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断章のセレナーデ  作者: 白鳥毘毘
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5話ー言葉にできない愛

夜の帳がゆっくりと降りてくる。窓の外では、まだ元気な蝉の声が、夏の終わりを惜しむように響いていた。

真理子は、カーテン越しの光の中で、そっと腕をさすった。骨ばった手のひら。乾いた皮膚。この体が、もうそう長くはもたないと、医者からはっきり告げられてから、数ヶ月が経った。

夫がいなくなったのは、まだ春翔が小学2年生だった頃だ。理由はもう、思い出すのも億劫なほど使い古されたものだった。すれ違い。責任感の違い。人生観の食い違い。要するに──置いていかれた、というだけの話だ。

それでも、あのときは「大丈夫」と思っていた。いや、思い込もうとしていた。子どもたちの前では泣かずに、ひとりになったときだけ少し泣いて、また朝が来れば、強い母親を演じた。

だけど、病気は違った。ガンは、役割をこなすだけではごまかせなかった。

抗がん剤の副作用で髪が抜け落ち、食欲がなくなっても、子どもたちの前では帽子を被り、にっこり笑った。「大丈夫よ、ちょっと疲れてるだけ」そう言えば、あの子たちはそれ以上は聞いてこなかった。

心配をかけたくない。──それは本心だった。でも同時に、自分の弱い部分を見せるのが怖かった。

最近、春翔が夜中にこっそり泣いていることに気づいていた。紬も食卓でぼんやりすることが増えた。どこかで、子どもたちも感づいているのだろう。けれど、それでも何も言ってこないのは、きっと真理子に“気を使って”いるからだ。

「この子たちは、優しすぎるのよ」

独り言のように呟いて、ため息を吐く。キッチンの椅子に深く腰掛け、指先でテーブルの木目をなぞる。不意に、胸の奥に冷たい痛みが走った。

「まだ、やれることがあったはずなのに……」

思い浮かんだのは、子どもたちの進路のこと。春翔は受験を控えている。志望校について、ちゃんと話を聞いてあげたことがあっただろうか。紬はピアノを習っていて、コンクールを目指していた。もっと一緒に練習を見てあげたかった。

旅行の約束もしていた。家族3人で、温泉に行こうって。

どれも、まだ果たせていない。

「生きていたかった。もっと……母親でいたかった」

でも、それはもう叶わない願いだ。医師には、緩和ケアへの切り替えを勧められている。生き延びることよりも、痛みなく過ごすことを優先する──そういう段階に、もう来てしまっていた。

自分の命のタイムリミットが近づくにつれ

「この命には、何か残せるものがあるのだろうか」と思うようになってきた。

どうせ死んでしまうのなら、せめて子どもたちに迷惑をかけないようにしたい。自分がいなくなったあとも、二人でしっかりやっていけるように、今できることは全部しておきたい。だからこそ、手紙を書くことにした。

その手紙はまだ完成していない。書いては破り、また書いては迷って、机の中に放り込んである。うまく言葉にできない。「ごめんね」も、「ありがとう」も、どこか他人行儀に見えてしまう。

カタン──部屋の隅で、何かがわずかに揺れた。

風だろうかと思いかけたとき、真理子は気配に気づいた。音もなく、空気がすっと変わる。

振り返ると、そこにひとりの男が立っていた。

銀色の髪。深い黒の外套。人間離れした静けさ。その存在感に、胸がひやりと冷える。

でも、不思議と恐ろしくはなかった。

男はゆっくりと歩み寄ってきた。その瞳の奥には、何かを“見透かしている”ような静けさがあった。

「あなた……死神なの?」

そう聞くと、銀色の髪を風に揺らす青年が、ふっと優しく笑った。

「うん。死神ナイン。……今日、君の選定に来た」

その声には不思議な柔らかさがあった。命を終わらせる存在だというのに、目の奥には、静かな哀しみすら宿っているように見える。

真理子は、小さく息を吐いた。

「……思ってたのと、ずいぶん違うわね。もっとこう……怖いとか、冷たい感じかと」

「そう見えたら、損するしね」ナインは肩をすくめた。

「でも、話しやすそうなら、それでいいんだ」

その軽い口調に、思わず真理子は苦笑する。いつの間にか、緊張が少しだけほどけていた。

「……もう、私は長くないって、自分ではわかってた。 でも、今日がその日だって聞くと……やっぱり怖いものね」

「怖いのは当たり前だよ。どれだけ準備してたって、それだけじゃ心は追いつかない」

ナインはそっと彼女の横に腰を下ろした。まるでそこに座るのが自然なことであるかのように。

「君が、まだやり残したこと……それって、子どもたちのことだよね?」

「……ええ。春翔と紬。まだ言ってないの。私が……もうすぐ死ぬってことも、病気のことも」

ナインは黙って耳を傾けていた。真理子の声は、どこかでずっとためていたものが漏れ出すように、ぽつぽつとこぼれていく。

「最初は、ただ守ってあげたかったの。 変に心配させるより、何も言わずに、できる限り普通の毎日を過ごしたくて……」

「……うん」

「でも最近、ふとした瞬間に思うの。 この子たち、本当に何も気づいてないのかなって」

ナインは、ほんの少しだけ目を細めた。

「たぶん、気づいてるよ。……というか、春翔くんはもう確信してると思う」

「……そう、なの?」

「ただ、君が話すまで待ってるんだよ。怖いけど、向き合わなきゃって、どこかで思ってる」

真理子は目を伏せた。

「……私は、母親としてちゃんとできてるのかな。 この子たちが、生きていけるように育ててこれたのかな……」

「うん、できてる。……って言ってほしいんだよね」

「……そんなこと、言っていいのかしら」

「いいよ。だって、それが君の本音なんだろ?」

ナインの言葉は、どこまでもまっすぐだった。嘘も慰めもなく、それでも優しさに満ちていた。

「君、ずっと一人で頑張ってきたんだろ? 旦那さんのことも……たぶん、いろいろあったんだよね」

真理子は少し目を伏せたあと、うなずいた。

「そっか。……強いんだね、君」

その一言が、胸にしみた。“頑張ってる”とか“すごい”とか言われることはあっても、“強い”って言われたのは初めてだった。

「ほんとはね……もっと、子どもたちのそばにいたかったの。 紬のピアノ発表会も、春翔の模試の結果も……もっとちゃんと見ていたかった。 やりたいこと、いっぱいあったのよ。 朝ごはんを一緒に食べて、文句言いながら学校へ送り出して…… 週末には三人でゲームしたり、買い物に行ったり。 そんな日々を、もう一回だけでいいから──」

声が震えた。こぼれた涙を、彼女はもう拭わなかった。

「ねぇ……ナイン。私、死んでも大丈夫かな。 この子たち、ちゃんと歩いていけるのかな」

ナインは少しだけ空を見上げてから、ゆっくりと頷いた。

「大丈夫。君が思ってるより、あの子たちは強い。 でもそれは、君がちゃんと愛してきたからだよ」

「……本当に?」

「うん。君の声は、ちゃんと届いてる。今までも、これからも」

静かな空気が流れる。だが、その沈黙の中で、真理子の視線が揺れた。

「でも……それだけじゃ、選べないのよ」

「うん。だろうね」

ナインは、表情を崩さず、ただ彼女の声に耳を傾ける。

「死ぬのが怖いわけじゃない。 むしろ、これ以上子どもたちに弱っていく姿を見せるほうが……怖い。 髪が抜けて、肌が乾いて、声も力を失っていく。 最後には、きっと意識もはっきりしなくなる。 ……そんな母親を、見せたくないの」

「わかるよ」

「だけど、じゃあ今、私が死ぬって決めるのは、ただの“逃げ”なんじゃないかって……」

彼女は指を組み、俯いた。テーブルの木目が滲んで見えるほど、視界が揺れる。

「自分の限界から、逃げようとしてるだけじゃないかって。 “選ぶ”って言葉を隠れ蓑にしてるだけじゃないかって。 そんな自分が、嫌なの」

ナインは、ほんのわずか眉を動かした。

「……でもね」

「ん?」

「“逃げたくない”って思えてる時点で、君は逃げてないよ。 人は本当に追い詰められたとき、“逃げようとしてる自分すら責められない”もんだ」

「……それって、皮肉ね」

「うん。けど、君がちゃんと“選びたい”って言葉を使えてるってことは、 まだ心が生きてるってこと。だからこそ、僕は訊かなきゃいけない」

「……なにを?」

ナインは、すっと目を細めた。その瞳が、どこまでも澄んでいて、彼女の奥を見通しているようだった。

「君が望むのは、“死にたい”ってこと? それとも、“苦しまない終わり方を、子どもたちのために選びたい”ってこと?」

「……そんなの、どっちでも同じでしょ」

「いや、全然違う」

ナインの声が少しだけ強くなる。彼にしては珍しく、断定的な響きだった。

「“死にたい”って気持ちは、絶望からくる。 でも“ちゃんと終わらせたい”って気持ちは、愛からくる」

「…………」

「僕たち死神は、“絶望”から選定された命しか扱えない。 でも君は今、“ちゃんと伝えたい”って思ってるだろ? だったら、その“思い”を選定の条件に変えなきゃいけない」

真理子は、目を見開いた。そして、そっと息を吸い込む。

「私が……選ぶってこと?」

「うん。逃げじゃなくて、決断として」

少しの沈黙が流れたあと、真理子は椅子の背に体を預けた。

「私……やっぱり、生きてたい。 やりたいことも、言いたいことも、まだいっぱいある。 でも、この体じゃ、それは叶わない。 だから……せめて、伝えたい。 私が何を願っていたのか、どれだけあの子たちを想っていたのか。 ……それだけは、ちゃんと届くようにしたい」

ナインは頷いた。

「それは、逃げじゃない。君の“選定理由”として、十分すぎる」

「……そう。だったら、お願い」

真理子の声は静かだった。でも、どこか凛としていた。

「この命、終わらせてほしい。……でも、今すぐじゃなくていい。 あと少しだけ、時間をちょうだい。手紙を……完成させたいの。 ちゃんと、言葉にしたい」

「うん、わかった。 じゃあ三日後、また来る。君が選んだその終わり方を、僕が見届けるよ」

「ありがとう」

真理子は目を閉じた。胸の奥で、何かがストンと落ち着くのを感じた。

「君は、“母親として”死の意味を選ぼうとしてる。 ……すごく、強いと思う」

ナインの言葉に、真理子はかすかに笑った。

「そう見える?」

「うん。でも、ちゃんと弱くも見えるよ」

「……なら、ちょうどいいわね」

その夜、真理子は机に向かった。何度も書き直してきた手紙の下書きの束を前に置く。

ペンを持つ手が、少しだけ震えた。けれど、心はもう揺れていなかった。

その文字のひとつひとつに、言葉にしきれなかった愛が、今度こそ形を持ち始めていた。

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