第一章:『永遠の約束』
青白い蛍光灯の下で、父は俺を見つめていた。かつての凛々しい姿はなく、痩せこけた頬には深いしわが刻まれている。それでも、その眼差しは昔と変わらず鋭かった。
「消してほしいんだ」
突然の父の言葉に、俺は耳を疑った。
「消すって何を?」
「俺の記憶だ。デジタル霊廟に保存される予定の、俺の記憶全部」
父・来栖三郎太の声は、驚くほど冷静だった。
私たちは東京郊外の緩和ケア病棟にいた。窓の外では、人工知能制御の医療ドローンが静かに飛び交っている。2070年の春の午後。世界は、まるで父の死期が近いことなど知らないかのように、穏やかな日差しに包まれていた。
父の表情には、どこか懐かしい強さがあった。幼い頃、私が熱を出して寝込んだ時も、父はこんな風に私のことを見つめていたものだ。その記憶が、今の状況とシンクロして、私の胸を締め付けた。
「でも、それじゃあ……」
「そういうことだ。お前は父さんの記憶を永遠に失うことになる」
私は言葉に詰まった。デジタル霊廟は、人々の記憶をデジタルデータとして保存するシステムだ。死後も、残された家族は故人の記憶にアクセスし、対話することができる。もはや当たり前の技術として社会に根付いていた。
私の手は、思わず病室のベッドの縁を強く握りしめていた。父の願いを受け入れることは、父との最後の絆を自ら断ち切ることを意味する。それは、私には到底できないことのように思えた。
「どうして?」
私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「記憶を残すことは、生きた証しを残すことだと思うのか?」
父は私の目を見つめながら問いかけた。その瞳には、何か深い悟りのようなものが宿っているように見えた。
「そうではないのでしょうか? 残された者のためにも……」
「違う。それは逃避だ」
父の声は静かだが、芯が通っていた。その言葉の重みは、まるで重い石のように私の心に沈んでいった。窓の外では、夕暮れの空が徐々に深い紫色に染まりはじめていた。
私は父の痩せた手を見つめた。かつては大きく力強かったその手は、今では骨ばって、青い血管が浮き出ている。それでも、その手の温もりは昔と変わらなかった。その温もりまでもが、デジタルデータには置き換えられないのだと、私は薄々気づいていた。
春の夕暮れの光が、静かに病室に差し込んでいく。その光の中で、父は穏やかな表情を浮かべていた。まるで、私の心の中の葛藤を全て理解しているかのように。
「美影、お前はまだ若い。これから先、長い人生がある」
父の言葉に、私は顔を上げた。
「だからこそ、本当の意味での『別れ』を学ばなければならない。デジタル霊廟に頼ることは、その機会を永遠に奪ってしまうんだ」
その言葉に、私は返す言葉を失った。ただ、静かに降りていく夕暮れの光の中で、父の言葉の意味を噛みしめることしかできなかった。