「か、家具が揃ってる?」
「据付型かもな。電化製品も同じだわ」
「とんでもないね」
「ああ。停電時は蓄電池から供給されるみたいだな」
「そうなんだ」
御令嬢な私でも呆気にとられる室内の様相。
リビングは広く、部屋数はそれなりだった。
「ここは子供部屋? 収納型の間仕切りがあるけど」
「そうかもな。何人産ませるつもりで居るのやら?」
「私、頑張るね」
「今から気負うなよ」
「うん、大丈夫」
私達の寝室には書斎的な空間もあった。
トイレは男女別、脱衣所とは別に洗面所もあった。
お風呂は広く、
「露天風呂っぽいな」
「だね。天窓付きでガラス張りと」
「咲の裸、思い出してしまったわ」
「そう? もっと思い出していいよ?」
「急にオープンになるなよ」
「てへっ」
現実逃避したくなるくらいの空間だったから。
最後はバルコニーに出て景色を眺めた。
「あの山の奥が学校だね」
「そうだな。割と近くなったか」
「そうかも」
ただね、私の記憶が確かならこの辺りは。
「朝帰り、楽しかった!」
あ、当たりだった件。
「おい、超音波が真下から響いてきたぞ?」
「うん。この辺は瑠璃の地元だね」
「おぅ」
そういえば随分前に家の近くにマンションが建っていると騒いでいた。
私も彼氏と住みたいとかなんとか言っていたよね。
建築業者は白木、土地を売ったのは優木家だ。
オーナーが噂の凪倉。
オーナー名は表沙汰にはなっていないが。
「多分、瑠璃が遊びに来るかもだけど、いいよね?」
「アレクがもれなくついてくるだろうから」
「許可してもいいよね?」
「今回ばかりは仕方ない」
実際に来るかどうか、それはまだ分からないけど。
バルコニーから室内に戻った私達は寝室で着替えた。
「いきなり素っ裸かよ」
「てへっ」
着替えは実家で洗ってきた私服だ。
誰かに出くわす可能性を考えて下着は身につけた。
「ブラはそうやって着けると」
「そうだよ。外し方だけ覚えないでね」
「善処します」
パンツを穿いてジーンズを穿く。
上は無地の長袖シャツを着ておいた。
「今日は片付け後に汚れるからな」
「うん。動きやすい服装がいいよね」
明君は何故か作務衣だった。
「似合い過ぎでしょ」
「そうか? 俺の作業着なんだが」
作務衣、似合いすぎ問題発生か。