第003話 名前
ゲオルグがこの家に来てから四日目の朝。
「ゲオルグ、これなに?」
少年は皿の上に乗っている、指先ほどの大きさの紫色の果実を指さした。
「ああ、これはカルーラベリーだ」
「かるーらべりー。おっけー」
そんなやりとりをしながら四人で朝食を摂っていると、
「ゲオルグさん、その子の名前はなんと言うんですか?」
と、ネイが唐突に言った。
ゲオルグは不意を突かれた思いがした。そういえば聞いたことがない。この家の中に年少の男は一人しかいないので、少年という呼び方で十分事足りていたからだ。
ここまで言葉を喋れるようになったのなら、普通に名前を聞くことはできるだろう。
「聞いていなかった」
「じゃあ、聞きましょう。あなたの名前は?」
「なまえ?」
少年は少し嫌そうな顔をした。
なぜだろう。
「えっと……私の名前はネイです。あなたの名前はなんですか?」
ネイは非常に分かりやすい文法で言葉にした。今の少年の理解力であれば十二分に理解できるだろう。
「ない」
少年は物凄く嫌そうな顔をして首を振った。少年がここまで感情を露わにするのは初めてである。
「ない……? それは、一体どういう……?」
ネイは困った顔をしてゲオルグのほうを見た。ゲオルグにもさっぱり理解できかねる。
どのような人間であろうと、名前というのはあって当たり前だ。
ゲオルグはこの大陸の津々浦々まで旅をしたが、幼児でもないのに名前がついていない人間というのは出会ったことがない。
かなり酷い扱いの、人間扱いされていない奴隷であっても名前は持っていた。名前とは何かを固有に呼ぶための名称であって、番号で呼ばれていようが名前は名前だ。
無人島で生まれ、死ぬまでずっと家族数人で暮らすのなら名前など必要ないのかもしれないが、多少なりとも社会と交わって生きていくのであれば名前がなければ不便で仕方がない。
「言いたくない。えと……たいせつなひと以外にはなしちゃいけないことになってる」
ごくごく一部の魔術師連中がやっている、呪いを恐れて真名を隠すみたいな話だろうか?
だとしても、日常使う通り名のようなものは持っているはずだ。
こちらは名前がわからないのでは日常生活が不便だから教えてくれと言っているわけで、別に言いにくいなら真名など教えてくれなくてもよい。
ただ、ゲオルグには少年がその程度の会話の流れを理解していないようには思えなかった。
「ふむ……なるほど」
そう言ったのはイーリだった。眼鏡の奥の目は、深海のような底知れなさをたたえて少年を見ている。
何かを洞察したのかもしれない。
「ならば、新しい名をつけてあげようか」
イーリが言った。
「うん、それがいい」
「分かった。なにか考えておこう」
そう言うと、イーリは食事に戻った。
やはり、まだ元気が戻っていない気がする。食欲が無いのか、少しづつパンを千切っては口に運び、長い時間をかけてこぶし大ほどのパンを一つ食べ終わると、ネイに肩を支えられながら寝室へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
ゲオルグが庭のウッドデッキに座って少年と話していると、ネイが現れた。
本を抱えている。
「お話し中でしたか」
「うん、そう」
少年が屈託なく答えると、
「言語学習の手伝いは必要ありますか?」
とネイは言った。勉強の手伝いをするために来たようだ。
「イーリの世話をしなくてもいいのか?」
「身体的な体力は戻ってきたので、瞑想をして霊体を癒やすそうです。雑音がないほうが捗るので、こちらを手伝ったらどうかと言われました」
そう言いながらも、ネイはあまり気が進んでいないようだった。
イーリに言われたからやるが、必要ないと言われれば何か別の仕事を探すのだろう。
ネイは見習いの魔術士であるはずなので、放っておけば自分も瞑想行を始めるのかもしれない。
瞑想行は魔法使いにとって基本的な修練で、魔法の根源となるところの自分の霊体と黙して向かい合い理解を深める目的で行う。
イーリは変化してしまった自分の霊体との付き合い方を探ろうとしているのだろう。
「そうか。なら、頼む」
ゲオルグはウッドデッキから立ち上がった。
自分のような年寄りとばかり話していても語彙が偏るだろう。ネイは本を持っているので、筆記を教えるつもりなのかもしれない。
さすがに読み書きを一から教えるのは少し面倒だった。
「そうですか。分かりました」
ネイはあっさりと言った。さほど嫌な仕事というわけでもないようだ。
「ゲオルグさん。イーリ様は集中していますので、なにか作業をするなら薪割りなど音の出る事以外にしていただけると助かります」
ネイは控えめに注文をつけてきた。
「いや、俺は村に降りて買い出しにいく。食材が減ってきているようだからな」
「ああ、そうなんですか。それは助かります」
「何か買ってくるものはあるか?」
「あります……えっと、じゃあ、メモを作りますね」
ネイは小走りで家の中に入っていき、しばらくすると紙を持ってきた。
「お願いします。お代はこれで」
ネイは紙を渡すと、銀貨十枚ほどを差し出してきた。
「いや、これくらいで十分だ」
ゲオルグは一枚だけ銀貨を取った。
最初から金を取る気はなかったが、なにせイーリはネル家の当主である。こちらが全部を払って、勝手に奢るような形になってしまうのは無礼になりかねない。
「そうですか? では」
ネイは残りの銀貨を財布にしまった。
「じゃあ、行ってくる」
ゲオルグは帽子を被ると、旅用の寝袋や一人用のテントを下ろして空になった背負い袋を肩に引っ掛け、山を下った。
◇ ◇ ◇
夕方、ゲオルグが背負い袋に荷物を詰め込んで戻ると、少年はウッドデッキに新しく置かれた机と椅子で書き物をしていた。
隣にはネイが座っている。そして、二人の姿をイーリが窓越しに部屋の中から眺めていた。
椅子に座って、いつも使っている大きな食卓に頬杖をつきながら、微笑ましげに二人を見ている。二人はイーリの存在に気付いていないようだ。
なるべく音を立てずに近づいてみると、なにやら様子がおかしかった。
ネイのほうが一方的に喋りかけている。少年はその間手を止めていた。そして喋り終わると手を動かし、紙の正面をネイのほうに差し向け、今度はネイが筆を入れて直して返す。
いわゆる口述筆記のような真似をしているのかと思ったが、近づいてみるとどうも違うようだ。少年だけが筆談する形で会話しているらしい。相変わらずの頭の出来である。
「戻ったぞ」
ゲオルグは背負い袋を肩から下ろしながら言った。
「あ、お帰りになりましたか」
こちらに気づいたネイが言う。少年もこちらに気づくと、座ったままぺこりと頭を下げた。
「ああ。色々と買ってきた」
「ありがとうございます」
「荷物は台所に置いておこう。俺は少し休むから、お前らは続けていてくれ」
ゲオルグは二人の若者を横目に、靴を脱いで玄関から家に上がった。
台所で背負い袋を下ろすと、リビングに足を向け、二人を眺めるイーリの肩を叩いた。
若者二人に気づかせないよう、背後に位置するイーリの寝室を親指で示す。イーリは全てを察すると、杖に力を入れて椅子から立ち上がった。
まどろっこしかったので、ゲオルグはイーリの背中と膝裏を持って抱え上げた。
そのまま静かな足取りで寝室まで運び、膝の裏の手でドアノブを開けると、ベッドにイーリの体を横たえた。
「大胆なことをするから、年甲斐もなく久々に心ときめいたよ」
イーリが軽口を言った。
ゲオルグは答えず、ネイが使っていた丸椅子に座る。
「麓の村で情勢を聞いてきた。魔王軍の侵攻が近づいているようだな」
「おまえがいれば大丈夫だろう」
そのたおやかな声には、ゲオルグの力量への信頼が篭もっていた。
「ああ、そうだな。魔族など、いくら来ようが問題はない。お前の魔術を頼れるのなら、な」
「………」
イーリは口を閉じたままゲオルグを見た。
かつて母なる大樹の麓で行われた戦争で、ゲオルグとイーリが葬った魔族の数は軽く千を超える。
今は二人しかいないが、あの時の戦いができるのであれば、突然魔王軍の一師団がこの山を攻めて来ようが逃げる程度のことは苦もなくできるだろう。
だが、それはイーリが健全であることが前提となる。
「……気付いていたか」
「幸い、老眼はまだきていないんでな」
イーリほどの大魔術師になれば、呼吸をするような気軽さで様々な魔法を扱うことができる。
例えばゲオルグが付呪具で窓を開けようとすれば、強い圧力の空気をブチ当てて窓を破壊するような無様な格好になるだろう。
だが、イーリであれば局所的な突風で掛け金だけを外して、手でやわらかに押すようにして窓を開くことができる。
それは髪を乾かすのでも、水を飲むのでも一緒で、イーリほどの大魔術師は日常の生活のそこかしこで呼吸をするように魔術を扱う。
ところが、イーリは少年を召喚する儀式をしてからこっち、魔法はおろか魔道具すらも一度も使っていなかった。
それは本来であればあり得ないことだ。
「使えるよ」
「……本当か?」
「やろうと思えばね。以前のような大魔術だって使える。それは約束しよう」
「……そうか」
イーリがそういうなら、実際に使えるのだろう。
使えると言った以上は、ゲオルグもそれを見込んで動くことになる。その時使えなかったら全滅ということもありえる。イーリはそういった回答で意味のない嘘をつくような馬鹿ではない。
「そう心配するな。魔王軍の動向については私も報告を受けている。ここは今しばらくは安全だよ」
ゲオルグが聞いたのは酒場にいた事情通の話だ。
イーリの情報はミールーンの情報網から出てきたもののはずなので、言うまでもなく確度によほどの違いがある。
「お前が言うならそうなんだろうな」
「そうだよ、十分安心していられる。ゲオルグ、君がいてくれればだが」
その言葉は政治家特有の迂遠な言い回しだった。
暗に、ゲオルグが出ていくのならここを引き払うと言っているのだろう。
確かに、イーリが自由に魔法を使えないのであれば、彼女と少年少女の三人暮らしというのは少し危うい。
魔王軍の襲来がどうこう以前に、魔獣のたぐいが家を襲っただけでも一家全滅の危険があるだろうし、金持ちであることが知れれば野盗に襲われたりもするかもしれない。
「急いで出ていかないところを見ると、しばらくは暇なのだろ?」
「ああ。何の予定もない」
「それなら、しばらく滞在していっておくれ。居を定めた暮らしが苦でなければだが」
「……そうさせてもらおう。あの子のことも気になるしな」
あの少年は傑出した才能を持っている。あの少年が元いた世界ではあの能力が平均的だったのかもしれないが、行く末を少し見てみたい気がしていた。
「そうか。それならよかった」
「お前こそどうなんだ? こんなところでのんびりしていられるほど暇な身分ではないだろう」
イーリはかつてミールーンの全樹会議で基幹長という首相職を務めた人間だ。
ミールーンは今、はるか東にある同盟国の山岳地帯に亡命政権を作っている。暇人の自分より、イーリのほうが余程多くの用事を抱えているのではないか。
「いいのだよ。政治家は地元にいて国民をいたわるものだが、稀に離れていたほうがいい時期もある。今はその時期なのだ」
「そうなのか」
「うん」
ゲオルグには政治はよくわからないが、今は休んでいてもいい時期であるようだ。
「それなら、しばらくはゆっくりと骨休めしておけ。俺はこの先なんの用事もない」
そう言って、ゲオルグは丸椅子を立った。
◇ ◇ ◇
夕食を終えると、
「少年、きみの名前を考えた」
とイーリが言った。ベッドに横になりながら考えていたらしい。
「どんなの?」
「ルシェ、というのはどうだろう」
「ルシェ……」
少年は嬉しくなさそうだった。ゲオルグは響きのよい名前だと思ったが、気に入らなかっただろうか。
「どういういみ?」
「………うーん、簡単な言葉で説明するのは難しいのだが、古い偉人の名前を短縮したものだ。ミールーンでもそれ以外でも、なんとなく通じる名前にした」
なるほど。
確かにミールーンの姓名は少し独特の響きがある。
名前になにか複雑な意味を込めるよりも、どこで名乗っても違和感がないことを重視したのだろう。イーリらしい実利的な配慮という感じがした。
「げおるぐ、どうおもう?」
「は? いい名前だと思うぞ」
「ネイは?」
少年はよほど名前が気になるのか、ネイにまで話を振った。わざわざ聞くまでもなくネイがイーリのつけた名前を否定するわけがない。
「私もいい名前だと思いますが……?」
「たべもののなまえじゃないよね?」
「えっ、食べ物? 偉人って言ってたじゃないですか。ルシェータルって人の……ですよね?」
と、ネイはイーリに確認をとった。イーリは頷く。
「その人の名を少し短縮した名前ですよ。すごく有名で尊敬されている方で……イーリ様が好きな偉人でしたよね」
「そうだ」
イーリは少年の顔を見ながら再び頷いた。
「その、るしぇーたるってどんないみなの?」
「名前の原義までは知りませんが……大貴族出身だったはずですから、由緒正しい名前だと思いますよ。少なくとも食べ物の名前というのはありえませんね」
「そう……ならそれでいい」
少年――いや、ルシェは、一通り質問攻めにして疑惑が解けたのか、納得したようだった。
ここまでこだわるとは、以前の名前は余程おかしな名前だったのだろうか?
……ジャガイモとか?
少し聞いてみたい気もしたが、ひとたびその質問をした瞬間、永遠に自分を軽蔑し一生許さないのではないかという気もした。ルシェの拘りようには、そのくらいの気迫を感じる。
「かんがえてくれてありがと。イーリ。ごちそうさまでした」
食後の挨拶をすると、ルシェは椅子を降りて寝室として与えられている部屋のほうへ行ってしまった。