第二章:『生きることの本質』
父の言葉は、病室の空気を震わせるように響いた。
「生きることの意味は、その人が生きているその瞬間にしかない。記憶を残すことで、私たちは『生きる』という行為の本質から目を逸らしているんだよ」
私は父の言葉の重みを感じながら、窓の外を見た。そこには、まるで永遠に続くかのような都市の風景が広がっていた。高層ビルの壁面には巨大なホログラム広告が踊り、その光が病室の窓ガラスに揺らめいている。その光の向こうで、夕暮れの空が徐々に色を変えていった。
七日前。医師から余命宣告を受けた時のことを、私は今でも鮮明に覚えている。診察室の無機質な白い壁。医師の声。そして、父の背中。末期の膵臓がん。余命はおよそ一ヶ月。その宣告を、父は驚くほど冷静に受け止めていた。
「ありがとうございます。これで、残された時間をどう使うか、考えることができます」
そう言って微笑む父の姿に、私は戸惑いを覚えた。むしろ、動揺していたのは私の方だった。
病室に戻る廊下で、私は父の背中を見つめていた。いつの間にか、その背中はこんなに小さくなっていたのか。かつて私を背負って走ってくれた、あの頼もしい背中は、今や痩せこけ、病衣の下で縮こまっているように見えた。
「記憶を消すということは、お父様の存在そのものを消すようなものです」
私の声は、自分でも驚くほど震えていた。記憶。それは父との絆そのものだった。幼い頃に見上げた父の背中。初めて自転車に乗れた時の喜びを分かち合った瞬間。高校の卒業式で、照れくさそうに私を抱きしめてくれた温もり。そのすべてが、消えてしまうなんて。
「存在? 美影、お前は俺の存在が記憶の中だけにあると思っているのか?」
父は穏やかな表情で私を見つめた。その瞳の奥には、何か確固たる信念のようなものが宿っていた。それは、死を目前にした人間の諦めとは違う。まるで、何かを悟ったかのような、静かな輝きだった。
窓の外で、医療ドローンが静かに飛び交っている。最新鋭の技術を結集したそれらは、まるで天使のように患者たちの命をつなぎとめようとしていた。だが、どんなに科学が進歩しても、死そのものは避けられない。それは人類が永遠に背負う宿命なのかもしれない。
「美影」
父の声に、私は我に返った。
「記憶というのは、不思議なものだ。それは確かに過去の出来事の集積かもしれない。でも、本当に大切なのは……」
父は一瞬言葉を切り、窓の外に広がる夕暮れの空を見つめた。
「今、この瞬間を、どう生きるかということなんだ」
その言葉に、私は返す言葉を失った。夕暮れの光が、静かに病室に差し込んでくる。その光の中で、父の横顔が不思議な輝きを帯びて見えた。
そうか。父の選択は、決して死からの逃避ではなかったのだ。むしろ、それは死と、そして生とも、正面から向き合おうとする意志の表れだったのかもしれない。
しかし、その理解は同時に、より深い悲しみを私の心に呼び起こした。父の存在を記憶の中にとどめておくことさえ、私にはできないのだから。