第025話 論文
家に戻ってお風呂に入り、五日分の垢を落としてベッドに入ってからも、おれはふわふわとした気分のまま眠れなかった。
体が眠っていたから大して眠りを必要としていないのかもしれない。もしくは、長時間乖離していたせいで、肉体と霊体とが馴染んでいないのかもしれない。
コンコン、とドアがノックされた。
「私だ」
イーリの声だ。おれはベッドから飛び起きてドアを開けた。
「どうしたの?」
「話がある」
「うん。入って」
おれはイーリを部屋に招き入れた。
とはいえ、おれの部屋に饗応用のテーブルなどはない。イーリは、おれの勉強机の椅子を動かすと、そこに座った。
おれはベッドサイドに腰掛ける。
「疲れているか? 眠いなら明日にするよ」
「いや、大丈夫。眠れないみたいだから」
「そうか……」
そう言うと、イーリは言葉を選ぶようにしばらく黙った。
十秒ほど沈黙が流れただろうか。
「それで」
と、イーリが言った。
「成功したのか?」
「うん」
「どこまでいった?」
やはり、イーリも学者として気になるのだろう。
「この星の自然魔力がなくなる限界点近くまでいったよ。それ以上はちょっと別の研究が必要だからやってない」
「研究? ……どういうことだ? 説明してみなさい」
「うーん……ちょっと説明が難しいんだけど、おれは別世界の魔力で出来た霊体格子を持ってるから、この星から吸収した自然魔力を空っぽにすると浮いていける体質なんだ。でも、考えなしに浮いていくと大変なことになっちゃうの。高度を上げると星間魔力と自然魔力が混ざる層に入るんだけど、その構成比が問題で、ある一定の高度を超えると吸収しても斥力が引力より勝っちゃう組成になるのね。考えなしに上昇して、そこを超えてしまうと吸っても吸っても弾き出されるばかりで、地上に戻ってくるための重りを得る方法がなくなる。だから、それ以上の高度に行くためには、自然魔力を選択的に取り込む方法を開発するか、あるいは星間魔力を推進力にするための魔術を新しく作らなきゃならない……だから要研究ってこと。でも、それって地上では難しいから、あれで五日も経ってるようだと現実的にはちょっと厳しいかもしれない」
「……なるほど」
イーリはうんと頷いた。今の短い説明で理解できたのだろう。
時間的にも厳しいけれども、星間魔力を地表まで持って帰ると竜人がブチギレる可能性があるとおれは思っているので、最低限の検証をしてからにしたいというのもある。あのときの口ぶりだと隕石に乗って地表にめりこんでくるという感じの説明だったので、まず大丈夫だとは思うが……。
「よく分かった。次は、上で見たもののことを話しておくれ」
「色々とあるけど……分かりやすいところだと、第四惑星と第五惑星の星竜かな。星の直径の半分くらいは体長があったと思う。この星の星竜とは比べ物にならない大きさだった」
こっちの星竜は、とてつもなく大きいとは言われているものの、ちょっとした島一つに収まるのだからたいした大きさではない。スケール感が詳細に載っている資料は見たことがないが、ゾウとか、せいぜいシロナガスクジラ程度の大きさなのだろう。
「ふむ……古い文献で唱えられている説通りだな。この星の星竜は、地表を覆い尽くす生命体に魔力を分け与えているせいで矮小化しているという」
「うん。あとはまあ色々見てきたけど……やっぱり凄く綺麗で、謎の尽きない世界だったよ」
できればイーリにもそのまま見せてあげたいくらいだ。たぶん、同じ驚きと感動を共有できるだろう。
「そうか……ヴァラデウムの天文魔導学の連中が聞いたら、血の涙を流して羨ましがるだろうな。二度とやってほしくないが、学術的には素晴らしい成果だ」
「ああ、究理塔が壊れちゃったせいで、もう研究できないんだよね」
「そうだ。あれは肉体と霊体を切り離して、ルシェがふわふわと浮いていったのとは対照的に、投擲するような形で霊体を打ち出す装置だった。観測できるのはわずかな時間だったそうだが……それでも、宇宙を垣間見るための唯一の窓口だったのだ」
人間は霊体励起を経て魔力を視る目を持つと、星空がボヤけて見えるようになる。地表に溜まっている魔力が薄い曇り空のようなフィルターをかけ、それが光学的な視野と区別できないからだ。地表の魔力は目に見える景色を遮るほど濃くはないが、詳細な星の観測を拒む程度には濃い。
この国は街の光が薄いため非常にクリアーに星空が見えたのだが、霊体励起が一段落したあとに再び空を見ると、まるで大都市の光害をもろに受けたような惨憺たる星空になってしまっていた。
ただ、それをどうにかする方法はあって、自身の精神をマッピングしてコントロールできるようになると、視神経を切るようにして魔力的な視野を遮断することができる。しかしそれは星外魔力の観測を助ける解決にはならない。その状態では魔力が見えないわけで、それだとおよそ魔導に類する情報はなにも得られなくなるからだ。
「ああいった学問は、一にも二にも観測しないことには何も始まらない。塔が壊れてしまってからは何の進歩もなく、昔は主流学科の一つだった天文魔導学も、今はもう古文献学と言ったほうがいいくらい、古い本を漁って知識を途絶えさせないためだけの学科に落ちぶれてしまっている」
「その塔って、どういうふうに壊れたの?」
「射出機に付属している加速度調整器の故障だ。本来なら塔の高さを全部使って10秒かけるはずの加速過程が、どういうわけか0.2秒になってしまった。元々の仕様でもけっこうな負担を強いるものだったから、その50倍となると霊体構造が耐えられる負荷ではない。粉みじんにくだけながら加速され、屋上から噴出するような形になる」
「うわぁ……」
想像するだけで嫌な光景だ。そんな噴水は浴びたくない。
「実のところ、現在でも七割くらいは正常に動くらしいが、三割の確率で死ぬようではとても使用は許可できないということでね。それに不満を覚えている連中は多いようだが、私は賢明な判断だと思っている」
「不満があるんだ。三割っていったら結構な確率だよね」
イーリの話を聞いていると、浮き上がったらそのまま落ちてくるわけだから、たぶん塔が正常に機能しても数十秒、最大限に見積もっても五分くらいしか観測時間はないはずだ。当然、まとまった研究成果を得るためには一回では足りないので、最低でも十回、ことによると百回以上は飛ぶ必要がある。三割だと、二回やっただけで生存率は50%を切ってしまう。十回だと3%弱だ。それではろくな成果は見込めない。
「宇宙を啓くことはヴァラデウムの研究主題の一つだからね。私のような者は最初から実利を求めて魔導の世界に入ったようなものだから、天文魔導学のような利益に結びつきにくい学域にはあまり関心がなかったが、あくまで世界の形をことごとく解き明かすのが学問の真髄だと考える研究者は多い。そういう者にとっては、宇宙というのは避けては通れない塞がれた道のようなものだ。その道の向こうを見たら死んでしまうと分かっていても、少しだけでも覗きたくなるのは研究者としては理解のできる感情だよ」
地球で言うところの天文学や宇宙物理学のようなものだろうか。
しかし、およそ魔法に類する技術になど一切頼らなくとも、人類は肉体を持ったまま宇宙に到達することができる。それを考えると少し努力不足というか、アプローチを魔導という学域に頼りすぎているようにも感じる。
とはいえ、そもそも宇宙を見る手段は既にあるわけで、それだと目の前のぶ厚い障壁を何枚ぶち壊してでも宇宙へ行くロケットを開発するんだ、みたいなギトギトに熱い熱意のようなものは生まれにくいのかもしれない。むしろ、失われてしまった手段をどうにか修復しよう、というような発想になるのかも。
「ルシェもヴァラデウムに行ってみればわかるが、究理塔は目に見えて目立つ建物でね。首の長い反り返った漏斗をひっくり返したような形をしていて、都市のシンボルになっている。古くは極めて優れた魔術士のことを登塔者と呼んだくらいだ。今は塔が停止して三十年以上経ったから、大魔術師と呼ぶのが一般的だけれどね」
「ふーん……」
「それで、だ」
イーリは話を区切るように言った。
「ヴァラデウムでは、知識は知識で購うという伝統がある。広く認知されている入門書などは別だけれども、書庫の奥にしまい込まれている奥義のような魔導書は金を払えば読めるというものではない。なにかしらの研究成果を代わりに差し出すことで、初めて閲覧が許される仕組みになっている」
「ああ、そうなんだ」
「最近ルシェが読んでいる本は、ほぼ全てがその類の書物だ。さて……私の言いたいことは分かるね」
学問や研究に秘密で閉鎖的な部分があるというのは不自由な感じがするが、研究を差し出せば済むのであれば、おれにとってはお金を要求されるより簡単かもしれない。
「うん。なんか論文みたいのを書けばいい?」
「そうだ。まあ、見てきたことを素直に書く程度で十分だろう。学長は私の古くからの知り合いだから、後見人として添え状を書くよ」
「知り合い?」
まあ、イーリはヴァラデウムに留学していた頃は若き才媛として相当期待されていたらしいので、現在の学長と知り合いなのはむしろ普通なのかもしれない。
「ほら、魔王と戦ったときのパーティーの一人だよ。私は防御、やつは攻撃を担当していた」
「あ、そうなんだ」
イーリとゲオルグの他にも二人いたと聞いているが、その中の一人だったようだ。
「論文を出せば魔術師の界隈で名を売ることにも繋がる。調べたいことがあった時も、大鴉を使って文献を送ってもらえるしね。まあ、気軽に書いてみなさい。私も読んでみたい」
「わかった」
「それじゃ、おやすみ」
イーリは杖を突きながら部屋を出ると、ドアを締めた。
◇ ◇ ◇
心労がかさんで皆よっぽど疲れたのか、翌朝は全員寝坊しているようだった。
心配をかけた当人のおれは、体がずっと眠っていたせいか案外疲れておらず、眠りながら少し夢を見て、朝日が顔を出した時間には自然に目覚めていた。
一人朝食を摂ってダイニングで論文を書いていると、いつもよりだいぶ遅れてイーリが起きてきた。
「おはよ、イーリ。朝食作るね」
おれはペンを置いて椅子を立った。
「うん。ありがとう……ん? もう書いているのか」
「暇だったから。ほとんど書き終わってるし、読んでてもいいよ」
「……そうか。じゃあ、そうさせてもらおう」
おれは台所に立って、まずは湯を沸かしはじめた。
「高高度においての霊的宇宙観測をへての所感、及びそれを再現するための提案……か」
「恥ずかしいから、声に出して読むのは勘弁してよ」
「ああ、うん……」
ティーポット一杯のお茶を用意して、机に置いてまずはお茶を用意する。
「ありがとう」と一言いって、朝のお茶を飲みながらイーリはずっと論文を読んでいた。
卵を割って味をつけ、オムレツを作る。大きなオムレツを作って切り分けてしまおうかと思ったが、四角に切った焼き卵の塊を想像するとかなり不格好に思えたので、横着をせずに一人分のオムレツを何個か作ることにした。
オーブンでパンを焼きながら味をつけた溶き卵を焼きあげ、皿に載せてテーブルに運ぶ。
「………」
イーリは論文を熱心に読んでいる。
おれは空いている席にオムレツの乗った皿を置いて、二度目の朝食を食べ始めた。まったくお腹は減っていなかったが、五日間の寝たきり生活のせいで体が衰えている。卵料理は体を作りなおす足しになるだろう。
「……なるほど。軽気を入れた風船に星鱗を織り込んだ綱をつけて、引っ張っていってもらうわけか」
「そうそう。星鱗は霊体でも掴める物質でしょ?」
霊体は含有魔力の低い物質をすり抜けてしまうが、星鱗は抜群の密度を持っているので霊体で掴むことができる。
言ってみれば物質世界で上昇していく気球に、霊体を引っ張ってもらうわけだ。風船は高度が上がり気圧が低くなると破裂してしまうが、膨張して薄膜のようになっても破れない柔軟性の高い物質で作れば成層圏くらいまでは到達できる。
そこなら十分に魔力が薄いし、霊体が分離した状態なら酸素が希薄なことも問題にならない。特に夜ならじっくりと観察できるだろう。
「やっぱり、おれの体験を書いても再現性がなかったら意味がないと思って。おれにしかできないなら、ただ送りつけたって向こうは検証のしようがないわけでさ。嘘つきが自慢してるみたいに思われたら嫌じゃん」
「いや、私が添え状を書くからそんなことにはならないと思うが……まあ、再現と再検証はできたほうがいいだろうね」
「うん。だから、確かめたいならやってみてください。って方法を書いておいたらいいと思ってさ。まあ、それは起案みたいなものだから、実際にやるなら一からいろいろ研究する必要があるだろうけど」
「そうだね。特に素材の選定が難しいだろうが、まあ……それはどうしてもやりたいという熱意と執念を持つ者が努力を投じていけばいい話だ。もう既に手段を持っているルシェがやる必要はない」
イーリはそっと論文を机に置いた。
「うん、いい論文だ」
「よかった。じゃ、朝食をどうぞ」
冷めてしまう。
正直、おれにとっては論文の出来などどうでもよかった。借りを作ったなら返したいし、学術的な関心はあるけれども、学会のようなところで不必要なまでに活躍したいとは思わない。
それより、イーリの食べる朝食が冷めてしまうことのほうが重要案件だ。
「ああ、うん。いただこう」
イーリはこちらに論文を返すと、手を伸ばして朝食の皿を運んだ。
俺は椅子に座って、論文の残りを書き上げる。
それにしても……ゲオルグとの話し合いは一体どうなったのだろうか。
騒ぎが起きたせいで有耶無耶になってしまったが、ネイは少なくとも一晩は過ぎたあと……翌日の朝か、あるいは昼過ぎになってから異変に気づき、二人を呼びに行ったはずだ。
おれが起こした騒動は、二人の話し合いの邪魔にはなっていない。
「……あのさ、ゲオルグとの話し合いはどうなったのか聞いてもいい?」
と、おれは控えめに言った。
「とりあえず、クシュヴィの森までは一緒に来るそうだ。安心しなさい」
イーリは切り分けたオムレツを口に運びながら言った。
説得に成功したのか。
なんと……それは赫々たる成果だ。まさかあのゲオルグを説き伏せるとは!
「ね、どんな話をしたのか聞いていい?」
「子供にはまだ早い」
そう言いながら、イーリはオムレツをフォークで少し切り、ソースにつけて口に運んだ。
それは、もう話さない。という意思表示のように見えた。
なんだ。話してくれないのか……。ちょっと残念だが、子供には話しにくい内容だったのだろう。
まあ、イーリがそう言うなら仕方がない。
おれは論文の最後に、参考になった霊体離脱の文献と、イーリへの謝辞をさらさらと末尾に付け加えると、論文を締めくくった。
いつもお読みいただきありがとうございます!
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