第3話 味方で居続けてもいいよね。
最上階にある自分の家に帰った私は制服を脱ぎ捨て、下着姿のまま寝室のベッドへと飛び込んだ。掛け布団を抱き枕のように抱き締め、キングサイズベッドの上でごろごろと何度も転がる。
「こ、このマンションに明君が住んでいたなんて……」
私は始業式のあった本日。
クラスの問題児こと凪倉明君が一階の管理人室で生活していた事を初めて知った。彼が住んでいた期間は高校入学と同時。
およそ一年間、一階にて過ごしていたらしい。
「うぅ……一年間、無駄にしたぁ。なんで、通学時間が私よりも早いのよぉ」
私は本気で一年間を無駄にした気持ちになった。
「近くに居たのに……学校では仕方ないとしても、夏季休暇だってあったのに」
この一年は思い返すだけで様々な出来事があった。
「なんで、なんで、気づかないのよ。私のバカァ!」
そのどれもが楽しいと呼べる学内行事だった。
だが、私の心には常にぽっかりと大きな空白が出来ていて本気で楽しめていなかった。
「だって、そこには大好きな彼が居なかったもんね。なんで、休むかなぁ」
彼が休むに至った理由は私も原因だから仕方ないと言えば仕方ないのだが、
「これも彼に貼られた不可解なレッテルの所為だよね。どうしてあんな事になっているのよ」
他の言葉を選べなかったのかと当時の私は帰宅して悔し涙を流したほどだ。
§
私は不意に過去を思い出す。それは中三の夏の出来事だった。
当時の私は中高一貫で全寮制の女子校に通っていた。
それは夏季休暇で帰省した当日の事。
『公立芦河高校の入試に明君が臨むそうだよ』
彼の両親が私の両親を通じて教えてくれたのだ。
『え!? 明君が帰国していたの?』
『ああ。帰国自体は昨年の春だったか?』
『昨年ね。二人が問題案件を片付けて本社勤務に戻ったのよね』
『さ、昨年? 中二の時点で戻っていたの?』
『そうなるかな?』
『なんで教えてくれないのよぉ!』
『仕方ないでしょ。私達も忙しかったし』
『余程の事がない限り、家族の出入りが許されない御嬢様学校だったからな』
『うっ』
私の両親と彼の両親は大が付く親友同士。
酸いも甘いも経験した心からの親友同士だ。
私と彼は四才の別れまで一緒に遊んでいた一種の幼馴染だ。
当時の私は泣き虫で、彼から護ってもらっていたんだよね。
別れの日は両親の仕事の都合で見送る事が出来なかった。
でも、時々送られてくる近況報告のビデオレターで元気な姿を知る事は出来た。
元気に育つ彼を見て私も負けてられないと勉強と運動を精一杯頑張った。
『明君はある意味で偉業を成し遂げたな』
『本当にね。今思うと清花達の英才教育のお陰かしら?』
『だろうな。瞬間記憶術とか語学術とか脳が柔らかい内に覚えさせたらしいから』
『二人の地頭も私達がアホらしくなるくらい優秀だものね』
『ああ。遺伝のなせる技だろうな、きっと』
この時の両親の言葉の意味は分からなかったが負けてられないと自負したのは確かだ。それから時が経ち、私は小四の時点で身体が女としての成長を始めた。
先ずは胸が育ち始め、経血で染まったパンツを男子に見られてからはずっと揶揄われ続けた。クラスの女子達も味方にこそなったが、揶揄う相手が意中の相手だったため強く出なかった。小学六年生の時点で揶揄う男子達の気持ち悪い視線が本気で嫌になり中高一貫校を受験した。
小学校卒業と同時に瑠璃以外の友達との縁を物理的に切った。
というか瑠璃も同じ学校を受験して通う事になったのだけど。
状況が変化したのは先にあった通り、中三の夏季休暇にあった。
私は即座に外部受験を決め、学年主任の猛反対を受け流しながら願書を提出した。私が外部を受けると知った瑠璃も同じく提出したのよね。
あの子は女子しか居ないウザい空間に飽きたとか言っていたけども。
女子校の雰囲気自体は大変良かったが、
『同性愛な先輩しか居ないの、なんで?』
『さ、さぁ?』
女子しか居ないから色んな意味で残念な現実を思い知らされたね。
男子の視線が嫌で逃げてきたのに内部は百合真っ盛りだったから。
ノンケと言いつつ瑠璃と逃げ、瑠璃と盛り上がっていると思われた時はげっそりした。
甲高い声の親友とそんな状態になるなんて有り得ないから。
あの子は私を男共を集める誘蛾灯としか思っていないから。
それを親友と呼んでよいのか不明だが、私も明君の代わりとしているので受け流しているのだ。様々な相談事をする時は瑠璃に問えば間違いない返答をいただけるしね。
唯一、間違いだらけの返答は明君に関する事だけ、なんだけど。
『は? 無い無い。あの男は無いよ』
『どうしてよ?』
『私も会って無視されたから』
『は? あ、会ったって?』
『小学校の友達と遊んでいた時にちょっとね』
瑠璃に聞いた明君の噂。
それは私の心が怒りで沸き立つ噂だった。
たばこを吸ったとか、喧嘩で相手を病院送りにしたとか。
クラスの集金袋の中身を盗まれて使い果たしてしまったとか。
教師もそれに乗っかって更生させてやると息巻いていたとか。
唯一の例外は不良のはずなのに偏差値が過去最高だったらしい。
生活態度も表向きは優良児。一見すると問題児とは思えなかったらしい。
だが、裏で何をやっているのか恐ろしいと思う者達が多かったようだ。
『で、何処で会ったのよ?』
『駅前? ちょっとした不良なら格好いいと思って声をかけたの。実際に背格好も良かったし。顔は普通でもいけると思うじゃない。で、逆ナンしてみたらさ、ガン無視されたんだよ。私って結構可愛いのにね?』
『そ、そう』
自分で可愛いというあざとい仕草には寒気がしたが明君の顔は普通ではないと思うな。惚れた弱みではなく私の母さんですら惚れてしまいそうと言って父さんの頬を引き攣らせているのだから。
高校入試は私達が推薦だった所為で彼と出くわさなかった。
私が明君と再会したのは入学式の当日だった。
『おい、見ろよ』
『なんでアイツが』
入学時点で複数の尾ひれが付いた明君の噂話が高校の内部にまで浸透していた。明君はそういう態度を取られてもなお、無視を続けていた。
本当なら格好いい容姿なのに、今まで見てきたビデオレターとは異なる容姿に化けていた。猫背ではないにせよ、目元は長い前髪で隠され黒縁の眼鏡で瞳そのものが見えなかった。彼から滲み出る雰囲気は極端に暗く、常時に沈黙を貫いていた。
どれだけ噂されようが知ったことかという傲慢な態度にも見えた。
私が壇上に立って代表挨拶する間も自分の席で寝ていたし。
壇上からだと誰が寝ていて起きているか丸見えだった。
私のクラスは明君と同じだった。
天の配剤かと感謝したが現実は違った。
『久しぶりだね』
『? どちらさん?』
私が勇気を出して問いかけたのにきょとんとして返答されたのだ。
まさか私が忘れ去られていようとは思いもよらなかったよ。
そこからはクラスの雰囲気もあって私も見守る事だけに専念した。
それは面倒事が訪れると瑠璃に注意されたから。
高校でも拡がった悪しき噂。それを信じる先輩達と教師達。
クラスメイトも同じく、最初から居ない者として認識してしまった。
関わると身を滅ぼすと、教師達からもなるべく関わるなと言われた。
腫れ物を扱うように教室内の異物として自主退学するまで待とうと。
それだけ嫌ならば最初から入学させなければ良かったはずだ。
それが出来なかったのは一人の老教師の判断に依るものが大きかったという。
(確か、当時の担任が新任だった頃に今の学年主任から聞いた話だっけ?)
当時、学年主任だった老教師だけが猛反対し補欠合格で妥結させたのだ。
入試の成績は合格点ギリギリ。あと一点低ければ不合格となっていたそうだ。
その際に老教師は言ったらしい『内申書を見るな。子供を見ろ』と。
そして、その老教師は三月末に定年退職したため校内には居ない。
(いや、嘱託職員として用務員になっているんだっけ?)
あれは夏場の昼食時だったかな?
明君が教室の雰囲気を察しつつ一人で出ていった日の事だ。
トイレから出てきた私が興味本位で追跡すると用務員が管理する花壇の脇でぼっち飯をしていたのだ。
近くを見ると用務員の老人が居て、何やら世間話をしているように見えた。
『市場相場はどんなもんかな』
『可もなく不可もなく』
『何処の株が買いだと思う』
『白木。挑戦しつつも危なげない経営手腕は目を見張るものがある』
『ああ、やはりそこが安定しているか』
あれは父さんの会社の事だよね。
高一の男子高校生と老教師の会話は世間話にしては高度過ぎだと思えた。
なのに授業中は無能を演じるように『分かりません』を連呼し、試験の成績は赤点ギリギリで回避していると聞く。赤点になれば単位取得が叶わず学校から追い出せるというのに、追い出せないから難しい問題を用意しようとしたアホな教師も居たのだとか。これは当時の担任から聞いた愚痴ね。
(家庭科の授業なんて班になりたがるクラスメイトが居ないから一人で作って一人で食べていたっけ)
家庭科の先生だけは真面目に受けてくれた事に苦笑していた。
大変手際が良く、先生が気づいた時には完成していて、高得点を付けざるを得なかったらしい。何せ出来上がった料理が私よりも綺麗で上手かった。自炊していると聞かされた時にクラスメイト達が有り得ないと貶していたが料理の実力が高いのは証明されたも同然だった。
家庭科の先生もお腹を壊す事なく無事に生き残ったのがその証拠だ。
別の班では腹痛で運ばれた女子が居たもんね。誰とは言わないけど。
そんな中、二年次のクラス選択を決める時期が訪れた。
私は文系に行こうと話していたが、
『畜生。どっちだっていいじゃないか。なんで理系なんだよ』
不意に聞こえた明君の呟きから理系に変更したのだ。
理系、それは明君の最も得意とする分野だという。
生活指導の先生は苦手と思い込んでそちらを指定したそうだ。
自主退学が早まると大きな声で笑っていたのは滑稽だった。
流石にキレた私は、
『それ、悪手ですよ』
と返すときょとんになったよね。