第007話 解決
それから丸一日が過ぎた日の朝、霊体励起をしてから五日後、ようやく魔都ヴァラデウムから数冊の本が届いた。
魔導書だ。
魔導書とは、特定の魔法や魔術の習得方法を具体的な形で本に纏めたものだ。
少し大きな街の本屋などには、火を熾す魔法や桶の水を凍らせる魔法などの魔術書が置いてある。田舎で生まれて魔術師になりたい者などは、まずは霊体励起をしてもらい、そういった市場に流通している便利な魔法から習得していく。
そういう入門編の魔導書というのは、薄い本か、あるいは一冊に幾つか魔法が載っているものだが、ルシェのためのそれはけっこうな厚さの本が二冊組みになっていた。
「ゲオルグさん、後のことは頼みます。私は部屋に籠もりますので」
ネイはそう言うと、本を両手に抱えて自室に入ってしまった。
氷くらいは出してほしいものだったが、少し面倒だがゲオルグが自分でできない仕事でもない。邪魔をするべきではないだろう。
ネイはその後、術式を変更する部分をたびたびイーリに尋ねに行ったりはしていたが、部屋にこもりっぱなしで習得に励んでいた。
ゲオルグは簡単な食事の提供などをしながら主夫のように働き、丸一日が経った。
◇ ◇ ◇
六日目の日が暮れ始めた頃、ネイが目に隈をつくりながら酷い顔で部屋を出てきた。
本が届いてから三十時間以上、徹夜で頑張りっぱなしだったのだろう。ネイはイーリのところには行かず、先にゲオルグに声をかけたようだ。
「ゲオルグさん」
「どうした」
やっと読み終わったのだろうか。
「習得したかもしれませんが、この体調では使えません。少しだけ睡眠をとりますので、一時間後に起こしてもらえますか」
「分かった。一時間後だな」
「お願いします」
ネイは再び自室に戻っていった。
しかし、痛覚の交換という目標はともかく、根本原因の究明の方はそれなりの知的作業なのではないだろうか。あんな体調でそれができるのか。
ただ、まあ、イーリがやる場合と違って、ネイはなんの犠牲もなく何度でも行えるのだろうから、試してみるだけ試してみたらいいのかもしれない。妙な気遣いをして三時間後に起こすなどということはしないほうがいいだろう。
ゲオルグは一時間後、ネイの部屋を一応ノックし、勝手に入ると気絶したように眠っているネイを起こした。
「起きろ」
「……はぃ?」
「お前が起こせといった一時間後だ」
ゲオルグがそう言うと、ネイは目をしかめて具合悪そうに起き上がった。
「大丈夫です」
ネイはふらふらしながらベッドの上で上体を起こし、ベッドに接している机から一枚の紙を取った。
机には昨日届いた本が置いてあるが、その回りには何十枚ものメモ書きが散乱し、板張りの壁にも何枚もの紙が貼り付けてあった。
「試験に付き合ってもらっていいですか?」
「試験?」
「ルシェの前にゲオルグさんで同じ魔術を試します」
なるほど。
「構わんぞ」
「では、ゲオルグさん、どこでもいいので自分の腕をつねっていてください」
「ああ」
ゲオルグは右手で左腕の上腕をつねった。
「頭を」
ゲオルグが無言で頭を差し出すと、ネイはその頭に自分の手を置いた。
要点を書き留めたものなのか、チラチラと紙を確認しながら集中している。
十分ほど経った頃だろうか。つねっている腕がいい加減痛くなってきたころ、ふいに痛みが消えた。
しばらくして、痛みが戻ってくる。
当たり前だが、魔力を交換するようなものではないようだ。
イーリが”感応”と表現したのは正しいような気がする。無理やり体の中身を入れ替えられたというより、音叉が共振するようにして感覚が交換された感じだった。
「成功です」
「やったな」
ゲオルグは思わず努力を讃えたい気分になり、親がするようにネイの頭を撫でた。
本来なら、たった一日で習得できる魔術ではないだろう。
努力――それも、ただダラダラと時間を投じるような努力ではなく、短時間に心血を注ぎ切るような努力が必要だったはずだ。この年齢でそれができたことは称賛に値する。
「ああ、すまん」
「いえ。ありがとうございます」
嫌がるかと思ったが、ネイは疲れた目で嬉しそうに微笑んでいた。
「早速、ルシェに試します」
ネイはよろよろとベッドの縁から降りた。
紙一枚を持って、壁に手を置きながらルシェの病室に向かう。
「イーリ様、成功です」
「……でかしたな。よくやってくれた」
イーリの方もこの数日で体力が削られていた。元々、意志は強いが壮健と言えるような体ではない。
頬が痩せこけて色濃い疲れが見えていた。
ゲオルグのほうはそこそこ元気だ。この数日は気を揉むことが多かったが、そもそも特に何をやっていたわけでもない。完全なる役立たずである。
「……しかし、その体調で出来るのか?」
「まずは一度やってみます。無理だったら休みますので」
「そうか。分かった。お願いするよ」
ネイはルシェが寝そべっているベッドの脇に腰を掛けると、ルシェの胸に要点を書き込んであるメモを置き、頭に両手をやった。
ルシェはおとなしくしていた。というか、長く続く苦痛のせいで、昨日あたりから何をやっても反応が鈍い。イーリは、精神が荒廃しはじめていると言っていた。おそらく悪い兆候なのだろうが、そのせいで暴れるのも収まってきている。
「いきます」
それから十分ほど、ルシェは猿ぐつわを噛んだまま目を強く閉じ、みじろぎもしなかった。
ゲオルグとイーリは、二人を一言もなく見守っていた。
「――えっ!?」
ネイは短く叫ぶと、唐突にルシェの頭から両手を離した。
ルシェの表情は変わっている。久しぶりに眉間から皺が消え、痛みも忘れたように唖然とした顔をしていた。
「ルシェ、あなた、どうなって――」
「むうっ!」
ルシェが猿ぐつわを噛んだまま声を出した。
「むうううっ!!」
「外して欲しいのか?」
ゲオルグが言うと、ルシェは激しく何回も頷いた。
素早くルシェの猿ぐつわを外すと、
「外につれてって」
と、明瞭な発音で言った。
目に力が宿っている。真剣で、一刻を争う頼みだということが目から伝わってきた。
「分かった」
ゲオルグは懐の鞘からナイフを抜くと、ベッドの生地ごとルシェを縛っている拘束を一文字に切った。
手早く四箇所の拘束を切断すると、おそらくまともに歩けないであろうルシェを荷物のように抱え上げる。
二人を一顧だにせず、ゲオルグは足早に部屋を離れる。そのまま靴に足を突っ込んで外に出ると、
「森の近くの地面におろして」
と言ってきたので、ゲオルグは言う通りに庭の端まで歩いた。
「ここでいいか?」
「うん」
ルシェを地面に下ろすと、ルシェはうつ伏せになって両手両足を広げ、べったりと地面にくっついた。
意味がわからない。
なにかルシェなりに合理的な考えがあって頼み事をしたのだろうが、土の上に寝かせるだけで治るのであればイーリもあんな苦労はしなかっただろう。
「こっちのほうがいいかも」
ルシェは両手両足を使ってわずかに這い、すぐ近くにあった木の根っこに腰を下ろして幹に抱きついた。
やはり意味がわからない。
さっぱり状況が理解できず、ゲオルグは何をするでもなく立っているくらいしかできなかった。バラバラの靴紐を結ぶくらいしかやることがない。
頭がおかしくなっているなら、木から引き剥がして連れて帰ったほうがいいのだろうか、と思案しながら立っていると、杖をついたイーリとネイがやってきた。
「……なるほど」
イーリが言った。
「何がなるほどなんだ。さっぱりわけが分からん」
これほど珍妙な状況はここ十年で体験したことがない。
「問題は、ルシェの体内に充溢していた魔力だったようだ。つまり、彼が元いた世界から持ってきて、水筒の中の水のように体内に残っていた魔力だ。それがどうやら人間に扱えるような性質の代物ではなかったらしい」
「ふうん……そうなのか。それを今どうしてるんだ?」
「この世界の魔力と交換しているのだろう」
木に抱きついてか。
「交換し終わったら万事解決ってことか?」
「おそらくね」
なんだ。
そんなことで済む話だったのか。てっきり、治癒不可能な死病のようなものに罹ってしまっているのだと思っていた。
希少な霊薬も難解な魔術も何も必要なく、木に抱きつけばよかったとは。見込み違いというか拍子抜けというか、なんとも間抜けな話である。
「ネイに触れたことでそれに気付いたのか」
「自分が戦っていたものが、そもそも全く性質の違うものだったことが直感的に分かったのだろう。木に押し付けるというのはいい手かもしれない」
普通、魔力というのは自然界に漂っているものを勝手に吸収し、霊体の中に勝手に貯まっていくものだ。
貯まった魔力は水瓶に貯めた水などとは違って劣化したりしないので、定期的に入れ替えたりする必要はない。なので、吸収された魔力は全て魔法や魔道具を使い消費するという形で出ていく。
ルシェの中に入っている異質な魔力は、魔法などの形にして消費することが出来ないので、ああやって別の何かに吸収……交換しているのだろう。
「あちらから持ち込んできた魔力が問題だったとは。私としたことが、まったく盲点だったよ。ふがいないことだ」
「イーリ様のせいじゃありません。誰も発想すらしないことだと思います」
ネイが言った。
「おまえはルシェの魔力とやらの性質に触れたのか? どうだったんだ?」
「え? まあ……こちらの魔力が清流から汲んできた水だとすれば、腐った魚から滴り落ちた真っ黒い汁みたいなものですかね。触れるのもおぞましい感覚のものでした。あんなものが霊体に充溢していたのなら……それは、ああいう反応になるのも当然かもしれません」
どうも毒薬のようなものが霊体いっぱいに入っていて、霊体励起によって意識と通路が繋がってしまった。というような話らしい。
しかし、それならばその毒を木に流し込むのは大丈夫なのだろうか。何本か木が枯れるだけで済むのならいいが、毒が地面に染み込んで土地を枯らすようでは問題である。
まあ、そうしたら引っ越せばいいだけの話か。
「二人とも疲れただろう。ルシェのことは俺が見ているから、家の中で休んでいていいぞ」
「ああ。悪いが、そうさせてもらおう」
「お言葉に甘えます」
その時、遠くから風の鳴るような音が聞こえた。