終章:『また会う日まで』
寺を出た美影の足は、自然と父の思い出の場所へと向かっていた。雨上がりの空気が、初夏の匂いを運んでくる。駅前の小さな公園に着くと、なじみ深いベンチが、まるで彼女を待っていたかのように佇んでいた。
雨粒が木々の葉から零れ落ち、かすかな音を立てている。美影はポケットに手を入れ、冷たい感触のデータキーに触れた。父の記憶が詰まった小さな装置。これを霊廟に接続するか消去するか、その決断の期限まであと三日。
ベンチに腰を下ろすと、雨に濡れた空気が肌を優しく包み込む。データキーを取り出し、手のひらに載せる。雨粒が、その表面をゆっくりと伝っていく。
ふいに、十年前の記憶が蘇った。二十代後半、会社での重圧に耐えかねて、転職を考えていた時のことだ。父の前で涙を流しながら、自分の弱さを告白した夜。
「美影の人生だ。美影が決めろ」
父はそう言って、ただ黙って私の背中を押してくれた。その手のぬくもりを、私は今でも鮮明に覚えている。
しかし、それはデータの中の記憶では決して再現できないだろう。あの時の温もり、安心感、そして何より、父の存在そのものが持つ重み……。
スマートフォンが震える。デジタル霊廟システムからの通知だ。
『記憶データ保存の期限が近づいています』
画面を消すと、雨に濡れた公園の風景が、より鮮明に見えた。遊具に降り注ぐ雨粒が、街灯に照らされてきらきらと光っている。そして突然、美影の心に確かな理解が訪れた。
父が本当に残そうとしていたのは、データ化された記憶ではない。この瞬間、この場所で感じる「何か」なのだと。それは言葉では説明できない、しかし確かに存在する感覚。この雨の音、木々のざわめき、そして心の中に響く父の声。すべてが一つになって、父の存在を語りかけてくる。
「私……わかったわ……」
思わずこぼれた言葉に、自分でも意外なほど清々しい感情が伴っていた。きっと父も、母も、こんな風に笑っていたのかもしれない。確信に満ちた静かな笑顔を浮かべながら。
公園を飛び出すように出て、美影は蒼幽の寺へと足を向けた。山門をくぐると、本堂の前で座禅を組む蒼幽の姿が見えた。雨上がりの空気が、寺の境内を清めているようだった。
「住職様」
私の声に、蒼幽は静かに目を開けた。
「美影さん」
その声には、まるで私の来訪を待っていたかのような温かみがあった。
「決心がつきました」
蒼幽は黙って頷いた。その表情には、深い理解の色が浮かんでいた。
「私は、父の記憶を消去します」
その言葉を口にした瞬間、不思議な安堵感が全身を包み込んだ。それは、長い迷いの末についに見出した答えがもたらす、静かな確信のような感覚だった。父の存在は、デジタルデータの中ではなく、この瞬間、この感覚の中にこそ永遠に生き続けるのだと。
# 終章:永遠の今
「本当によろしいのですか?」
蒼幽の声には、深い思いやりが滲んでいた。
「はい。父が教えてくれたんです。生きることの意味は、記憶の中にあるのではないと」
本堂の屋根を、雨が優しく叩いている。その音が、まるで父の心音のように感じられた。
「父は今、データの中ではなく、この雨の音の中にいる。私の感覚の中に、この瞬間の中に……」
蒼幽は穏やかな表情で頷いた。その瞳には、深い理解と共感の色が宿っていた。
「それこそが、来栖さんの望んでいたことかもしれませんね」
美影はポケットからデータキーを取り出した。手のひらの上で、小さな装置が雨に濡れた光を放っている。過去と未来が、この小さな機器の中で交錯しているかのようだった。
「ただ、一つだけ」
美影は言葉を継いだ。胸の奥で、何かが静かに震えている。
「最後に一度だけ、父の記憶データを見せていただけませんか?」
デジタル霊廟の端末室は、深い静寂に包まれていた。青白い光を放つモニターの前で、美影は深く息を吸い込んだ。この部屋で、これまで何人の人が、大切な人との最後の対話を交わしてきたのだろう。
「準備ができました」
蒼幽の静かな声が響く。彼女の手で、データキーがシステムに接続された。
「どの記憶をご覧になりますか?」
美影は少し考えた。そして、迷いなく答えた。
「最も古い記憶を」
スクリーンが淡く光り、そこに映し出されたのは、三十年以上前の風景。まだ幼かった私を、父が抱きしめている場面。転んで膝を擦りむいた私を、父が優しく慰めている。
『大丈夫だ、美影。父さんがついているから』
データとはいえ、その声は確かに父のものだった。しかし、何かが決定的に違っていた。
温もりがない。
記憶は鮮明なのに、そこに込められていたはずの愛情が、どこか希薄に感じられる。まるで古い映画を見ているような感覚。それは確かに「記録」ではあるのだが、「記憶」とは違っていた。
「お父様……」
思わず呟いた瞬間、不思議な確信が胸の中に広がっていく。これは「父」ではない。これは単なるデータ。父の本質は、もっと別の場所にある。それは今、この瞬間に、この私の中に生きている。
「消去してください」
私の声は、思いのほど力強かった。
蒼幽が黙って頷き、消去プロセスを開始した。画面上の映像が、少しずつ霞んでいく。まるで夜明けの霧のように。
『美影……』
最後に聞こえた父の声は、病室で聞いた最期の言葉と重なり合った。
『言葉は消えても、意味は残る……』
スクリーンが完全に暗転する。
「これで……」
蒼幽が静かに告げた。その声には、深い安堵と祝福が込められていた。
「はい」
美影は立ち上がった。窓の外では、雨が上がり、朝日が差し始めていた。
それから一年が経った。
美影は今でも時々、あの公園のベンチに座る。雨の日も、晴れの日も。データこそ消えたが、確かに父は生きている。この風の中に、木漏れ日の中に、そして私の内なる声の中に。それは説明できないが、確かな感覚として存在している。
時々、蒼幽を訪ねては、存在の意味について語り合う。答えは見つからないが、それでいい。問いを持ち続けること。それ自体が、生きることの証なのかもしれない。
ベンチに座りながら、美影は空を見上げた。
「お父様」
声に出して呼びかける。返事はないが、温かな風が頬を撫でていく。その感触が、父の手のぬくもりのように感じられた。
生きることの意味は、この瞬間の中にある。父は、そのことを教えてくれたのだ。
新しい朝の光が、ゆっくりと街を包み込んでいく。美影は立ち上がり、歩き始めた。
これから先も、問いは続くだろう。しかし、それは重荷ではない。
生きるということは、問い続けること。
そして、その問いの中に、確かな意味が宿っているのだから。
(了)