第六章:『対話の果て』
病室の窓から差し込む夕暮れの光が、父の痩せた頬を優しく照らしていた。この一週間、父の容態は日に日に悪化の一途を辿っていた。それでも父は、最期まで自分の意思を貫こうとしていた。
「美影……」
か細い声で父が私を呼んだ。
「はい、お父様」
「もう……時間がないようだ……」
私は思わず父の手を握りしめた。指先が冷たい。それなのに、父の目は穏やかな光を湛えていた。
「何を言うんですか、お父様。まだ……まだ大丈夫です!」
言葉とは裏腹に、モニターの音は不規則になっていく。心拍が乱れ始めているのだ。
「美影、お前が……俺の娘で……良かった」
父の言葉に、私の目から熱いものがこぼれ落ちた。
「お父様こそ……私のお父様で……よかった」
涙が溢れ出そうになるのを必死で押さえ込む。
「ほら……やっぱり……母さんに……似てるな……」
父が微かに笑った。その表情があまりにも穏やかで、私は更に涙が止まらなくなった。
「お願いです……記憶を消さないでください。せめて、このときだけでも……」
「だめだ」
父の声は弱々しかったが、芯が通っていた。
「生きることも……死ぬことも……選べない。でも……どう生きて……どう死ぬかは……選べるんだ……」
モニターの音が更に乱れる。廊下を駆ける足音が聞こえ、すぐに医師と看護師が病室に駆け込んできた。
「来栖さん、大丈夫ですか? 私がわかりますか?」
医師の声に、父はかすかに目を動かした。
「美影……約束を……」
「できません! お父様の……お父様の最期の言葉さえ、残らないことになってしあいます!」
必死の思いで叫ぶ私の声に、父は静かに目を閉じた。
「言葉は消えても……意味は残る。お前の中に……ずっと……」
その時、モニターが甲高い音を立て始めた。
「心肺停止です!」
医師の声が響く。すぐさま蘇生処置が始まった。
酸素マスクが父の顔に当てられ、看護師たちが手際よく動き回る。私は部屋の隅に追いやられ、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「アドレナリン準備!」
「はい!」
医療スタッフの声が遠くで響いているような気がした。時間の感覚が歪んでいく。まるで自分が夢の中にいるような、そんな不思議な感覚に包まれた。
その時、蒼幽の姿が目に入った。いつの間に来ていたのだろう。彼女は病室の入り口で、静かに手を合わせていた。
「心拍が戻りません」
「もう一度!」
懸命な処置が続く。けれど父の表情は、最後まで穏やかなままだった。まるで深い眠りについているかのように。
「時刻は……二十時四十二分」
医師の声が、決定的な重みを持って響いた。
窓の外で、一羽の鳥が夕暮れの空を横切っていく。その光景が、やけに鮮明に目に焼き付いた。
「お父様……」
私の声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
蒼幽が近づいてきて、そっと私の肩に手を置いた。その温もりで、ようやく現実感が戻ってきた。
「父は……父は……本当に逝ってしまったのですか?」
問いかける私に、蒼幽は何も言わなかった。ただ、確かな存在感で傍らに寄り添っていた。
父の体はまだ温かい。でも、もうそこに父はいない。残されたのは、儚い器だけ。
ふと、父の最期の言葉が蘇った。
『言葉は消えても……意味は残る』
その時、私の中で何かが動いた。深い悲しみの中に、不思議な温もりのようなものが広がっていく。
「住職様」
「はい」
「お父様は……何かを理解していたんですね」
蒼幽は静かに頷いた。
「ええ。来栖さんは、死の先にある何かを見ていたのでしょう」
その言葉に、私は深く息を吐いた。まだ涙は止まらない。でも、その涙の意味が、少しずつ変わっていくのを感じていた。
窓の外は、すっかり夜の帳が下りていた。東京の夜景が、星座のように煌めいている。
『生きることも……死ぬことも……選べない。でも……どう生きて……どう死ぬかは……選べるんだ』
父の言葉が、心の中でゆっくりと響いていく。
私は静かに立ち上がった。これから先、長い別れの時間が始まる。でも、それは同時に、父から託された何かを見つけていく時間でもあるのかもしれない。
「お父様……ありがとう」
私は深く頭を下げた。その時、窓から差し込む街明かりが、父の穏やかな表情を優しく照らしていた。