1話ー理想の仮面
僕の世界には昔から「死神」がいる。でもそれを誰かに話したことはない。
普通じゃないって思われるのは嫌だったし、なによりも「それ」は見えてはいけないモノだってのは本能的にわかっていたから。
死神はたいてい無言で、黒ずくめの服にフードを被っていて...何より空気がすごく冷たい。
他の誰も気づいている様子はないけれど、僕の目にははっきり写っている。
誰にも言えない秘密だけど、僕は知っている。死神が近くにいる人は、数日以内に死んでしまうということを。
それは湯気の中で幻影みたいに歪んだ輪郭だとか、寝起きの夢の続きだとかそんな曖昧なものじゃない。何度も目の前で起きてきた現実だ。
誰も知らない、僕だけが知っている恐ろしい真実。
だけど、死神が見えるからといって特に他の見えない人と変わらない毎日を送っている。
今日も普段と変わらない1日が始まる。いつもと同じように6時にセットしたアラームより前に起きて顔を洗う。眠気を水と一緒に流した後、今日の授業の予習をさっとすませる。
予習も済んだところで朝食を食べに階段を降りる。下では父さんが既に朝食を済ませ、コーヒーを嗜んでいる。僕も席に着くと母さんがトーストとスクランブルエッグを持ってきてくれて一言
「今日の小テストも満点取れそう?」と言ってきた。
「大丈夫だよ。昨日のうちに全部完璧に覚えといたから。」
それを聞くと父さんは満足げに頷き、母さんは「流石ね」と微笑んだ。
毎朝こんな感じの会話だ。父さんも母さんも僕の勉強や成績の事しか頭にないらしい。さっきは用意周到な自分を見せたが、そんな自信が僕にあるわけない。
だけど、期待されてしまったからには僕はそれに答えるしかないんだ。
朝食を胃のなかに押し込んで登校の準備をする。ランドセルの中身を一度全部出して、忘れ物がないかを確認した。
教科書の角が少し折れているのに気づいて、手のひらで丁寧に伸ばす。ノートの表紙の汚れも、ウェットティッシュで軽く拭いた。
完璧じゃないと不安になる。誰かに「だらしない」って思われるのが怖い。
一通りの準備を終えたところでランドセルに教科書一式を丁寧にしまう。
身支度を終えると、鏡の前で髪型を整え、制服の襟を直す。ランドセルを背負って、一息。
「よし、大丈夫」
そう口に出して、ようやく玄関のドアを開けた。
今日も、いつも通りの「いい子」を演じる一日が始まる。
家を出てすぐ、横断歩道の手前で近所のおばあさんとすれ違った。 「おはようございます」 そう挨拶すると、おばあさんは嬉しそうに「おはよう」と返してくれた。鍵を忘れたときに家にあげてくれたり、僕にお菓子をくれたりしてくれた優しい人だ。 だけど、そのすぐ後ろにいたのは
——黒いフードの死神だった。
心臓が、ひゅっと縮まる音がした気がした。
あのおばあさんも、もうすぐ……。
そんなふうに考える自分が嫌だった。でも、何度も見てきた。死神が傍にいた人たちは、みんな……。
「平気、見てない」 と小さく呟いて、僕は顔を前に向ける。死神とは目を合わせない。視界の端で見るだけ。 そうやって、ずっとやり過ごしてきた。
おばあさんに軽く手を振ったあとは、いつもの通学路をひとりで歩いた。
朝の光が差し込む通学路。咲きかけのツツジや、フェンスの上に座っている野良猫が見える。それから、少し先に見える交差点で、信号を待つランドセルの列。
「……今日の小テスト、八問だったかな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
頭のなかで、昨夜見直したプリントの内容を思い返す。問題の形式、先生の癖や引っかけやすい設問。
一つひとつ確かめるように、歩くたびに言葉をなぞっていく。
「あ、悠生くーん!」
背後から呼ばれて振り返ると、同じクラスのハルカが手を振りながら駆けてきた。
「おはよー。今日の小テストの漢字絶対ムリ~。『優れる』の“優”って、右側どうなってたっけ?」
「『憂える』と同じだよ。真ん中に“心”がつくやつ」
「そうだそうだ!やば、絶対また変な字で覚えてた~!」
笑ってるけど、ハルカの顔はちょっとだけ焦っていた。
でも僕は、そういう顔を見て少しホッとする。
ちゃんと教えられた。友達の役に立てた。
「じゃあ、答えあわせしながら行こっか」
「えーありがとー!じゃ、ここからね!」
通学路の途中、信号を待ちながら二人で漢字ノートを広げて確認を始める。
こんなふうに話しかけてもらえるのは、たぶん僕が「ちゃんとしてる子」だから。
頼りにされるのは嬉しい。でも、それと同じくらい――怖い。
間違えたときがっかりされるのが、すごく恐ろしい。
信号が青に変わり、僕たちは小走りで横断歩道を渡った。
学校に着くと、靴箱の前でまた別のクラスメイトに挨拶される。
「おはよー」と言いながら、靴を揃えてロッカーにしまった。
スニーカーのつま先に、少しだけ汚れがついてるのが気になって、持ってきたハンカチでこっそり拭く。
「上履きってそんなにピカピカにするものだっけ?」と笑われて、僕は少し笑い返した。
(うっかり汚れたままにして、誰かに何か言われる前に直せてよかった)
教室に入ると、日直の子が黒板に日付と予定を書いていて、僕はその横を通りながら自分の席に向かう。
ランドセルをおろして、時間割どおりに中身を出す。
筆箱の中身も、昨日の夜ちゃんと並べなおしておいたから、順番どおりに入っている。
今日の小テストは三時間目。まだ少し時間がある。
僕は教科書を開いて、内容を軽く読み返した。
「なあ、悠生ってさ、完璧人間だよな!」
隣の席から、唐突に声をかけられる。振り向くと、隣の席の石田くんがこっちを見ていた。
「え?」
「なんかさー、いつも完璧って感じだから、間違えたりしなさそうだなーって思って」
「……そんなことないよ。間違えることもあるし、失敗もするよ」
そう言ってみたものの、本当は思い出せない。最後に“本気で間違えた”のがいつだったか。
間違えそうになる前に、直して、整えてきたから。
誰にも迷惑をかけたくない。誰にも「失望されたくない」。
教室のざわめきの中に、自分だけが少し浮いている気がした。
でも、それが心地いいとも思ってしまう。
“期待されている”ってことは、“必要とされている”ってことだ。
けれど、本当は。
心のなかのどこかで、ずっと叫びたい声がある。
「本当は、こんなに気を張ってるのはしんどい」って。
でもそんなこと、誰にも言えない。
先生が入ってくると同時にチャイムが鳴って、1時間目が始まった。「起立、礼」の号令が終わると先生は昨日の宿題を集めるように僕たちに言った。
隣の席の石田くんが「やば、またノート忘れた」と小声で呟いてる。先生に見つかる前に僕の予備ノートをそっと差し出すと、「助かる、サンキュー!」と笑った。
僕はいつも通りノートを開いて丁寧な字で先生の板書を写していく。ただ写すだけじゃなくて自分なりの考えとかを書き記しながら。
授業が終わったあと、僕はノートに書いた板書を見返しながら、ため息をひとつついた。
ちゃんと書いたはずなのに、そこにある文字たちは、まるで他人が書いたもののように感じた。覚えるべきこと、考えるべきこと、ちゃんとやらなきゃいけないこと。それが、どんどん心に積もっていく感じがする。
昼休み、僕は教室の隅の席でひとりお弁当を食べた。ハルカたちが楽しそうに笑ってるのが聞こえる。でも僕は、そっちに行く理由が見つからなかった。
(僕がそこにいたら、きっと気を使わせる)
ちゃんとしてなきゃ。間違えたらいけない。空気を壊しちゃいけない。
「……疲れたな」
ふと、声が漏れた。自分でも驚くほど小さくて弱い声だった。
(疲れた、って、何に?)
期待に応えること? いい子でいること? それとも、「死神が見える」という秘密を誰にも言えずに抱えていること?
窓の外を見ると、校庭でサッカーをしている下級生たちが見えた。声を張り上げて走ってるその姿が、なんだか別の世界の出来事みたいに感じた。
(僕があんな風に楽しそうに遊んだのはいつだろう)
最近、自分が何のために生きてるのかわからなくなることがある。親の期待に応えるため? 周りに迷惑をかけないため?
でも、もし「自分がいなくなっても誰も困らない」ってわかったら、僕はどうするんだろう。
帰り道。下校のチャイムが鳴って、僕はランドセルを背負いながら廊下を歩く。誰かに話しかけられることもなく、ただまっすぐ玄関を目指した。
昇降口で靴を履き替えて外に出ると、空が少し曇っていた。朝の光はもうなくて、灰色の雲が空をゆっくり流れている。
「……あ」
遠くの交差点の先、歩道橋の上に、黒いフードの影が立っていた。
死神だ。
見間違えるはずがない。周りの空気が凍ったように冷たくなるのがわかる。
でも、その死神は、誰のそばにもいなかった。ただ、遠くの空を見ているように、こちらを向いてじっと立っていた。
(あれは……僕を見てるのか?)
背筋がぞくりとした。 今まで、死神は「誰かの傍」にいた。だけど、今は違う。 考えたくないけど、考えてしまう。今度は僕の番かもしれない。
そのとき、心の奥にずっと沈めていた思いが、ふわっと浮かび上がってきた。
――もし、僕が死んでも、誰が困るのかな。
足が止まる。
「……いやだな」
自分で口にして、少し驚いた。
(本当に、僕は死にたいのかな)
でも、生きていたいとも思えない。
気づけば、夕方の風が頬を撫でていた。 ふと振り返ると、歩道橋の死神は、もういなかった。
ただ、その影が、目の奥に焼きついて離れない。
僕は深く息を吐き出して、家へと歩き出した。
家に帰ると、リビングは静かだった。父さんはまだ仕事中、母さんの台所で夕飯の下ごしらえをしている音だけが聞こえる。
「ただいま」と言うと、母さんがすぐに「おかえり」と返してくれた。
「小テスト、どうだった?」
「……多分、全部合ってると思う」
「さすがね。やっぱり悠生はすごいわ」
また、それだ。
すごい。えらい。できる子。
その言葉に、嬉しいという感情はない。ただ、息をするようにその言葉を言われるたびに、僕の仮面の厚みが増していくような気がする。
ランドセルを自分の部屋に置きに行き、机に向かって今日のプリントを取り出す。間違ってないか、一応確認するけど、心はどこか遠くにある。
ふと、ノートのすみに書かれた自分の字が滲んでいるのに気づいた。
「あれ?手を拭き切れてなかったのかな。」
でも、なんだかその“にじみ”が、自分の気持ちみたいだった。
はっきりしない。ぼやけている。誰にも読まれたくないのに、誰かに読んでほしい気もする。
——どうして、僕はこんなに疲れているんだろう。
深く息を吐いた。
夕飯の時間、テーブルには焼き魚と味噌汁、それと母さんの作ったひじきの煮物が並んでいた。
父さんはニュースを見ながら黙って箸を動かし、母さんは今日のスーパーの混雑ぶりについて愚痴をこぼしていた。僕はそれに相槌を打ちながら、箸を進める。
何も問題のない家庭。どこにでもある、普通の夕食の時間。
——なのに、ものすごく遠い。
笑っているのに、誰も本当のことを言っていない気がする。
食後、自分の部屋に戻ってドアを閉めた。教科書を開いたけれど、もう頭は働かなかった。
布団に入っても、眠れそうになくて、天井を見上げる。
あの死神。
(……今度は僕の番なのかな)
ふと、そんなことを考えていた。
死神が近くにいる人は、やがて死ぬ。
それを知っているからこそ、ずっと無視をしてきた。
でも、今回は、僕が選ばれたのかもしれない。
だとしたら——楽になれるのかもしれない。
(……そんなこと、思っちゃダメなのに)
ふと、風が吹く音がした。
(窓を閉め忘れたのかな、)
そう思って視線を窓の方に向けた――そのときだった。
そこに、“それ”は立っていた。
夜の帳をまとったようなフード。
でも、それは今まで見てきた死神たちとは、どこかまるで違っていた。
まず、色が黒ではない。
深い灰でも、墨のようでもない。
光の当たらない水面のように、底の見えない“青黒い”布が、静かに揺れていた。
そして、フードの奥にある顔。
普通の死神は、顔すら見せようとしないのに。
その“死神”は、明らかにこちらを見ていた。
目元だけが、夜の隙間からぼんやり浮かび上がっている。
まるで人間のようでいて、でも、人間とは決して思えない。
顔の半分が光に溶けているような、淡くて、冷たい美しさ。
窓の外ではなく、“こちら側”に立っていた。
窓ガラスの内側に、まるで元からこの部屋の一部だったかのように。
僕は、声も出せずに動けなかった。
けれど、不思議と叫びたいほどの恐怖はなかった。
ただ、息が止まりそうなほど強く心を掴まれた。そんな感じがした。
その存在はあまりにも静かで、あまりにも確かだった。
その“死神”が、わずかに口を開いた。
唇が動く。音は聞こえないのに、はっきりと意味だけが胸に届いてくる。
—ねえ。君は、死にたいの?
それとも、
誰かの「声」を、飲み込んでしまっただけ?
目が離せなかった。
答えなんて、出せるはずがないのに。
それでも僕は、確かに心を動かされていた。
そこにあったのは、初めて出会った「見てはいけない死神」ではない、何かだった。
こうして、僕とその“死神”との対話が始まった。