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第八章:『永遠との対話』

 蝉の声が響く初夏の午後、私は蒼幽の寺を訪れていた。葬儀から一週間が経ち、父の記憶データはまだデジタル霊廟のシステムに取り込まれていない。期限までにどちらかを選ばなければならないのに、私はまだ決断できずにいた。


 寺の門をくぐると、不思議な静けさが全身を包み込んだ。古い木造の伽藍は、周囲の近代的な高層ビルの間で、まるで時間の裂け目のように佇んでいる。電子広告の光が、苔むした石畳に青く揺らめいていた。


「お待ちしていました」


 本堂から蒼幽の声が聞こえた。


「住職様」


 座禅堂に通された私は、畳の上に正座した。蒼幽も向かい合って座る。


「記憶を読み込むか消去するか、まだ決められないのですね」


 蒼幽の静かな声に、私は深くため息をついた。


「住職様のお考えを聞かせていただけませんでしょうか?」


「美影さん。わたしの考えが、あなたの答えになることはありません」


「それでも……」


蒼幽は深いため息をついた。その表情には、どこか懐かしむような色が浮かんでいた。


「デジタル霊廟を作った時、わたしは『記憶』こそが人格の本質だと信じていました。しかし今は……」


 言葉を切った蒼幽は、傍らに置かれた小さな木魚を手に取った。その表面は、長年の使用で艶のある黒みを帯びていた。


「かつて、最愛の人の記憶データを前に、わたしは気づいたのです。そこにあるのは、確かにその人の記憶でした。でも、それはわたしの中にあるその人の『意味』とは、まったく異なるものだったんです」


「意味、ですか?」


「はい。記憶は事実の集積に過ぎません。しかし、その人が私たちに与えた意味は、記憶を超えた場所にある」


 外から、電子広告の光が差し込んでくる。未来的な輝きが、古い畳の上を淡く照らしていた。その光と影の境界線が、まるで現代と過去の境界のようにも見えた。


「来栖さんは、その違いを理解していたのでしょう」


 私は黙って畳を見つめた。耳の中で、父の最期の言葉が再び響く。


『言葉は消えても、意味は残る……』


「住職様は、デジタル霊廟を作られて、後悔されたことは……」


「いいえ」


 蒼幽は穏やかに首を振った。


「後悔はありません。このシステムがあったからこそ、わたしは『記憶』と『存在』の違いを知ることができた。そして、多くの人々も、その違いに気づくきっかけを得られる」


 庭から、水の音が聞こえた。石に仕掛けられた電子装置が、せせらぎの音を奏でている。人工の音とはいえ、その清らかな響きは心を洗われるようだった。


「でも、記憶を消してしまえば、お父様との最後の対話の機会まで……」


「美影さん」


 蒼幽が優しく声をかけた。


「あなたは、本当の対話を求めているのでしょうか? それとも、ただ記憶の再生を望んでいるのでしょうか?」


 その問いかけに、私は答えることができなかった。


外の蝉の声が一層大きく聞こえてきた。その音が、不思議と私の心の動揺を映し出しているかのようだった。


「対話とは……何なのでしょうか?」


 思わず口から漏れた言葉に、蒼幽は静かに微笑んだ。


「それは、二つの魂が響き合うことではないでしょうか」


 蒼幽は木魚を優しく撫でながら、言葉を継いだ。


「デジタル霊廟の記憶は、確かにその人の言葉を再現できます。でも、それは本当の意味での対話とは違う。なぜなら、そこには魂の響き合いがないから」


 本堂の外で、風が吹いた。風鈴の音が、かすかに響く。


「住職様は、ご自身の大切な方との対話を、今でも……」


「ええ、日々の中で」


 蒼幽の目が、遠くを見つめるような表情になった。


「朝のお勤めの時、お昼のお弁当の時、夕暮れに空を見上げる時。その方は、さまざまな形でわたしに語りかけてくれます。それは記憶の再生とは違う、魂と魂の対話なのです」


 私は深く息を吐いた。胸の中で、何かが少しずつ形を成していくような感覚があった。


「お父様も……きっとそれを望んでいたんでしょうね」


「そう、来栖さんは理解していらしたのでしょう。記憶の保存ではなく、魂の対話を」


 座禅堂の隅から、一筋の光が差し込んできた。夕暮れの柔らかな光が、蒼幽の横顔を優しく照らしている。


「美影さん」


「はい」


「あなたのお父様は、きっと今この瞬間も、あなたと対話を続けているのだと思います。デジタルの記憶などなくても」


 その言葉が、深く心に染み入った。確かに父は、この静寂の中に、この光の中に、そして私の心の中に、確かに存在していた。


 外では蝉の声が次第に弱まり、夕暮れの訪れを告げていた。新しい問いを抱きながら、私は静かに目を閉じた。


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