第023話 激怒
ゲオルグとの修行は、もう一週間ほど剣神との戦いの復習に終始していた。
ゲオルグは剣神との戦いのことを本当に事細かに覚えていて、しかもその戦いときたら、一秒を切り刻むような間で高度な技の応酬をする内容なので、一時間習っても内容的には五分に満たないような時がある。しかもそれが勉強になるので、尽きることがない泉の水を汲んでいるようなものだった。
ネイと少し気まずく別れた翌日、修行の合間にゲオルグに聞いてみた。
「ゲオルグってさ、結婚したいと思ったことないの?」
「なんだ、また妙なことを言いだしたな」
「まあ、思うところあって」
ゲオルグもそろそろ四十代も後半になるのだし、落ち着いてもいいんじゃないだろうか。
まだまだ戦えるほど元気だし、今からでも遅すぎるという感じはしない。
「一度は真剣に考えたことがあるがな……まあ、この商売をしてるとそういう話は山ほどあるんだが」
「そうなの?」
「そりゃ、魔獣を狩るのだって野盗を狩るのだって、要するに人助けだろう。まあ戦争はちょっと違うが、どちらか一方の手助けには変わりない。何遍も何遍も他人の命を助けてたら、そりゃ女に惚れられることもあるさ。俺みたいのが一人いれば周囲も安心だから、大抵は村ぐるみで大歓迎だしな」
どうもロマンスには事欠かない生活だったようだ。考えてみれば、ゲオルグならそういう話がないほうがおかしい。
さすがに今の年齢になるとそういう話は少なくなってくるのだろうけど、若い頃のゲオルグだったら引く手あまただっただろう。その頃のゲオルグのことは知らないが、格好悪かったはずがない。
「眺めのいい平和な土地で、とびきりの美人に言い寄られれば心が傾きもする。まあ、その時は若かったから断ったがな」
「じゃあ、なんで結婚しなかったの? 剣神のことがあったから?」
「まあ、それもあるが……べつに定住したって剣の修行はできるしな。自宅も持たないで旅をしてたのは、単にそういう生活が好きだったのかもしれん」
確かに、剣や武術の達人というと自分の流派の道場を構えているようなイメージがある。別に、それだと修行に差し障りがあるというわけではないだろう。
「ふーん……じゃあ、この生活が終わったらまた旅に戻るの?」
「まだ決めていない。さすがに何十年も旅をしてると、まったく行ったことのない土地もないからな。考えてみれば、旅暮らしに戻ったところで行きたいと思う場所がない」
「そっか……」
旅暮らしに魅力を感じないのなら、イーリと一緒に来てくれればいいのに。と思ってしまう。
道場を開くなり、イーリの用心棒をするなりすればいい。日々の暮らしには一生困らないだろう。
「まあ、これから戦争には事欠かないだろうし、旅というよりは戦争にいくかもな。魔王軍を相手にすれば、手強い敵には事欠かんだろう」
「そうなんだ。うーん……」
このおっさんはどうしたものか。
「さて、そろそろ休憩は終わりだ。続きをやるぞ。剣を持て」
「うん」
よいしょ、と立ち上がると、おれは気を引き締めて剣を握った。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
「できたよ、イーリ」
ぺらり、と机の上に紙を置くと、
「………」
イーリは何も反応せず、ペンを握ったまま目の前にある手紙に向かいあっていた。
一行だけ、なんの特徴もない書き始めの挨拶のような定型文だけが書いてある。
そこから一文字も進まないのか、思考の中に没入したまま声に気づいていないようだ。背筋がぴんと伸びているので眠っているわけではない。
「イーリ?」
肩に手を置いた。
「ひゃう!」
イーリはビクッと肩を大きく震わせて、今まで聞いたことのないような声をあげた。
「……ご、ごめん。大丈夫?」
「なんだ、ルシェか。どうした」
「いや、課題ができたから見せに来たんだけど」
「あ、ああ……そうか。そうだったな」
ネイは修行に一段落ついたのか早めに寝てしまったし、ゲオルグはアリシアを送るついでに麓の町に遊びに行っている。
おれは二時間ほどイーリの斜め前で机に向かっていたのだが……ここまで深く考え込むとは、一体なんの手紙を書こうとしていたのだろう。
「どれ、見てみよう」
「……うん」
イーリはペンを置いておれの描いた回路図を見た。
十分ほど目を通すと、
「うん、十分だ。これなら問題なく動作するだろう」
「どこか直すところは?」
「あえていうなら、このあたりはもう少しエレガントな形にできるね」
イーリは紙の上に指で丸を描いた。
「ルシェはここの風圧調整器をL型にしたようだけれど、J型にすれば隣の第一調整器と接するから、分岐基を足すだけで圧振調律用の魔導環を一つ共有できるだろう。そうしたらここに魔導環一つ分のスペースが空く。順々に回路を詰めていけば、この辺りのゴチャっとした辺りを整理できるね」
「あー、そっか」
確かに、そうすれば非常にエレガントな形になる。
魔導回路は限られた面積で特定の機能を実装しなければならないので、こんなに多機能を持たせるなら多少ゴチャつくところが出来ても仕方ないと妥協していた。言われてみれば、確かにきちんと全体をエレガントにまとめる方法があった。
「あー、馬鹿みたい。なんで気づかなかったんだろ」
美しく完成された形をイメージしてから改めて回路を見てみると、なんとも醜く不格好に見えた。
自分の無能を思い切り罵ってやりたい気分だ。
「そんなに落ち込まなくてもいい。このレベルの回路図を引けるなら十分プロとしてやっていけるよ。ただ、人を雇って量産させるとなると、描きやすい回路にしたほうが不良品が少なくなるからね」
「うん」
付呪工房を経営しようと思うなら、確かに必要な視点だ。今のところ付呪具作りを仕事にしようとは思っていないけど。
「ふう……」
イーリは深いため息をついて、背もたれに体重を預けた。
「ルシェ。すまないが、お茶を淹れてくれないか」
「うん」
おれはキッチンのほうに歩いていって、手早く湯を沸かしてお茶を用意した。夜なのでお茶請けは必要ないだろう。
トレーに一式を用意すると、リビングに戻った。
「はい、どうぞ」
ティーカップとソーサーをイーリの前に置いて、お茶を注いでゆく。
紅茶のような色と味がするのだが、やはり高級品だからか香りが高い。注ぐと蒸気と共に、ふんわりとお茶の香りが広がった。
「ありがとう」
イーリは自然にそう言うと、砂糖のポットから多めに砂糖をすくって、さらさらとティーカップに入れてかき混ぜた。
イーリがお茶に砂糖を入れるのは非常に珍しいので、おれは内心びっくりしていた。というか、初めて見たかもしれない。
持ち手をつまんでお茶を口に運ぶと、
「ああ……美味しい」
と、しみじみ言った。
体が糖分を欲していたのだろうか。
「どうしたの? 何かあった?」
今日のイーリはなんだか特別疲れているようだ。
「……うん。実は、どうしたものか困った問題が起きてしまった」
言うまでもなく、それは書きかけた手紙の件だろう。
「話せる内容なら教えてほしいけど」
「まあ……端的に言えば、クシュヴィの森で政権を握っている連中が無能揃いということだね」
「ふーん……そりゃ問題だね」
政治家が無能というのは、国にとって良いことは一つもない。間違いなく悪いことだ。
「いや、それは私にとっては朗報なのだ」
「えっ? どういうこと?」
朗報というのは喜ばしい知らせのことをいう。
イーリはミールーンの味方というか、再興を望んでいる側だと思っていたけれど。
「私は母なる大樹を枯らしてしまっただろう?」
「それはイーリのせいではないでしょ」
メンテナンスをしていた山神が来なくなったからだ。
メンテナンスをしなくても、イーリが主砲発射のようなことをしなければ木としては生き続けたのかもしれないが、そうしたらミールーンは一度目の戦争で魔王軍に間違いなく滅ぼされていた。そこを批判するのであれば、変わりに取るべきだった別の方策も提示すべきだ。
「私の失策でなくても、国民はそうは思わないのだよ」
「なんで?」
そうは思わないなら国民というのは馬鹿揃いなのだと思う。
「怒りや失望といった感情は、必ず矛先を求めるからだ。ネイも若いからそういうふうに怒ってくれるのだが、国民というのは元来そういう性質のものなのだ。怒るようなことではないのだよ」
「……なにそれ?」
おれにはとてもそんなふうには思えない。イーリは怒って当たり前だし、国に失望するべきだとすら思う。
「ルシェも大人になれば分かる。人類というのは個としての賢明さと、集団としての愚かさを同時に持っているものなのだ。それは人類本来の性質であって、否定するものではない。一家の家長なら個と接するだけでいいが、政治家というのは集団を治める存在だ。人の愚かさは、受け入れてやらねばならないのだよ」
そこまで言うと、イーリは甘いお茶を飲んで、ふう、と息を吐いた。
「……愚かさを否定するのは、人類の性質を否定するのと同じことだ。政治家がそれをすると、大抵は悲惨な結果に終わる」
「ふーん……」
よく分からないが、イーリは諦念に似た感覚を抱いているのか、とにもかくにもそれについては納得しているようだ。
しかし、話を聞くと政治家というのはまったく面白そうな職業ではないのだが……一体なにが魅力的なのだろう。さっぱり理解できない。
親が政治家で、自分も政治家になるのが安定的かつ高収入を見込める唯一の道……みたいな人なら政治家という職業を選ぶのも分かるけれども、イーリのような元が賢い人間は何をやっても成功するものだ。実際成功しているし。
なにが悲しくて、そんな面倒なばかりの大人子供の世話のような仕事をしなければならないのだろう。本当に理解できかねる。
「まあ……ともかく、私は国民から強烈な反感を買ったわけだ。もちろん、最高指導者としては職を辞することになった」
「反感もなにもさ、イーリはそのあとクシュヴィの森を買って、今ミールーンの人たちはそこに住んでいるわけでしょ?」
「うん。そうだよ」
「じゃあ、それでトントンじゃないの?」
「とんとん」
ふふっ、とイーリは笑った。
「面白い言い方だね。まあ、それはその通り。ルシェはネイからさんざん悪口を聞いているから、ミールーンの民を愚者の寄せ集めのように思っているのかもしれないが、一人ひとりと接すればごく普通の人たちなのだよ。もちろん、今も国家の体裁を保ったままクシュヴィの森に住めているのは私のおかげだ、と感謝してくれている人はたくさんいる。クシュヴィの森に移住した当初でも、私が本気で政権を握ろうとすれば握れただろう」
「そうなんだ」
まあ、それはそうか。
どうも異常者の集まりのように感じてしまっていたが、ミールーンはイーリやネイの出身国なのだから、そう悪い国ではないのかもしれない。
「だがね、それでは足りないのだよ」
何が足りないのだろうか。
「政治の世界にいる政敵という存在は、自分ならもっと上手くやれる、という仮定の概念を常に持ち出してくる。それをされると私は困ってしまうのだ。政敵の実力と戦うのではなく、未知という可能性と戦うことになってしまうからね。民衆というのは甘言を弄する佞臣にいつも惑わされている王のようなもので、論ずるに値しないような暴論でも、希望を見せられると縋り付いてしまうのだ」
やはり、聞けば聞くほど民衆というのは碌でもない存在である。
「だから、そういう連中を残したまま政権を握っても、本当に強い権力は作れないのだよ」
「でも、民衆ってやつの性質は変わらないんでしょ? じゃあどっちにしろ無理じゃん」
「それが、実は簡単なのだ。民衆が希望を見出すのは、それが未知だからだ。私が百の能力を持っているとすれば、私より優れていると自称する者は、千や万の能力を持っているかもしれない……そう思ってしまうわけだね。ならば、未知でなくしてしまえばいい」
ああ、なるほど。
「政権を明け渡せば、未知は未知でなくなる。能力のない彼らは次から次へと失態を犯すだろう。民衆が彼らに失望すれば、次に”自分ならもっと上手くやれる”と言い出しても誰も相手にしない。深いと思わせていた底は、もう知れてしまっているのだから」
「それはそうだろうね」
「だから、私はあえてクシュヴィの森から遠い場所に身を移したのだ。政治の世界に片足を置いたままだと、失態を私のせいにすることで責任逃れをされてしまう。ここに居る限りは、彼らは誰のせいにもできない。私はクシュヴィの森の政治とはまったく無関係でいられるのだよ」
ゲオルグはイーリが自国をほったらかしにしてこの家に住んでいるのを不思議がっていたが、どうも政敵が無能を晒して民心が離れるのを待っていたということらしい。
聞けば納得の理由ではあるけれど、理由は分かっても動機については未だに腑に落ちない。
別に、イーリはお金が欲しいわけではない。こんな家で四人で暮らして何の不満もなさそうなのだから、豪邸に住んで贅沢をしたいわけでも、権力が欲しくてたまらないわけでもないはずだ。なのに、まるで王に仕える忠臣のように粛々と民衆に仕えている。
最初に魔王軍に攻められた時だって、イーリは能力の限りを尽くして頑張ったはずだ。
なのに民衆という連中はイーリを引きずり下ろした。もしおれがイーリだったら、その時に失望して、愛想を尽かし、それからは自分の人生を豊かにするためだけに生きるだろう。
なにがイーリをそうさせているのだろう。イーリは自分のことを生まれついての貴族だと言うけれど、貴族の血のようなものがそうさせているのだろうか……。
「まあ、連中がとびきりの有能で私より上手く国を回せるのなら、それはそれでいいことだ。残念ながら、そうはならなかったが」
「その人たちの無能が、イーリにとっては良いことだっていうのは分かったけどさ」
確かに、イーリを放逐して新しく政権を任せた連中がとんでもない無能ばかりだったら、イーリの再評価が進んで待望されるようになり、再び政権に戻った時には大歓迎されることになるだろう。
「でも、困っているっていうのはなんで? 困ることはないと思うけど」
おれの脳裏には、先程紙を前にして難しい顔をしていたイーリが浮かんでいた。
確かに、イーリは困った問題が起こったと言っていた。ところが、政敵が無能であることは何も困った問題ではない。
「無能が過ぎて国が荒れ始めているのだよ。私の政敵というのは当然大金持ちの大貴族だ。だが、彼らは戦争で財産を失ってしまった。先見の明があれば財産を移しておくということもできたのだろうがね。だから私財を増やして元の生活を取り戻すことに必死なのだ。そうすると自然と職を汚すことになる」
大貴族というのは、要するに土地をたくさん所有して人に貸している大地主のことなのだけれども、そもそもミールーンは消滅したのだから土地持ちもくそもない。言ってみればシュラフタ、マグナート云々という土地の所有を基幹とした貴族というか資格制度自体が破綻しているといえる。
あえていえばクシュヴィの森はイーリの持ち物なのだから、イーリが唯一の大貴族にして王、みたいなことになってしまいそうだ。
「汚職をしてて民衆が怒ってるってことね」
「他にもあるけれどね。内政に外交、政治を執り行うという行為は、感性の乏しい人々には難しい」
「よくわからない。困っている理由にはなってない」
おれが三度そう言うと、イーリは温くなった紅茶を静かに口に運んだ。
そして、
「この生活が楽しいのが、私の困り事なのだ」
なんだか寂しそうな顔をして、イーリは言った。
「この手紙に」イーリは目の前に置かれたままの書きかけの手紙に触れ、遠ざけるようにそっと押した。「今から帰ると書いたら、たちまちこの生活は終わってしまう。笑ってしまうかもしれないが、そんなことで私は悩んでいたのだよ」
「……っ」
なぜだか、言葉が出なかった。
「そう……なんだ」
「うん」
「……でもさ、ネイと、多分おれはついていくよ」
「ゲオルグは、おそらく来ないだろう。あいつはそういうやつだから」
どうだろう。
ゲオルグは心底から戦いの中での孤独な死を望んでいるわけではないと思う。
「常に心に風が吹いていて、その赴くままに生きているような男だ。昔は、私もずいぶんと説得したがね……」
そのイーリの表情を見て、昨晩見たアリシアの顔がふっ――と頭をよぎった。
愛してるんだ。
そう感じた瞬間、脳の中で二つ遠く離れた情報がパチンと音を立てて繋がったような気がした。
「もしかして、ゲオルグに結婚しようって言ったのってイーリ?」
おれがそう言うと、イーリは信じられないものを見たような目でこっちを見た。
「あいつ、話したのか――?」
「いや、話してないよ」
「……いや、そんなわけがない」
イーリは怒りを滲ませていた。それはおれに対してではなく、ゲオルグに対しての怒りのようだった。
二人だけの秘密だったんだ。と、おれはすぐに察した。
秘密を第三者が知っている。ならば、話したとしか考えられない。
イーリは、秘するべき思い出を軽々に喋った裏切りに対して怒り、そして淡い想いを穢されたことに怒り、失望と共に真っ黒な怒気が体中から滲み出ているように見えた。
「ちょ、ちょっと誤解してると思うんだけど」
「誤解もなにもあるか。あいつ……っ!」
あかん。なんか熱くなっている。
このままでは麓の町に火を降らせてゲオルグごと業火に包み込んでしまいかねない。
まずは頭を冷やさないと。そのためには、聞く耳を持たせなくては。
「ゲオルグがなんて言ってたか教えてほしい?」
と、おれはあえて質問口調を作った。
「は? ……なんて言ったんだ」
イーリはまだ言葉に怒気を滲ませている。
「あのね、ゲオルグは昔誰かに結婚を申し込まれたことがあって、真剣に考えたけど、その時は若かったから断ったって言ったんだよ」
「……なに? なんだって?」
「だから、昔だれかに結婚を申し込まれたことがあって、真剣に結婚を考えたけど若かったから断ったんだって。眺めのいい平和な土地で、とびきりの美人に言い寄られたから心が傾いたとも言ってたよ。だから、眺めのいい平和な土地っていったら、昔のミールーンじゃないかなって思ったんだ。だからね、ゲオルグは言ってなくて、おれの推理なんだよ」
「………」
表情から、さきほどまでの怒気が嘘のように消えた。
「とびきりの美人、って確かに言ってたよ」
イーリは一瞬、へらっ、と笑みを浮かべた。
そして、おれが見ていることに気づくとすぐに消した。
「ルシェ、もう子供は寝る時間だ。眠りなさい」
「ああ……はい」
なんだか叱られたような格好なのは不服だが、あんな表情をする時は幸せな気持ちに違いない。好きなだけさせてやろうと思いながら、おれは自室に向かった。
いつもお読みいただきありがとうございます!
ブックマーク・評価・SNSでの宣伝などしていただけると大変励みになります。
よろしくおねがいします<(_ _)>








