第006話 治療
ルシェのケースはやはり異常だったようで、通常はとっくに痛みが過ぎ去っている一両日が過ぎた後でも、まったく痛みが衰える様子がなく苦しみ続けていた。
「ウッ! ウ゛ウウーーーーーーッ!!!」
両手両足はベッドに縛り付けられ、頭には氷嚢が載っている。
試行錯誤の末の策だが、冷たい氷嚢を載せておくと頭の深部まで達する冷感で痛みが和らぐらしい。
「大丈夫だ。きっと良くなる」
イーリはベッドの横の丸椅子に座り、ずっとルシェの手を握っている。
十歳程度の子どもの手とはいえ、尋常でない苦痛を紛らわすために限度を超えた力で握っているものだから、イーリの細い手は握りつぶされんばかりに歪んでいた。
「汗を拭くよ」
イーリはルシェの苦しみに歪んだ顔を、濡れた布で拭いた。正確には、汗というより口から溢れ出した涎で汚れているのだが、汗を拭くと言ったのは彼女なりの気遣いなのだろう。
顔から首を清め終わると、イーリは再び椅子に戻った。
「他に、なにかしてほしいことはあるか?」
イーリがそう尋ねると、ルシェは弱々しく首を振った。
昨夜はもう一度気絶させることで眠らせたが、早朝に起きてから半日以上苦しみ続けている。
当然、食事ができるような体調ではないので、もう丸々二日以上何も食べていない。その状態で力の限り暴れているので、体力がなくなってきている。
食事はドロドロにした粥を眠った隙に胃に流し込んでいるが、このままでは精神が荒廃して廃人のようになってしまいかねない。
その顔を見たイーリは、ルシェの手を握りながら、考え込むように俯いた。
「ルシェ……かなり時間が経ったけど、痛みは少しは和らいできたかい?」
ルシェは首を振った。まるで和らいでいないということだろう。
ゲオルグの脳裏に、何度目か知れない発想がよぎった。死にはしないまでも、意識が覚醒している時間ずっと計り知れない苦しみに耐えなければならないのなら、殺してやったほうが慈悲なのではないか。
当然、それは今の段階では考慮すべき手段ではないが、あと数日経てば生きている限り永久にこのままという可能性も高まってくるだろう。
「分かった……じゃあ、少し待っていてくれ。楽にしてやる方法を思いついたから。もしかしたら、上手くいくかもしれない」
「――なにっ!?」
部屋の隅で椅子に座っていたゲオルグは、思わず跳ねるように声を出してしまった。
「そんな方法があるのかっ?」
「自分の痛覚を他人に移し変える魔術がある。本来は戦闘で大怪我を負ったとき、近寄ってきた敵の一人を無力化するために使うものだが、術式を逆転させれば他人の痛みを自分に移し変えることもできる、かもしれない……」
それを聞いて、なんだ、という失望の言葉をゲオルグは飲み込んだ。
「……そうか」
それでは根本的な解決にはならない。
ただ、一時的には楽になるだろう。痛みが楽になっている間に食事を摂ることもできるだろうし、無駄ではない。
「――じゃあ、ちょっと待っていてくれ。本を取り寄せなければならないから、少し文を書いてくる」
イーリはそう言って、握っていた手から力を抜いた。
イーリはずっとルシェの側に付いていたので、ほとんど眠っていない。
励ますことはできるにしても、頭を使う難しい仕事が出来るような状態ではない。
ゲオルグは幾らか眠ったので、そのうち交代して介護をすることになるのだろう。
「うぅ……」
だが、ルシェは力を抜いたイーリの手を離さないでいた。
イーリにどこかに行ってほしくないのだろうか?
「……そうか、そうだな。じゃあ、ここで書くことにするよ。書き物をする道具はあるから」
しかし、イーリの口ぶりから察するに、やろうとしているのは精神を操作する魔術のようだが、そんな術を使ってイーリは大丈夫なのだろうか。
それに、イーリがその系統の魔術を扱えるというのも聞いたことがない。
精神操作の魔術は、戦場では敵兵の尋問など様々な場面で重宝される。だが、どうも魔術の中でも特殊な領域らしく、中級以上の魔術師が大勢いるような戦場でも、重要な情報を引き出したい時には専門の魔術師が連れてこられる。
ゲオルグは、ベッド横にある小机に手紙を書く道具を揃えて置いてやると、
「――氷が溶けてきたな。少し足してくる」
そう言って、氷入れに使っているボウルと、布が入っている籠を持って部屋を出た。
◇ ◇ ◇
「すまんが、ちょっと手伝ってくれ」
ゲオルグが、リビングに座っているネイに言うと、ネイは嫌そうな顔をしてこちらを向いた。
「……なんで私が」
「そんなところでドアを睨んでいるより、体を動かしたほうが気が紛れるぞ」
「………」
「ま、嫌なら無理にとは言わんがな」
無理に手伝わせるつもりがないのは本当だったので、ゲオルグは少しも待たず外に向かって歩き始めた。
「……手伝います」
ネイはすぐについてきた。
氷嚢から滴る結露で濡れてしまった厚手の布を手に取り、軽く絞ってウッドデッキの物干し竿に干していると、ネイは無言でそれを手伝った。
と言っても大した量ではない。十枚程度干すのに時間は要しなかった。
「――ふう」
ゲオルグは、そのまま置きっぱなしになっていた椅子に座った。時刻は昼を少し過ぎたところで、太陽は天頂からやや西に傾いていた。
熱くもなく寒くもない、いい日よりだ。不快にならない程度の風が、洗濯物を揺らした。こんな状況であるのに、気持ちが晴れていくような天気だった。
「氷は作らなくていいんですか?」
「あと三十分はゆうに持つだろうよ。少しくらい休んでも問題ない」
「……そうですか」
ネイはゲオルグの近くの椅子に座った。ドアを眺めに戻りはしないようだ。
「イーリがあいつを気にかけるのが気に入らないのか?」
とゲオルグは尋ねた。
「……いえ、そういうわけでは。でも、私が代わるといっても離れようとしないし、少し彼に入れ込みすぎているように思えるだけです」
「そういえば、イーリが自分が親代わりと言った時、お前は随分と怒っていたな」
「怒って……? 怒ってなどいません」
あの時のネイは確かに怒っていた。ささやかだが鋭い反感のようなものを確かに感じた。
ゲオルグはその手の攻撃的な感情には敏感である。相手がにわかに敵意を発した次の瞬間、刃を抜いて斬りかかられた経験が何十回とあるからだ。
あの時のネイの敵意はそんな大げさなものではないが、イラッとはしていただろう。
「新しくできた弟に親を取られそうになった姉……みたいな感じか」
ゲオルグがそう言うと、ネイは少し眼を見開いて驚いたような顔をした。
「いやいやいや、違います!」
自覚していなかったようだが、図星だったようだ。
「別に恥じることはない。皆そうなるものだというしな」
「違います! そんなちっちゃな子供みたいな! 違いますから!」
「そうか。すまん、おれの勘違いだったようだ」
勘違いなわけがないが、ゲオルグはそう言っておいた。
「そうです! 勘違いですから!」
「……まあ、あんまり嫌ってやるなってことだ」
ゲオルグは遠くに生える木を見ながら言った。
「お前だって勝手に別の世界に召喚されて、もうこっちの世界には戻せないし、イーリとも一生会えないが諦めろと言われたら辛いだろう。あいつが元いた世界はろくでもないところだったようだが、それでもせめて親身になってやるのが良心というものだ」
「……それは分かっていますよ。だから、ちゃんと言葉を教えたりしてたじゃないですか」
「そうだな――ああ、そろそろ氷を持っていかないとまずい。作れるか?」
別にゲオルグが作ってもよいのだが、面倒だった。
ゲオルグは魔術が使えない。愛用している五本のツララはあるが、付呪具というのは魔力を流したら一定の動作をするものなので、自動的に五本の氷の矢が射出されるところまで動いてしまう。氷の矢を作ったところで止めるといった融通の利いた使い方はできない。
「いいですよ」
ネイは事も無げに言うと、先程干した布のところまでボウルを持っていった。
氷を形成する魔法は大気中の湿気と関係が深い。暑い夏場より、むしろ気温の低い冬場のほうが形成が鈍かったりする。ネイは出来るだけ水気の多いところに移動したのだろう。
左手で持ったボウルに右手で手をかざすと、適切な大きさの氷が次々と形成され、大粒の雹のようにカラカラと落ちていった。
「はい、これでいいですか」
「ありがとう」
「構いませんよ。こんなことなら幾らでも申し付けてください。イーリ様は私がやらなかったらご自身でやると言い出しかねませんからね」
「いや。忙しくてそれどころではないだろう。何やら、ルシェの痛みを自分が引き受ける魔術を開発すると言っていたからな」
「――ハ?」
ネイは、素っ頓狂な声を上げた。
「他人の痛みを引き受ける魔術を作って、ルシェに施すと言っていた。まったく、あんな体調で無理をするものだ」
◇ ◇ ◇
「イーリ様!!」
扉を破るような勢いで部屋に入ったネイは、イーリの名を呼んだ。
「――ネイ、どうした。あまり騒がしくしないでおくれ」
口を抑えるジェスチャーをしながら、イーリが言った。ベッドを見ると、ルシェは死んだように脱力している。眠っている、というか消耗して気絶してしまっているようだ。ゲオルグが部屋を出たとき握っていた手は離していた。
ネイは一瞬怯んだような顔をすると、手をルシェの方に向けて魔法を使った。
「これでいいでしょう。声は聞こえないはずです」
ルシェの頭の周囲に空気の断層を作ったのだろう。声は空気を通って伝わるため、空気の薄い層を作ると音を遮ることができる。
ずっと続けていると窒息してしまうが、今は安らかに眠っているので、しばらくは大丈夫なはずだ。
「どうした?」
「そこにいるルシェに魔術を使うつもりなんですか?」
「そうだよ」
「そんなの絶対に駄目です。根治するならまだしも、いやそれでも駄目ですが、ただの気休めのために魔術を使うなんて」
やはりイーリは魔法を使えるようだ。使えるが、それをするとなにかまずいことになる。そんな口ぶりに聞こえる。
「元より、私の命は母なる大樹と一緒に尽きたようなものだ。惜しむようなものじゃない」
「惜しんでください。イーリ様はミールーンに……いえ、この世界にとって必要な人です」
「ルシェにも私が必要だ。私はこの世界に責任はないが、彼に対しては責任がある。ネイ……聞き分けておくれ」
「ぜったい、許せません」
ネイは頑なだった。
「どうしてもやるというなら、私がやります」
「……駄目だ」
イーリに断られたことで、ネイは唖然とした顔になった。
意図的にネイをけしかけたゲオルグ自身も似たような顔をしていただろう。なぜ駄目なのだろうか?
「なぜですか? 意味が分かりません。イーリ様は死にたいのですか?」
「ネイにやらせるわけにはいかない。そもそもの目的は、ルシェと感応することで根本的な原因を突き止めることなのだ」
ああ、そうだったのか。と腑に落ちる思いがした。
単なる一時しのぎのために大きな犠牲を払うというのはどうしたものかと思っていたのだが、そういう理由があったわけだ。
「……それに、ネイにこの苦痛を与えるわけにはいかない。この痛みは、おそらく人間に耐えられる限度を超えている」
まあ、確かにそれはそうかもしれない。
人間がそう簡単に痛みに耐えられるなら、拷問で情報を吐く者などいない。イーリはネイの精神の健康を慮って言っているのだろうが、もし一分も持たずに屈服してしまうなら、試みる意味は薄いだろう。時間も無駄になる。ルシェが廃人のようになってしまってから工夫を講じても意味がない。
「ふざけないでください。イーリ様のためなら苦痛なんて耐えてみせます。それに、私だって魔導の徒の端くれです。原因を探るくらい朝飯前です」
ゲオルグにはネイの魔術の技量を知らないので、ネイの発言がどの程度の現実性を兼ねたものなのかは判じかねた。
イーリの身を案じて無謀なことを言っているだけかもしれない。
「私は……今のネイには難しいと思う。かなり難易度の高い魔術になる」
「できなくてもやってみせます。イーリ様がやるというのは絶対に看過できませんから。もし断わられたら、私はあらゆる手段を使って妨害します。親子の縁を切られても構いません」
ネイがそういうと、イーリはネイの顔をじっと見据えた。覚悟の程を計っているのだろう。
「ゲオルグ、どう思う?」
イーリはネイの顔を見ながら言った。
「門外漢のおれには分からんよ。おまえが一番の専門家だ。判断ができるのはおまえしかいない」
それはネイを応援するとかではなく、正直な答えだった。判断などできるわけがない。そんなことはイーリが一番よく分かっているはずだ。問いかけ自体がイーリらしくない。
イーリも疲労困憊して、判断力が鈍ってきているようだ。
しばらくすると、
「はあ……」
と、イーリは深くため息をついた。
意を決したようだ。
「分かった……そこまで言うのならやってみなさい。ただ、できなかったら私がやる。そのつもりでいてくれ」








