第九章:『最後のデータ』
蒼い夕暮れが寺院の古い柱に影を落としていた。参道の石畳を歩きながら、美影は父の最期の言葉を思い返していた。『言葉は消えても、意味は残る……』。その深い意味を、彼女はまだ完全には理解できていなかった。
「住職様」
「はい」
「デジタル霊廟には、どのくらいの人の記憶が保存されているんですか?」
問いかけた自分の声が、どこか虚ろに響く。蒼幽は静かに目を閉じ、深く息を吐いてから答えた。
「現在はおよそ三百万人分です」
その数字に、美影は息を呑んだ。三百万の魂。三百万の記憶。そして、三百万の別れ。
「その中に、住職様の大切な方の記憶も?」
蒼幽は長い沈黙の後、静かに首を横に振った。その仕草には、何か深い決意のようなものが感じられた。
「消去しました」
その言葉に、美影は思わず顔を上げた。胸の奥で、何かが強く締め付けられるような感覚。
「なんでですか? だって、それは……」
感情が昂ぶり、声が震える。言葉を最後まで紡ぐことができない。
蒼幽は優しい眼差しで美影を見つめた。その瞳には、深い慈悲の色が宿っていた。
「その方は私の中で生き続けています。データではなく、意味として」
薄暗がりの中で、蒼幽の瞳が静かな光を放っていた。その姿は、まるで古い仏像のように荘厳で、同時に人間的な温もりに満ちていた。
「人は誰しも、自分の生に意味を見出したいと願う。だからこそ、記憶にすがりつく。でも、その執着が、かえって本質的な意味を見えなくしてしまうことがある」
美影は深く息を吐いた。胸の中で渦巻く感情を、言葉にすることができない。
「決められません」
その言葉は、まるで子供のような弱々しさを帯びていた。
「それでいいのです」
蒼幽は優しく微笑んだ。その表情には、深い理解と受容が滲んでいた。
「答えを急がなくていい。大切なのは、この深い問いと向き合う過程なのですから」
寺の古い梵鐘が、静かに時を刻んでいく。その音が、まるで父の心音のように感じられた。美影は目を閉じ、その音に身を委ねた。
風が吹き、木々が囁くような音を立てる。デジタルな未来と伝統が交錯する境内で、美影は自分の心の声に耳を澄ませていた。答えはまだ見つからない。しかし、その問いを抱え続けることこそが、今の自分に必要なことなのかもしれない。
蒼幽の言葉が、静かに心に染み渡っていく。記憶と意味。データと存在。相反するようで、どこかでつながっているその真実に、美影は少しずつ近づいているような気がしていた。
夕暮れの光が障子を透かして差し込み、二人の影を畳の上に長く伸ばしていた。その静寂の中で、美影は自分の中に芽生え始めた新しい認識を、そっと大切にしまい込んだ。
美影は静かに立ち上がった。畳の上に残された二人の影が、ゆっくりと揺れる。座禅堂の空気が、不思議なほど澄んでいるように感じられた。
「少し、歩いてもよろしいでしょうか?」
蒼幽は黙って頷いた。その表情には、美影の心の動きを見守るような優しさがあった。
廊下を歩く足音が、古い木造の建物に響く。電子都市の喧騒とは無縁の、静謐な時間が流れていた。
美影は縁側に腰を下ろした。目の前の庭には、苔むした石と、古びた石灯籠。そして、かすかに揺れる青もみじ。すべてが、永遠の時を刻んでいるかのようだった。
「住職様」
「はい?」
「私、ずっと考えていたんです。父の死を受け入れることができないのは、記憶にすがりたいからなのか、それとも……」
言葉が途切れる。夕闇が少しずつ庭を包み込んでいく。
「それとも?」
「それとも、父の最期の願いの意味を、本当は理解したくないからなのか」
蒼幽は静かに目を伏せた。
「死を受け入れること。それは記憶を手放すことではありません。むしろ、その人の存在の本質により深く触れることなのかもしれません」
庭の片隅で、小さな虫が鳴き始めた。現代の東京では、もう珍しい音色。
「父は……データになることを拒んだ。それは、私に何かを伝えようとしていたんでしょうか?」
「その答えは、美影さんの中にあるのではないでしょうか」
蒼幽の言葉に、美影は深くため息をついた。確かに、答えは少しずつ見えてきていた。でも、それを認めることは、何かを永遠に手放すことでもある。その覚悟が、まだ十分に持てずにいた。
灯籠に小さな光が灯った。自動センサーが働いたのだろう。古い庭の趣と、現代のテクノロジーが、不思議な調和を見せている。
「美影さん」
蒼幽の声が、静かに闇を切り裂いた。
「はい」
「あなたは、父上の記憶を失うことを恐れているのではありません。記憶の中の父上に縛られ続けることを、父上は望まなかったのです」
その言葉が、美影の心の奥深くまで染み込んでいく。
「生きているとは、この瞬間を生きることです。過去の記憶に縛られることでも、未来の不安に怯えることでもない。今、ここに在ることこそが、生きるということなのです」
庭の木々が、夜風にそよいだ。その音が、まるで父の声のように感じられた。
美影は、自分の中に生まれつつある新しい理解を、そっと確かめるように目を閉じた。答えは、もうすぐそこまで来ていた。