第072話 決議
一分ほど遅れて隣の部屋に戻ると、クラエスは既に席についていた。
「では、再度の決議を行う。特級魔導司ルシェ・ネルの禁書閲覧に賛成の者」
すると、今度こそエレミア以外三人の手が挙がった。
「賛成三名をもって、可決とする」
エレミアがそう言うと、オスカーが突然椅子から立ち上がって、大きな拍手をはじめた。
おめでとう、とでも言いたげな満面の笑顔でおれを見ている。
しかし、その拍手に追従するものはいなかった。
いや、ヘルミーネもクラエスもそういうキャラじゃないだろ……。
オスカーは少しして、ちょっと気まずそうに拍手をやめた。
「管理者の話だと、禁書の閲覧には三日ほどかかるそうだ。それまで時間を潰していろ」
「はい」
「――なんだ、疑問に思わないのか?」
エレミアは訝しむような目でおれを見た。
三日。たしかに、本を読むためだけに三日かかるというのは普通だったらおかしい。さっさと持ってきて読ませろや、という話になるのが自然だろう。
ただ、おれは糊でべったりと封印された禁書の状態を知っているので、なにも不思議には思わなかった。アレを読める状態に戻すには、どう考えても複雑な工程が必要だ。そりゃ三日くらいかかってもおかしくない。
「ああ、いえ。いやー、とっても遠い人里離れた秘境かどこかで管理されてるのかな、と思っていたので。持ってくるのに三日くらいはかかるのかなー、と」
嘘ついちゃった。
「はあ……まあいい。こうなってしまった以上、仕様がないからな」
エレミアはなにかを諦めたように言った。
「エレミアさんが手段を選ばず反対していたらこうはならなかったと思います。手は挙げてもらえませんでしたが、あなたには感謝してますよ」
二度目の投票を認めてくれたのは意外だった。
「俺は、イーリを助けたいと思っている。ただ、学長の職責として、禁書を用いた手段を与えるのは間違いだと考えているだけだ。今回、お前は正統な手続きを行おうとした。その手続きを妨害しようとするのは、学長の職責の範囲を逸脱した、俺自身の信条でお前を邪魔するだけの行為だからな。そんなことをする必要性はない。俺は、イーリを助けたいと思っているのだから」
……うーん。
なんだか、エレミアの中では、なにか職責と私情との間で複雑な葛藤があったらしい。
正直、よくわからなかった。やりたいと思うことなら、どんなことでもやればいいと思う。
なにかの懸念があったり、誰かが犠牲になる可能性があるから、イーリを助けることを諦める?
そんなことは、おれには考えられない。そんなことで一瞬でも立ち止まったら、おれは必ず一生涯後悔するだろう。
誰とも知らない人間と、イーリの命は、おれの中では平等ではない。そんなのは、当たり前のことだ。
……まあいい。
「それじゃ、失礼します」
「ルシェくん」
クラエスが静かに声をかけてきた。
「忘れ物があるんじゃないかな」
あっ、すっかり忘れてた。
「そうでした」
おれはポケットの中の小瓶を取り出すと、机に置き、クラエスのほうに滑らせた。
瓶はサーッと滑って、クラエスの手元に届いた。比重が重く重心が下がっているからか、思いの外安定していた。
「おい」
老いた女性の声がした。ヘルミーネだ。
あっ、こっちも忘れていた。昨日のうちに概要をまとめた紙を用意していたんだった。
「すみません。忘れてました」
おれは自分の荷物を慌てて漁ると、一通の便箋をヘルミーネに手渡した。
てんかんは、脳にあるニューロンが過剰な放電を引き起こすことで発生する神経系の疾患だ。
なので、右脳と左脳を繋いでいる連絡路、脳梁といわれる部分を離断すると。そこで過剰な神経インパルスの伝播が止まり、言ってみれば片方の脳を保護することができる。
ただし、完全に離断すると右脳と左脳の連絡が絶たれてしまい、分離脳という状態になる。おそらく、彼女にとってはその状態での脳のふるまいも興味深いところだろう。
「……露骨な買収工作をしたようだな。まったく、そんなものに流されるとは、あなたたちは一体、何を考えているのか」
エレミアがなにか言い出した。説教でも始まるのだろうか。
「それでは、失礼します。枢機会議の諸賢の英断に心よりの感謝を」
おれは深く頭を下げて、ささっとその場を辞した。
◇ ◇ ◇
その日の夜、おれは尾行に気をつけながらホテルを取り、料金を前払いしてこっそりと抜け出し、改めて別のホテルに入った。
昨夜ホテルを襲撃されたことは、ベレッタには伝えていない。
ホテル暮らしで毎日変わるおれの部屋を特定できたということは、ベレッタが日中に尾行していたことを意味するからだ。
それは、ベレッタが通常の理性的人格に支配されている状態であればありえないわけで、寝ている間ではなく日中、あたおかベレッタに人格が切り替わってしまっていたことを意味する。
さすがに、そうなってくると気に病むのではないかと思い、伝えないでおいたのだった。
さすがにこれなら安心だろう。
と思いつつ、ベッドに綿がたっぷりと入った布団があったので、それをバスタブに運んでその中に寝た。
襲撃に備えて、やれることはやっておいたほうがいいだろう。
それにしても、禁書が読めるまで、三日間暇になってしまった。今度は本当にやることがない。
ベレッタと遊び回るか……。
などと考えているうちに眠りに落ち、スヤスヤと眠っていると、ドカンッ! と炸裂音がして目が覚めた。
バスルームのドアが蝶番から外れ、部屋の中に吹き飛んでいる。
まーた、あたおかベレッタの襲撃か。と思い、抱いて眠っていた聖剣を掴んで、バスルームの外に出た。
今まで最初の襲撃以降のあたおかベレッタは、建物の外から攻撃するだけ攻撃して、あとは逃げるだけだった。しかし、今回は室内に留まったままのようだ。
「ベレッタ?」
「…………」
そこに立っていたのは、狐のようなお面を被った、黒装束の女だった。
べ、ベレッタ?
普段と随分格好が違うな。
中二病っていうか……。
コスプレにしか見えないけど……無意識のベレッタって、こんな感じに憧れがあったのか。
なんだか、いたずらに覗いてはいけない部分を覗いてしまったみたいで罪悪感あるな。
いや、向こうから見せてきてるんだけど。
「今、話せる状態?」
「………」
ベレッタは無言で右手を動かし、見たことのない杖をおれに差し向けた。
前に持っていた棒と似たような陶器のような質感だが、先がやや尖っていて短い。光線系だろうか? どちらにしても、まずはそれを警戒しなければならない。
反射膜を展開して光線を逸らし、床を蹴って壁を蹴り、三角跳びの要領で蹴りをかましにいった。
しかし、蹴り足を伸ばした瞬間、ベレッタはおかしな動きをした。両手でひょひょい、と、空中でなにかを結ぶような動きをした。
伸びた蹴り足を見えない輪っかにくぐらせようとしているように見え、とっさに蹴り足を折りたたむ。体勢が崩れ、お面に膝下を引っ掛けた。
お互いの身体が交差し、着地に失敗して床に転がる。
ゴロゴロッと二回転してから起き上がった。
少女は、顔からずれたお面を直していた。
「……えっ!?」
「………」
「いや、なにやってんですか。キェルさん」
お面の向こうにあった顔は、ベレッタの顔ではなかった。
少ししか見えなかったが、キェルの顔だった気がする。
「私はキェルではない」
ずれた面を直した向こうから、キェルの声がした。
ベレッタだと決めてかかっていたが、疑いの目でよく観察してみると、ベレッタと比べてやや身長が低い気もする。
「いや……どう見てもキェルさんでしょ。一体、なにやってんです」
「………」
キェルはなにも答えない。
「もしかして、今までのもキェルさんの仕業だったんですか?」
だとしたら……えーっと、ベレッタは?
あたおかベレッタは……そもそも、存在しなかった?
つまり、大騒動になった最初の襲撃以降は、全部キェルの仕業だったのか?
そういえば、あれから二度襲撃されたが、いずれも顔どころか姿も確認していない。攻撃の主は、光線系の攻撃を撃ちっぱなして逃げていった。
あたおかベレッタは、なんで逃げるのだろう、とずっと不思議だった。今更ながら合点がいったというか、すとんと腑に落ちた感じがする。
キェルは寝込みを襲った。そこで攻撃が反射されるのを見て、単純に俺が起きていると思ったのだろう。それで暗殺を仕切り直そうと思い、今度は時間帯を変えて実行したのだ。
そういうことだったのか。
「……エレミア・アシュケナージに頼まれた。あなたを殺せと」
……なるほど。
あの野郎、そういう汚い手を打ってくるわけか。こういう手練の暗殺者を手駒として持っているから、枢機会議で閲覧が可決されても平気でいられたわけだ。
まったく、腹黒いことをしやがるぜ。
って、んなわけあるかい。
「そういう嘘、やめたほうがいいですよ。キェルさんって、そういうの下手なんですから」
「なら、そう信じて死ねばいい」
キェルは杖を構えた。
「下手な嘘って、逆に本当のことが類推できちゃうんですよ。あなたが、エレミアさんの手下なわけがない」
おれは確信を持って言った。
「あなたは神族なんだから」
◇ ◇ ◇
「なぜ――」
キェルは一瞬言って、仮面の上から自分の口を押さえた。
本当、こういう陰謀みたいなこと向いてない人だな。
「あなたのことを疑わしく思いはじめたのは、論文を読んだ時です。どう考えたって実地調査なしにはありえない研究なのに、以前言ってましたよね? ”ヴァラデウム産まれ、ヴァラデウム育ちで、学院領から出たことがない”って。どうして嘘をついたんだろう、と疑問に思ったのが始まりです」
あの会話は、学院の上層部ごく一部しか知らないはずの禁書の存在について、キェルが知っていたことを不思議に思い、探りを入れてみたときの会話だった。
あれは、とっさにごまかすために吐いた嘘だったのだろう。
根っからの地元育ちだから事情通なのだ、禁書の存在くらい知っていても異常ではない、と。
だが、あれはいけなかった。正体を隠したいのなら、とある研究室で盗み聞いたとか、少しは気の利いたストーリーを用意しておくべきだった。
「私自身はこの都市を出ず、他人を使って調べたのかもしれない」
「おれも、最初はそう考えました。資料蒐集のために骨を折った協力者がいたのかもしれない、とね。でも、それ以前の問題だったんですよ」
キェルはじっと聞いている。顔色は、仮面のせいで窺いしれない。
「あなたの研究は、亜竜の生誕地を辿るものだ。それは世界中くまなく散らばっている。疑問に思ったおれは、世界地図を広げて、紙上であなたの足跡を追ってみたんです。すると、あの論文のデータを蒐集するには、人類の住まう半大陸を最低でも四周はする距離を移動しなければならないことが分かりました。どれだけ他人を上手く使っても、五年や十年はかかる大仕事です。ところが、あなたの外見年齢は十七、八歳くらいに見える。どう考えたって、おかしな話だ」
四周、というのは、地図の上に定規を当てた直線距離に、縮尺を掛け算して出した数字だ。実際には道は曲がりくねっているし、整備されていない山野にも踏み込まなければならない。それを考えると、現実的には十周以上……最低でも二、三十年はかかる仕事とみていい。
まさかデータを捏造したのかとも思ったが、キェルの真面目な人柄からしてそんなことをしたとは思えない。それに、一つ一つのデータは細かく地質と照らし合わされていて、捏造とは思えない正確性を持っていた。
謝辞についても、生誕地近くの村や、別の本の著者へ向けたものだけだった。何年もデータ収集に携わった人間や、キェルが生まれる以前から研究をしていて、それを引き継いだ形ならば、謝辞や共同研究者として名を載せるはずだ。それを省くのは研究者としてとんでもなく非常識な行為に当たるので、キェルがそんなことをしたとは思えなかった。
考えるに、キェルは外見が変化しないせいで、定期的にヴァラデウムを離れる冷却期間のようなものを設けなければならなかったのではないか。論文の仕事は、その期間の暇つぶしにやったのではないだろうか。
「しかし命を狙われる心当たりはまったくなかったので、驚きましたよ。正体を知ったことが原因かと思って、さっきのはカマをかけてみたんですが、どうも違ったようですしね」
山神追跡で神族を探していたイーリの話だと、神族は正体を掴むと雲隠れするように姿を消してしまうらしい。
なので、とりあえずは泳がせておいたほうが得策かと思って放置しておいたのだが、まさか向こうから殺しにくるとは思いもしなかった。
一体全体、なにが原因でブチ切れてるんだろう。
神族に殺されるようなことしたか?
心当たりは聖剣くらいしかないが、キェルは剣神じゃない。ゲオルグから聞いていた外見的特徴と一致する部分が一つもない。
「…………」
キェルはなにも答えない。
「時期的なことを考えると、究理塔ですか?」
ベレッタの最初の襲撃の次、あたおかベレッタの仕業と思っていた最初の襲撃は、究理塔の修理に着手した直後に起こった。
その日は、キェルも管理官としてその場にいて、おれが壁に空けた穴を見ている。
「あなたはこの世界の害になる。抹消することにした」
害になる? 神族ってのは、この世界を管理しているつもりなのか……。
そういうのって、竜人の役目かと思っていた。
「……そう言われてもねぇ。一体、なにを罪咎としているのか。罪状を教えてもらわないことには――」
そう言ったとき、キェルは唐突に手に持った杖を作動させ、瞬く先端から光線を発した。
体の表面を熱さが横切る。ほどほどに温められた熱い鉄の棒を、一瞬服の上から押し付けられた感じだ。
ベレッタが使っていた魔術とは違い、これは単純な凝集光とはいえないコヒーレント光、つまりレーザーのようだ。今のおれの反射膜は96パーセントの反射率を持っているが、透過した4パーセントが体に当たっただけで熱さを感じた。
「それ、やめません? 対策できる相手に対しては危険な代物だって、分かってるんでしょ」
「………」
こういった技は、おれのように反射系の対策をする相手に対しては、自分が危険になる。
反射された96%の反射光は、それもまた光速度なわけで、跳ね返ってきたものを避けることはできないからだ。こっちもとっさの防御になるので、反射角を調整して意図的にぶつけるのは無理だが、偶然の被弾は常に起こりえる。
それとも、あの服はレーザーを吸収する仕組みでも備えているのだろうか。
「……場所を変えるとしようか。ここでは周りに被害が出る」
そういうの気にするのか。
「嫌ですね。そもそもキェルさんと戦う理由がありませんし。一体全体、どんな事情があってこんなことをしてるのか理解できかねますが、お世話になった恩も感じていますから」
「あなたを狩ることはすでに決定事項だ。ここら一帯の人々を虐殺するのは忍びないが、拒否するなら実行するのみ」
キェルは腰に下げていたホルダーから、なにやら拳銃のようなものを取り出しておれに向けた。
映画で見たような、いわゆるリボルバーとかオートマチックピストルのような形ではなく、グリップの上になにやら短くて太い四角い箱みたいなものが取り付けてある。
「それなら、戦いを拒否して逃げますよ。エレミアさんに通報すれば、ヴァラデウム中にキェルさんを指名手配するのは簡単です。そうしたらあなた、この都市ではなにもできないでしょう」
ホテルを変える作戦を始めてから、しばらく襲撃が途絶えていたことを考えると、キェルは探偵のような地道な調査でおれの居場所を突き止めているのだろう。
少なくとも、念じた相手の居場所が常に分かる――というような、不思議な魔術で追っているわけではないと思う。
だとすれば、指名手配をするだけで、ヴァラデウム内での活動はずいぶんと難しくなるはずだ。
「逃げようとすれば撃つ。この状態からでは絶対に避けられない」
「……やる前から無理だと言われてもね。おれも自分なりに力量に自信があるので」
避けられないということは、誘導系か拡散系の武器か?
避けるスペースのない狭い通路の途中にいた先程の位置関係ならまだしも、交差して位置関係が逆になった今、おれは広い部屋側にいる。左右どちらにでも避けられる今、「あなたがそう言うんなら無理なんですね。はい、諦めます」とはならない。
「………」
「困りましたね。平行線だ」
殺す気なら、とりあえず試しに撃ってみればいいのに。それをしないのはなぜだろう……。
ああ、後ろに新築の現象学部の宿舎があるからか。そこまで破壊が到達する攻撃なんだな。
「つまり、私とやりあいたくないわけか」
「それはそうでしょ。なんのメリットもない。得られるものが死なないという結果だけなら、キェルさんと戦うのも逃げるのも同じです。それなら逃げたほうが楽だ」
「はぁ……」
キェルはため息をついた。
「なら、あなたが勝つことがあったら、なんでも好きな情報を教えてあげる」
なに?
「不死業の解決法も?」
「それを私が知っているならね」
流石に引っかからないか。
神族から不死業の解決法を聞けるのか。俄然やる気になってきた。
「まあ、それならよしとしましょう。戦いましょうか。でも、本当に約束は守ってくださいよ」
「かまわない。どうせあなたは死ぬんだから」
よっぽどの自信があるんだな。
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