第76話 一緒に居たいから我慢する。
およそ三日間の別行動。
それは私の心に過剰な不安を抱かせた。
初日は会長達との女子会で不安が払拭出来たが、二日目以降は辛すぎて何もやる気が起きなかった。
食事だけは作り置きがあったので朝昼晩と三回に分けて食べた。
一人の食事に慣れていた私も、この時は味が感じられなかった。
(明君と一緒に居る事が当たり前になっていたのかも)
寝る時も大きすぎるベッドが不安を掻き立て、下着姿のまま明君の部屋へと潜り込んだ。
ベッドから落ちる不安もあったが、明君の残り香のお陰か落ちることなく朝まで寝られた。
それだけでなくベッドの上で繰り返し慰めた。
残り香だけで妄想して慰めたのだ。
その行動はとても恥ずかしく合宿中の明君には教えていない。
(怒られるしね。人のベッドで何をやっているって)
学校への登下校は会長達が一緒に行動してくれた。
危険人物が建物周辺に現れるかもしれないから。
本家からも複数の警備員を寄越してもらった。
こちらが警戒しているからか該当人物達が顔を出す事はなかった。
帰宅後は広すぎる部屋で時間を潰した。
耐えられなくなってお風呂に逃げた。
(お湯に浸かって、ボーッとして)
時にカラオケ代わりに歌ってみたり。
頭がボーッとするギリギリまで入ったり。
ボケッとしたまま外に出ると明君が立っていた。
一瞬、夢と思ったがきょとんとしたまま目が泳いでいたので本人だと気づいた。
そこからは感情が溢れてきてはっきり覚えていない。
唯一覚えているのは裸で抱きついた事だけだ。
(なんて格好で抱きついたのよぉ。私のバカバカバカ!)
明君に抱きついて形を変えた濡れたままの胸。
胸より下……自身の状態を思い出して恥ずかしくなった。
咄嗟に胸と股間を隠して反対を向いて屈んだ。
明君は脱兎の如く脱衣所から出た。
そのまま出て行くと恥ずかしかったので、シャワーで水浴びした。
お風呂から出たあとは明君の部屋から声が響いたので聞き耳を立てた。
旅行に行くと言ったため、喜びから室内に入った。
ただ、明君がお風呂に入ると言った時、思い出すよね。
それだけでなく、お礼まで言われてしまったし。
(胸とお尻だけ……だったのは少し惜しいけど)
本当に見て欲しい場所は何故か見られていなかった。
私はもう一度、見てもらおうと思って脱衣所に向かった。
何故かホットパンツの下にパンツを穿いていなかったから。
『咲は何がなんでも大切にしないと。俺にとって大事な女性だしな』
明君が呟いている声が聞こえてきて嬉しくて腰が抜けてしまった。
パンツを穿く事がどうでも良くなり、リビングに這って移動し、ずっと反芻した。
「ふふっ」
本当に、本当に嬉しかった。
私にとっても明君は大事な男性だ。
夕食は明君の成分がたっぷり入ったお好み焼きだった。
成分というより愛情だね。
作り置きもいいけど手製が一番だから。
夕食後は明君が宿を探していて、少し距離はあるが手頃な宿を手配してくれた。
そこは家族風呂が部屋毎に設置されている宿屋だった。
(おそらく、私の気持ちを考えて選んでくれたのかもね)
混浴はなくてもいいけど、人様に見られたいとも思わない。
先ほどの遭遇もそうだけど明君になら裸を見られてもいいから。
(本当は恥ずかしいけれど)
その日の夜は別々に寝る事はせず、
「狭くないか?」
「大丈夫だよ。明君の匂いがする」
「臭くないか?」
「好きな匂いだから大丈夫だよ」
「そ、そうか」
明君と一緒のベッドで横になった。
§
翌日は早朝から明君が働いていた。
「ここを外して、これは交換か。交換部品は……っと」
違った。
玄関先に自転車を持ち込んでビニールシート上で分解していた。
なるほど、自転車の整備は自分で行う必要があると。
よく見ると、洗ったような跡もあり、
「何をしてるの?」
「洗浄と分解だな。かなりの距離を走ったから」
私が問いかけると作業をしつつ応じてくれた。
「それって何処から?」
「ん? 合宿していた県から」
「は? あんな遠くから?」
「そうだな」
「電車は?」
「行きだけは輪行だったが、帰りは乗って帰ってきた」
えっと、結構な距離があるよ?
それを自転車だけで移動してきたの?
「インターハイもあったからな。混雑して帰りが遅れるよりはいいと思ったんだ」
「で、でも、危なくなかったの?」
「咲に会いたくて急いで帰ってきたから、気にしていなかった」
「そ、そうなんだ」
それを聞いた瞬間、ドキッとした。
それと……とっても嬉しかった。
すると私達の背後から声がかかる。
「朝から熱々ね」
驚きながら振り返ると会長が居た。
「会長!」
隣には存在感の薄い兄も居た。
「なんだ。兄さんも居たの」
「妹が酷い」
私の兄は若い頃の父さんとよく似ているらしい。
イケメンではあるが、明君には遠く及ばない顔立ちだ。
妹目線だからそう思うだけだと母さんは言うけどね。
「会長は朝帰りですか?」
「凪倉君。朝帰りとか失礼よ」
「いえ、昨日は留守でしたよね? 李香も帰省してますし」
「ノーコメント」
「で、兄さんどうなの?」
「俺に聞くか普通?」
「いや、言わなくても知ってる」
「何故、聞いたし」
朝から二人揃って着飾っていればね。
私と明君はジャージ姿のまま。
会長はドレス姿でスーツ姿の兄さんの隣に立っている。
すると明君が、
「ご結婚おめでとうございます」
作業しながら、お祝いの言葉を口にした。
つまりはそういうことね。
「そこは普通に祝ってくれないの? 片手間に祝うとは思わなかったわ」
「それはすみません。ご祝儀でしたら玄関のポストに入れていますよ」
「そういう物は手渡しでしょうに?」
「大丈夫ですよ。きちんと奇数で入れていますから」
「そういう事ではないのだけど?」
「日焼け止めの友達の紹介状も」
「うっ」
本当は会長の誕生日に婚姻することになっていたが、兄との予定が嚙み合っていないため、披露宴だけ前倒ししたらしい。
婚姻届は会長が一人で提出するそうだ。
挙式は届けたあとに会長が渡航して二人だけで行うらしい。
「挙式のあとにでも尋ねてみてください」
「え、ええ。分かったわ」
私も妹として披露宴に列席する必要があったが固辞した。
昨晩は明君との時間を優先したかったし。
「ということで、今後は義姉さんと呼ばせていただきますね」
「む、むず痒いわね。というか……いつ知ったの? 私の事」
それを聞かれた私と明君は目配せして答えた。
「「バルコニーでの国際電話ですが、何か?」」
「は? はぁ!?」
その時点で関係を知った。
その後、しばらくの間は黙っておいた。
李香ちゃんの一件もあったしね。
披露宴の列席を固辞した理由もそこにある。
「兄さんが召し上がっていたと知った時は複雑だったけど」
「あれは複雑だったな。良く知る人物が良く知る人物で喘いだとか」
「こ、ここで生々しい事を言わないで!」
「「当事者が何か言ってる」」
「ぐぬぬ」
「兄さん。会長のお尻、大きいよね」
「そ、そうだな」
「存分に敷かれてね?」
「お、おう」
私が出来るお祝いはこれくらいだった。
「整備完了っと」
「整備ってロードバイクの整備だったのね」
「なんだと思ったんですか?」
「バスケットのゴール」
「何故そうなる」
会長は明君に意趣返ししていた。
時間が時間なので兄と一緒に家へと入った。
当分の間は会長の家で過ごして留学先に戻る予定なのだろう。
「このまま十回戦目かな?」
「多分な。会長のスタミナも凄いし」
「兄さん、干からびて倒れないでね」
『そんなにやっていないわよ!』
「まだ玄関先に居たのか?」
「居たみたいだね?」
この内廊下は無駄に声が響くから仕方ないね。
「俺にとっても義理の姉になるのか」
「そういえばそうだね」
分割した自転車を担いだ明君は私と一階に降りる。
男嫌いの出勤前なので早々に片付けて帰った私達だった。
§
その日の午前中。
宿泊準備を済ませて一階に降りる。
「荷物ってこれだけでいいんだ」
「あまり載せられないからな。歯ブラシなどはアメニティでも代用も利くし」
「確かに」
二人で自転車に跨がって明君の先導で出発した。
「とりあえず、駅まで移動するぞ」
「分かった!」
駅に着くと慣れた手付きで自転車を分割する明君。
私もお願いして分割してもらった。
これも一人で出来るようにならないと。
「切符を買ってきたから、今のうちにトイレ行っておけよ」
「分かった。自転車よろしく」
「おう」
明君と離れてトイレに駆け込む。
少々手間取るけど不慣れだから仕方ないよね。
トイレから出ると明君が何か食べていた。
「戻ったよ」
「今のうちにこれ食っとけ」
「これは?」
「補給食の羊羹だ」
「ほ、補給食?」
なんでもそれを食べておかないと辛い事になるらしい。
自転車は有酸素運動でもあるそうで直ぐに空腹になるようだ。
「だ、ダイエット向き?」
「そうかもな」
「お尻が気になっていたから痩せるかな?」
「気になっていたのか」
「うん」
肥らない体質なのにお尻に贅肉が付いていたのだ。
これは幸せ太りなのかなって思ったりもしたけどね。
本当は助っ人を止めた事でカロリーの消費が出来ていなかった事が要因だった。
「それなら、自転車は最適かもな」
「そうなんだ」
「ま、最初は尻が痛くなるけどな」
「え?」
クッションがあるのに痛くなるってマジ?
(これは覚悟を決めておいた方がいいかも)
明君が言うなら間違いないし。
電車での移動はずっと立ちっぱなしだった。
自転車を畳んで持ち歩く。
高価な品でもあるので側から離れられなかっただけね。
宿では部屋への持ち込みが可能だから問題ないそうだけど電車は不特定多数の人間が乗り降りするので油断出来ないとの事だ。
「次、乗り換えな」
「分かった」
自転車を担いだまま別の電車に乗り換える。
重労働と思ったけどこれはこれで思い出になるね。
しばらくすると降りる駅が近づいてきた。
「そろそろ準備しようか」
「うん!」
電車を降りて自転車を担いで外に出る。
組み立てて二人で跨がった。
「ここからずっと走りだからキツかったら言ってくれ」
「分かった」
出発前は軽く考えていたけど本当にキツかった。
(お尻痛い!)