第五章:『雨と記憶』
病院の中庭には小さな日本庭園があった。近代的な医療施設の中に、まるで時間が忘れ去った場所のように佇んでいる。苔むした石、丁寧に刈り込まれた松、そして静かに流れる小さな流れ。蒼幽と私は、古い石の上に腰を下ろした。
初夏の風が、二人の間を優しく通り抜けていく。その風に、どこか懐かしい匂いを感じた。幼い頃、父と散歩した公園の匂い。思い出は、まるで風に乗って流れてくるかのようだった。
「お父様と二人で生きてこられたそうですね」
蒼幽の声が、静けさを破った。
「はい。母は私が生まれてすぐに亡くなったと聞いています」
その言葉を口にしながら、私は改めて父の存在の大きさを感じていた。記憶にない母の代わりに、父は私に母親としての愛情も注いでくれた。料理を覚え、私の髪を結い、参観日には必ず来てくれた。
「父は、休日になると必ず私と過ごしてくれました。どんなに仕事が忙しくても、私の誕生日だけは絶対に休みを取って……」
言葉が詰まる。思い出が次々と押し寄せてきて、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「時々、父の背中が寂しそうに見えました。でも、私の前では決して弱音を吐きませんでした」
「そうでしょうね」
蒼幽は優しく頷いた。その表情には、深い理解の色が浮かんでいた。
「だから、こんなことをするなんて許せないんです!」
思わず声が大きくなる。感情が抑えきれなくなって、拳を握りしめた。庭の小鳥が、驚いて飛び立っていく。
蒼幽は静かに微笑んだ。その微笑みには、どこか悲しみが混じっているようにも見えた。
「美影さん。『記憶』と『存在』は、違うものなのです」
「えっ?」
「デジタル霊廟に保存される記憶は、確かにその人の体験や言葉を留めています。でも、それはその人の『存在』のごく一部に過ぎないのです」
苔庭に、小さな雨粒が落ち始めていた。水滴が苔の上で静かに弾けては、深い緑の絨毯をより鮮やかに彩っていく。
「禅には『即今』という言葉があります。今、この瞬間を生きることの大切さを説く教えです」
蒼幽は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「過去に執着し、未来を恐れる。そうして私たちは、目の前にある『今』を見失ってしまう。来栖さんは、その真理を体得されたのかもしれません」
その言葉を聞きながら、私は父の病室での表情を思い出していた。確かに父は、死を目前にしながらも、どこか安らかな表情を浮かべていた。それは諦めでも、逃避でもない。まるで、何かを悟ったような……。
「でも、記憶がなければ、父との絆も消えてしまうのでは?」
私の問いかけに、蒼幽は静かに首を振った。
「絆は記憶の中にだけあるのでしょうか? それとも、もっと深い場所に?」
雨足が少し強くなってきた。庭の石畳を伝う雨水が、まるで父の人生のように、静かに、しかし確かな足取りで流れていく。
「美影さん。あなたは今、この雨の音を聞いていますね」
「はい」
「この音は、一瞬一瞬、新しく生まれては消えていきます。でも、その響きは確かにあなたの心に残る。それは記憶という形ではなく、もっと本質的な何かとして……」
その時、不意に風が吹いた。庭の木々が揺れ、雨粒が舞い、そして――私の頬を、温かいものが伝っていった。