ペンギンがいた日々
うだるような熱帯夜の暑さに私は額の汗を拭った。うっかり触った生え際はすっかり後退している。
この頭を見て部下の一部は『いっそスキンヘッドにすればいいのに』と言っているらしい。けしからんことだ。収穫が減ったことを理由に畑に除草剤を撒く農家がいるだろうか?
公私ともに部下には苦労させらる。あの大口の契約だって・・・と仕事に意識が向いたところで私は頭を振ってその思考を追い出した。
せっかくの金曜日だ。仕事のことは一旦忘れようと決めたじゃないか。全く、ボーッとしてるとロクなことを考えない。
こんな日はビールでも飲んで頭を空っぽにしよう。そう思い、私は自宅のドアを開けた。
私の家――あるいは部屋と言うべきか――はマンションの8階にある。至って普通の、もっと言えば簡素な1LDKだ。そして私は独身貴族、当然出迎える者などいない。
だったらキッチンから聞こえるこの物音はなんだ!?
せめてもの武器として折り畳み傘を構えながら私は電気のスイッチを押した。
ソイツは図々しくも私の冷蔵庫に首を突っ込んでいた。黒い羽毛の生えた尻がこちらを小馬鹿にするかのように揺れる。
唖然とする私の気配に気づいたのか、ソイツはゆっくりと振り向いた。
それは1匹のペンギンだった。
幸い冷蔵庫の中は荒らされていない。とりわけビールが五体満足であったことを確認して私は安堵のため息をついた。
そんな私を尻目にペンギンはテレビを見ていた。それも私のお気に入りのクッションソファに腰かけて。
さらに腹が立つことにそのバラエティ番組は私が毎週欠かさず見ているものだ。ペンギンと趣味を同じくするというのは霊長類として中々屈辱的ではないか?
「おいペンギン。それは私のソファだ、降りろ」
言ってからなんて馬鹿な事をしているのかと自分を叱る。ペンギンに言葉が通じるわけがない。
「ギュエェッ!」
ペンギンはいっちょ前に反抗してみせた。どうやら言葉が通じないというのは私の思い込みだったらしい。不法侵入者にしてはあまりにもふてぶてしい態度に却って諦めがついた。
「汚すなよ」
私はペンギンの隣に椅子を持って行き、ビールを注ぎ始めた。
「ギュエッ!」
いつの間にかうたた寝していたらしい。ペンギンの濁った声で私は目を覚ました。時計を見ると既に0時になっていた。私は伸びをして立ち上がった。
「む、寝るか」
そう呟くとペンギンはひょこっとソファを降りて私を見つめた。意外と大きいな。そう言えばこいつはどこで寝るんだろうか?
どうやらこともあろうに私の寝室で寝るつもりらしい。ぴょこぴょこと私の後を追うと枕元に陣取った。
「汚すなよ」
「ギュエッ」
ペンギンは頷いた、ように見えた。存外礼儀正しい奴だ。私は一旦寝室を後にする。
歯磨きを終えて戻ってくるとペンギンはまだ直立していた。
「おい、ペンギン・・・」
声をかけようとして止めた。ギュー、ギューと小さな寝息が聞こえたからだ。
「寝床を貸すのは一晩だけだぞ」
ペンギンを起こさないように私は呟いた。
***
「ギュエェッ!ギュエェッ!」
濁った声が耳元で鳴り響く。そうだ、私はなぜか昨夜からペンギンと同棲しているんだった。
寝ぼけ眼であたりを見回すとペンギンの姿は見えなかった。どこに行ったんだ?
だが、寝室を出てすぐにその謎は解決する。ペンギンはダイニングテーブルに腰かけていた。
「ギュエッ」
まさか朝食を催促しているのだろうか?タイミング悪く私の腹が鳴った。
「ギュギュッ」
鳥類の表情は人間には理解できないはずだ。だが、私にはペンギンがしたり顔をしているとしか思えなかった。
やむを得ず、ペンギンの催促に応える形で朝食のトーストを用意する。
ペンギンはパンにジャムを塗るのだろうか?そんな疑問を抱えながらコーヒーを啜る。ペンギンはテーブル上の瓶をしばらく吟味するとその中の一つ、よりにもよって私の今日の気分とピッタリ一致する餡子の瓶に手を伸ばした。
ペンギンは翼ーでいいのだろうか?むしろヒレと言った方がしっくりくるーを使って器用に餡をトーストに塗って食べ始めた。私は不本意ながらブルーベリージャムをトーストに塗った。
朝食の後、私は最寄りの動物園に電話をかけた。この辺りでペンギンがいるとしたらそこしか思いつかない。なにせペンギンは一般家庭で気軽に飼育できるペットではないし、ましてや道路脇から突然飛び出してくる類の動物ではないのだから。
結果、私の困惑は更に深まるだけだった。
クッションソファに座り、我が物顔でくつろぐこのペンギンはいささか『大きすぎる』とのことだった。日本の動物園ではフンバルトペンギンーフンボルトペンギンだったか?ーとかいう小型のペンギンが一般的らしい。
私の腰ほどの背丈のペンギンが家にいると告げたところ、電話の向こうの女性は私が冗談を言っていると思ったらしい。それでもなお食い下がったところ、警察に連絡されそうになったので慌てて電話を切った。
だが、ペンギンの種類がわかったのは収穫だった。どうやらこいつはコウテイペンギンというらしい。なるほど皇帝ならばこの不遜な態度にも納得である。
しかし、日本でコウテイペンギンを飼育している施設はごくわずからしい。当然この近所ではない。
となるとこいつは一体どこから来たのだろうか?
あれから2週間。結局、私はペンギンの古巣を探し出すことを諦めた。
無論、最初から諦めていたわけではない。最寄りの交番でペットの捜索願いが出ていないか尋ねたし、電柱の張り紙は注意深く見るようにした。
だが、ペンギンなどという奇特な鳥を探している人はどこにもいなかった。ならば、餌をあげてしまった以上、私が責任を取るべきなのかもしれないと思ったのだ。
まあ、ペンギンとの暮らしが思いの外順調だったというのも理由としては大きい。
食事は私のものをわけてやればよかったし、排泄もどうやっているのか知らないがトイレで済ませていた――ちなみに、朝刊が見当たらなかったら大体ペンギンの奴がトイレに持ち込んでいる。そういうわけで私がペンギンのために何か特別なことをしてやる必要はなく、まあ世話のかからないペットだった。
それに、認めるのは癪だが私自身ペンギンに愛着を抱いてしまっているのも事実だ。
ペンギンはなかなかどうして悪くない同居人だった。例えば、以下は今朝の私とペンギンの会話である。
「なあペンギン」
「ギュー?」
「また総理が失言したそうだ。全く困ったものじゃないか」
「ギュエッ」
「大体昨今誰も彼も言葉というものに無頓着すぎる」
「ギュギュギュ」
「やはり徒にグローバルを謳うよりまず自国の言語、ひいては文化への造詣を深めるべきだ。そうだろう?」
「ギュエェッ!」
一事が万事この調子ではっきり言って気の利いた返しなど期待すべきもないのだが、会話があるというのはそれだけで素晴らしいことなのだと痛感した。
この年まで仕事一筋、独身を貫いてきた私だったが、そのことをほんの少しだけ後悔した。
そんなある日、私はペンギンがテレビを食い入るように見ていることに気づいた。
「どうした?ペンギン」
「ギュエッ」
テレビ画面には青い海が広がっていた。そうか、なるほど。
「行きたいのか?」
「ギュエェッ!」
こうして今週末の予定が決まった。
日本の法律的にペンギンを車に乗せていることが許可されているかどうか定かではなかったが、犬猫でよいことがペンギンで駄目な道理もあるまいと思い、乗せていくことにした。
道すがらペンギンは窓の外の景色から目を離さなかった。こいつなりに室内の生活に飽き飽きしていたのだろうか。帰ったら今後の飼育方法を見直そうと思う。
「ギュー!」
海に着くなり、ペンギンは車の外に飛び出した。
砂浜を転がるペンギンを見ながら私はタバコを咥えた。ここも随分様変わりしたものだ。
「ギュエッ!」
ペンギンは私の方を振り向いて鳴いた。煙を吐いて頷くと、ペンギンはピョコピョコと海へ駆けて行った。
私は期待に胸を膨らませた。ペンギンはどんな姿で泳ぐのか、というのは私の密かな疑問だった。
「ギュギュエッ!」
ペンギンが羽ばたいている――そんな錯覚に陥った。小憎らしいほど優美な泳ぎだ。なるほどお前の先祖が空ではなく海を選んだだけのことはある。
風が潮の香りを運んできた。懐かしい・・。幼き日の記憶が喚び起こされる。あの時も私はペンギンと共にこの海を訪れていたのだ。どうして忘れていたのだろう?
「ギュ!」
濁った声が私を現実に引き戻した。いつの間にかペンギンは大分小さくなってしまっていた。しかもあの藻掻くような動き・・・まさか、溺れているのか!?
「ペンギン!」
なんて間抜けな奴だろうか、ペンギンの癖に溺れるとは!私は迷わず海に飛び込んだ。
泳ぎには自信があった。しかし、海水を吸った洋服はどんどん重くなり、私の自由を奪う。
ドブンッ。それは私の体が海に呑み込まれる音だった。
「ギュエエエエエ!ギュエエエエエ!」
薄れゆく意識の中、ペンギンの濁った声が頭の中で反響し続けていた。
***
――かあちゃーん、かあちゃーん
――なんだいこの子は、またいじめられたのかい
――あーん、あーん
――ジロウ、ジロウや。海におなり
――海?
――海みたいな大きい男になるんさ。誰にも負けない強い男だ
――うん、わかった。母ちゃん、オイラ海になる!
***
――バカタレ!お前なんか勘当だ!
――ああそうかい!俺だってこんな家もうごめんだね!
――アンタ!ジロウ!もうやめておくれ!
――女は引っ込んどれ!
――そんな・・ジロウやどうか考え直しとくれ
――もう決めたんだ。母さん、俺は海みたいなデカイ男になって親父を見返してやる!
――そんな、ジロウ、待っておくれ。お願いだよ。ジロウ、ジロウ・・・
***
「ジロウ!」
目覚めた私の視界にあったのは真っ白な天井と見覚えのない、しかしどこか懐かしい感じのする初老の女性の顔だった。
「ああ、ジロウ!」
「あの・・失礼ですが、どなたでしょうか?」
女性は怒りながら破顔した。
「バカタレ!姉さんの顔を忘れたのかい」
「姉・・さん・・?」
それは30年ぶりに会う私の姉だった。
溺れた私を収容した病院は、免許証などの情報から私が姉の親族ではないかと睨んで呼び出したらしい。なぜそうも上手くいったかというと・・・
「母さんが?」
「そうさ・・あんたももうちょっと早く帰ってくればよかったのにねえ」
ちょうど2週間前に亡くなった私の母が入院していたのがこの病院だったというのだ。
しかし、もうちょっと早く帰ってこいとは心外だ。なにせ私は30年前に勘当されていたのだから。
だが、どうやら私を勘当した父は10年前に亡くなっていたらしい。それ以来、母は私に一目会いたいと探し続けていたそうだ。
「母さん…」
墓前にカーネーションの花束を供え、私は静かに泣いた。
その後、私は30年ぶりに実家を訪れ、母の遺品整理を手伝っていた。
今更私に何ができるのかと思ったが、母が私の幼い頃の玩具を後生大事に取っておいたというのだから仕方ない。
埃を被った無数の玩具の中に、見覚えのある黒い尻を見つけて私は微笑んだ。
「やっぱりここにいたか」
幼き日々、片時も私の手を離れなかったペンギンの人形がそこにいた。
ギュエッ、という濁った幻聴が聞こえた。