第059話 概念炉
翌日、目が覚めると、頭にかかっていたもやが晴れたような、さっぱりとした気分だった。
昨日のデートで買ってきていた豪華な朝食を摂っていると、玄関のドアがノックされたあと勝手に開かれ、ベレッタが入ってきた。
「おはよ」
「おはよう」
挨拶を交わして、色々な朝の準備を済ませて居間に戻ると、ベレッタは手順をまとめた本を読みながら待っていた。
「じゃ、始めよっか?」
「うん」
おれは昨日のデートで最後に買い、二人で運んできた寝椅子に座った。
一番楽に寝れる形のものを選んだだけあって、寝心地は最高に良かった。まだ少しも潰れていない柔らかなクッションが背中を包み込む。
「私は手順を読み上げるだけで他にすることないし、周りの音を消しとこっか?」
「ああ、それ助かる」
「じゃ」
と、ベレッタが小さく声を上げた瞬間、部屋の外から響いてくる喧騒が、スピーカーの電源をオフにしたようにスッと消えた。
まるで雪原の真ん中に立っているようだ。ベレッタのかすかな吐息や、自分の心臓の音が聞こえてきそうだった。
おれは寝椅子に体を預け、目を瞑った。
「開始前チェックリストを読み上げるよ。周辺環境は問題ないね。体調はどう? どこか痛いところはある?」
「ない。極めて快適」
「意識明晰度チェック」
おれは単純な走査用の魔術を走らせた。
「理論値の92.8パーセント。朝ごはんの後だからちょっと落ちてるね」
「もうちょっと休む?」
「大丈夫。序盤はそんなに集中力は必要ないから」
「じゃ、続けるね。装備品チェック」
ポケットの中に手を入れて、中身がないことを確認した。
「おっけー」
これは決まった装備を整えるものではなく、付呪具を持っていないことを確認するものだ。万一魔力が通ると、暴発する危険がある。
「γ波チェック」
「おっけー」
「心理三層チェック」
「表層活性度62パーセント、深界一層活性度6パーセント、大深度境界面活性度98パーセント」
「ちょっと緊張してる? でも、深層心理が活発じゃなければ問題ないか」
深層心理の活動が激しいと、操作の途中であらぬ現象を引き起こす可能性がある。6パーセントなら正常高値の範囲内だ。気性の激しいヒステリックな人は常時40パーセントくらいはいくらしい。
「問題ない。進めて」
「これで開始前チェックリストは終わりだよ。ファーストプロセスに進むね」
「うん」
「ファーストプロセス、全魔術停止、鳴動速度検査」
おれは走査用の魔術を走らせて、霊体に波が伝わる速度を調べた。
「……完了」
「相貌区画特定」
「完了」
以前に何十回も調べ尽くした領域なので、これはすぐに分かる。
「ソリッドモデル照合」
「……うん。一致した」
ここまでは何十回も行った予備診断だ。
「こっからだね。領域内意味消失処理」
「意味消失処理開始」
相貌区画の性質に合わせてデザインされた処理プロトコルが、区切られた領域内を蚕食するように消していった。自覚できるような痛みや損失感はなかったが、確実に、自分の中からわずかなものが永久に失われていく。
「……終了。意味消失した」
ここからはぶっつけ本番だ。
「セカンドプロセスに入るよ。領域属性上書き処理」
「うん」
おれは刷毛で塗るように、意味消失した範囲を塗り替えていった。
実際やってみると、広い畳の部屋に一畳だけ、タイルの部分があるような違和感が生まれた。だが、畳の上ではできない処理をするための領域なのだから、それは仕方がない。少し嫌な感じではあったが、しばらくすれば慣れるかもしれない。
領域属性上書き処理には二十分を要した。
「……終了。無事書き換えた」
「次は……エンドプロセスだね。仮想人格構築、辺縁系からって書いてある」
「そこからは朗読しなくていい。つかえたところがあったら質問するから、場面場面で付箋が張ってあるところの注記だけは朗読して」
「分かった。じゃあ、しばらく黙るね」
ベレッタが静かになったあと、おれは構築に没頭していった。
◇ ◇ ◇
「……動作テスト完了」
「これで全工程終わりだね。おつかれさま」
すぐに声が返ってきた。うつらうつら眠ってしまってもおかしくないような時間が経っていたはずだが、ずっと集中してくれていたらしい。
おれは目を開いて、久々に天井を見た。当たり前だが、視野はおかしくなっていたりしない。
「今何時?」
「午後の九時だよ」
十三時間もかかったのか。
「ああ、ずいぶん時間がかかったね」
そう言いながらベレッタのほうを見ると、そこに見知らぬ少女がいた。
一瞬頭が錯乱し、とっさに脳が記憶の中からベレッタに関する情報を参照した。クリーム色の髪、褐色の肌。完全に情報の整合性は取れているのに、顔にまったく見覚えがない。毎日のように会っているベレッタの顔を知らないはずがないという直感的な理解に反しているせいで、反射的にベレッタの姉妹かもしれない、という単純な推理が頭をよぎった。
しかしベレッタには妹はいない。姉は自殺している。
「………」
「私の顔、忘れちゃったんだね」
はじめましてのおれの表情を見て、ベレッタはなにもかもを察したようだった。
「……ごめん」
「いいよ。どうでもいい人から忘れていくわけじゃないってこと、理解してるし」
「うん。でも、ごめんね」
自分に当てはめて考えたら、やはり悲しい。
「それじゃ」
ベレッタは寝椅子に座ったままのおれに近づき、顔を寄せた。
「なに?」
「………ちゅっ」
と言いながら、ベレッタは軽く唇同士をくっつけた。
「これでもう忘れないでしょ?」
そう言ったベレッタの顔は、ちょっと照れているような気がした。
「……うん」
「これ以上は駄目ね。葛藤がきつくなっちゃうから」
葛藤?
「さ、お腹すいたでしょ。ご飯いこ」
「こんな時間にやってる店あるかな」
「お酒を飲むところでご飯食べればいいじゃん。ルシェと二人なら、危なくないっしょ」
いや、ベレッタ一人でも危なくはないと思うが……。
「そうだね。じゃあ行こうか」
出かけ際に、ゲオルグの肖像画を見てみると、きちんと顔を覚えていた。
よかった……。
◇ ◇ ◇
翌日、ベレッタとの待ち合わせの十字路で待っていると、唐突に背中から声をかけられた。
「おはよっ!」
「うわっ」
聞き覚えのある声にびっくりして振り返ると、そこにベレッタがいた。
「どうしたの?」
「いや」
本当にどうしたんだろう。
なぜ、おれはびっくりしたんだろう。自分でも不思議に思って、思い当たるフシを探した。
そのフシはすぐに見つかった。ベレッタがこちらから来るはずがない。ベレッタの借りている部屋から一直線に来た場合、十字路の反対方向からやってくるはずだ。特に意識はしていなかったが、だからおれはそちらを向いて待っていたのだ。
「ベレッタ、どっから来たの? 家は?」
「ああ、こないだ引っ越したんだ」
「え、そうなの」まったく知らなかった。「言ってくれれば手伝ったのに」
「べつに手伝うことないもん。荷物少ないから二往復で済んじゃったし」
そうなのか。
「まあいいや。じゃあ行こうか」
「うん」
二人で歩きはじめる。
今日は少し遠出する予定だった。概念炉のテストをするのだが、例の音波吸収力場を塔公園でやると書庫の司書に露見する可能性がわずかながらある。
なので、念には念を入れて外縁部にある貯水湖まで行く予定だった。
「なんで引っ越したの? 刺客に家がバレたとか?」
「うーん、そういうわけでもないんだけどねー。ご近所付き合い的な?」
「あー、そっちか」
近所付き合いといっても、ヴァラデウムは人の入れ替わりが激しい都市なので、都会的な無関心があるように思うが……。
おれなんか、全壊した前のアパートも、今のアパートも、近所付き合いなど一つもなかったし。
ただ、ベレッタの場合は魔族特有の魔力を持っているので、隣人がそこそこデキる奴だったら魔族とバレてしまう。そういう意味でのトラブルはありそうだ。
「ま、今度はトラブル起きない家を借りたから。ちょおっとボロいけど」
「そうなんだ。まあ、お金で解決できることはどんどん解決してったらいいよ」
「うん。それで、イーリさんの件は今晩やるの?」
「いや、明日にする。どうも、日和見の予測では明日は一日中雨らしいから」
日和見というのは、気象予報士のことだ。衛星など使っていないのであまり当てにはならないが、ヴァラデウムのそれは結構当たる。例年のデータと湿度や気圧、雲模様から判断しているらしい。
「あー、そしたら多少は連中の勘も鈍るかもね」
「うん。屋根に対策が施してあるかもしれないけど、それでも条件が良くなることに変わりないしさ」
「それじゃ、上手くいったら明後日にはこの街を出るわけ?」
「……それもそうだね。そうなるかもしれない」
少し心残りなことに驚いた。住めば都というか……いつのまにか、この街での生活に愛着を抱いていたらしい。
「まったくお話にならない、無益な内容だったらすぐに出発するかも。有益だったら、検証のために少し留まるかもしれないけど」
「ま、今から考えても仕方ないか。上手くいくよう頑張ろうね」
「うん」
ここ最近のぬるま湯のような生活に馴染んでしまいそうだったが、それではいけないのだ。
イーリの症状に猶予はないのだから。
◇ ◇ ◇
貯水湖は、周辺が遊歩道で整備されており、ちょっと風光明媚な池だった。
都市の水不足に備えて作られたもので、生物相は重視されていない。たまに高威力の魔法を水中にぶっ放して威力を測るのに使われているらしい。
「どう?」
ベレッタの口が動く。体の周りに真空の層を作っているので、その声は伝わってこない。
そうしているベレッタに対して、目を閉じて超音波を出す、つまり、夜帷書庫の司書がやっていると同様のことをすると、なんだかすごく違和感のある、不思議な像が返ってきた。
手でバッテンを作ってベレッタに見せる。
「やっぱだめ?」
ベレッタが言った。魔術を解いているので、今度は聞こえる。
「うん。真空っていっても完全な真空じゃないからかな。微妙に反響波みたいのが返ってくるみたい」
「そっか。それじゃダメだね」
真空といっても、ベレッタがやっているのは百分の一気圧くらいにしているだけだ。その程度なら大したエネルギーは必要ないが、百万分の一気圧とかの真空を作ろうとすると、膨大なエネルギーが必要になってしまう。
他人の体を切断するような風魔法ではそういう真空を作ることもあるが、体の周りに数時間も展開していられるようなものではない。
「これしかないか」
両手の間に、音波を吸収する膜を展開させる。昨日からの作業でようやくできたが、これを体全体に巻く方法はまだできていなかった。
「それでいいんじゃん? よくできてるよ。そこだけ空みたいに抜けて見えるもん」
「原理は簡単なんだけどね。小さい四角錐を並べてるだけだし」
「四角錐?」
「うん。四角錐の剣山が、隙間なく整列してるところを想像してみて。そこに波を当てたら、どの方向から来ても、かならず錐の側面に当たるでしょ? それで、錐の突角が一定以上鋭かったら、奥のほう奥のほうへ反射していって、元の方向には返っていかないよね」
「あー……それなら、ある程度以上吸音性があれば、跳ね返ってるうちに消滅するってわけか。音が底なし沼にはまるみたいになって、出てこれないわけだ」
「そうそう。一回の反射で完全に吸音する方法を考えると難しそうだったからさ、構造から攻めたほうが簡単かなって」
無響室などに使われている仕組みだ。
これで体を囲むとなると少し難儀だが、まあ、今日明日頑張ればなんとかなるだろう。
「それはいいとして、概念炉のほうはどう? 上手く動作してるの?」
「うん。実際動かしてみたら、ちょっと手直ししたいところはでてきたけど」
仮想人格のほうは、あとから修正できる仕組みになっている。
「ねえねえ、なんか楽しそうなことして、ちょっと遊んでみようよ」
ベレッタは概念炉の効果について興味津々のようだ。
まあ、せっかく作ったんだし、ちょっと遊んでみてもいいか。
「そうだなー、例えばだけど……こういうふうに空気を閉じ込める作業とかさ」
おれは両手の間で大気をどんどん固めて、高圧を作っていった。吸い込まれる空気が軽い風になり、頬を撫でる。両手の間にある小さい球は断熱圧縮で高温になり、更に魔力を注ぎ込んでビー玉くらいの大きさにすると、超高圧下でプラズマ化して光を放ち始めた。
こうなってくると、逆に処理をするのが難しくなる。この場ですべての魔術を解除すると、自分もただでは済まなくなってしまう。
「こういうことをするとさ、この状態を維持しながら同時に他のことをするのが難しくなっちゃうけど、概念炉を使うと簡単に処理を丸投げできちゃうんだよ。本当なら開発するのに時間がかかるような魔術も、遊び半分に実現できちゃうんだ」
おれは超高圧を作っていた処理を概念炉に放り込み、磁界を形成する別の魔術を編み始めた。
プラズマ球を磁界で包み込んで安定させ、そのまま砲身にして湖の水面に向けて投射した。
プラズマ球がヒュッ――と手の間から掻き消えた瞬間、湖のほうからボンッ! と派手な音がした。
超高温のプラズマは、湖の水に当たった瞬間、周囲の水を爆発的に沸騰させた。そのまま水の間を突き進んでいき、三十メートルほど先で勢いを失うと、本来の姿に立ち返った。
わずかな地響きを伝えながら、どぉん――! と、巨大な水柱が出現した。
「思ったより派手になっちゃった」
まずいことになった。水柱は、原因となったプラズマを投擲した主の方向に向かって、見れば分かる感じの尾を引いていた。途中で爆発的に水蒸気を発生させながら突き進んだためだ。
これから起こることを予見し、ベレッタが雨傘の代わりになる魔術を編み、二人の頭の上に展開させた。
「わぁ……すっごく綺麗だね」
なんのことだろう、と思って水柱のほうを見てみると、水粒とはまた違った粒子が混ざって、キラキラと輝いていた。
たしかに、そこには美しい光景が出現していた。
水柱のてっぺんが太陽の光を背に受けて、そこだけ七色の刷毛でサッと塗られたように、あざやかな虹色に彩られていた。
彩雲だ。本来なら、なかなか珍しい気象現象である。
「偶然が重なったね」
「わざとじゃなかったの?」
「違うよ」
プラズマ弾の原料となった空気が持っていた熱量は、湖に突っ込んで大量の水を沸騰させたことで急速に失われた。それから元の体積に戻ったのだから、そこには必ずつじつま合わせが起こる。すでに冷えていたものが、断熱膨張によって更に急激に冷えた。そのせいで、巻き上がると同時に周囲の水滴を凍りつかせたのだろう。キラキラときらめき太陽光を反射させていたのは、氷の粒だ。
起こった現象を見た後なら分析はできるが、やる前はそんなこと考えていなかった。
見ていると、気温で微細な氷の粒が溶けて条件が変わったのか、虹色の彩雲は白昼の幻覚であったかのように姿を消し、水柱は重力加速度に従って崩れ落ちていった。
ぱたっ、と雨が落ちる音が聞こえると、すぐにざあざあと水が降り注いできた。
「犯罪じゃないと思うけど、一応離れようか。目立ちたくないしさ」
「そだね」
そう言うと、見えない傘で雨を弾きながら、おれとベレッタは湖をあとにした。
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