第019話 十四才
おれがこの家に来て一年が経った。
一日の終わりに目を瞑ると、未だにこれは施設の二人部屋で見ている永い永い夢なのではないかと思うことがある。朝目を開いたら、日光で焼けたクリーム色の天井がそこにあるのではないか。
だが、眠りから覚めると綺麗な板張りの天井が朝日に照らされている。
「……ふう」
そのたびに、なんだか気持ちのよい気分になれるのだった。
それは、あのクリーム色の天井を見ていた頃には感じられない気持ちだった。
あの国は悪いわけではない。元いた世界の話をすると、イーリもゲオルグも何もかもが行き届いたいい国だという。
だが、おれの周りには敵が多すぎた。朝起きれば、その時から寮は敵だらけだ。隙を見せないように食事をし、守衛室に寄って制服に着替え鞄を持ってそのまま学校に行く。
制服を守衛室に置いているのは、日常の服は汚されてもいいが制服を汚されるのは困るからだった。留守中や夜に金を盗もうと荷物を荒らされるのは日常のことだ。そのため、寮に帰ったら財布は一時も持ち歩いてはならず、常に守衛室に置いておかなければならない。
敵だらけの中で着替えて、学校に行く。学校でももちろん敵だらけである。
授業では、教師が話している遥か先の内容を勉強していた。体育の授業は休んでいた。
教室での座学と違い、体育の授業は虐めがやりやすい。数学の授業中に突然ラケットを取り出して頭を殴れば大問題だが、体育の授業中であれば悪意のない事故である。そこで大怪我をしたら取り返しがつかないことになる。学校は全ての座学でトップを取っていれば何も言わなかった。
授業が終わると図書室へ向かう。そこで部活動が終わって校門が施錠される限度いっぱいまで自習や読書をした。それが終わると、教科書もノートも全てロッカーに入れ、空っぽの鞄を持って帰った。
養護施設では一切の学習はできない。わずかな人以外誰も勉強しようとしないし、施設側は本音では子供たちに早く就職して独立することを望んでいたので、勉強を推奨したりしなかった。進学した私立中学が生徒一人ひとりに鍵付きのロッカーを与える学校だったのは、何よりの幸運だった。
あの世界におれの居場所はなかった。もし居場所があるのだとすれば、それは頭の良さで人を評価する大学の世界だろうと思っていた。だが日本には飛び級がない。高校の三年間を養護施設の寮で過ごすのは耐えられない。
奨学金を出してくれていた財団に相談すると、中学を卒業したあと高校に入らず、高卒認定試験というものを受けて合格すれば海外の大学を受験できると言われた。中学受験ではあの親の反対で全寮制の学校には入れなかったが、十五歳以上になればそのあたりの拘束は緩むらしい。目標の大学に入るために、万が一にも失敗がないよう対策をしていた。
だが、そんな思惑も目標も、全てがある日突然無意味になった。
「おはよう、イーリ」
「ああ、おはよう」
自室を出て食堂に行くと、イーリが柔らかな笑みを浮かべて挨拶を返した。
この家には朝起こしに来る人はいない。誰も学校に行っていないし、職場に通うわけでもないからだ。厳密に言えばゲオルグはこの家の警備が仕事と言っても間違いではないが、それほど堅苦しく仕事をしているわけではない。
ただ、なんとなく全員が朝に起きてくる。おれとネイは前日の疲労の度合いがまちまちなこともあって、自然に起きる時間が遅くなることもある。だが、多少寝坊をしても誰も何も言わない。ネイはイーリのお世話をする役目を自分に課しているので、朝はイーリより先に起きて朝食の用意をしている事が多い。
だが、昨夜根を詰めたのか、珍しくネイの姿はなかった。
「お茶を淹れるね」
「ああ、ありがとう」
この家には付呪具がたくさんある。
もちろん水を沸騰させる付呪具はあるし、なければ一から作る設備もこの家にはある。
だが、イーリは付呪具を一切使えない。だから、湯を沸かすためにはアリシアのように火打ち石を使って火を熾す必要がある。非常に面倒なので、そんな不便はさせられない。
おれは湯沸かし用のケトルに汲み置いている湧き水を入れると、魔法を使って熱を加えた。
魔術師たちは水の魔法で生成した水を飲用にすることを好まない。
水を生成する魔法は大気中の水分を凝結させることで行う。凝結は空気中の微粒子が核となって起こる現象なので、そこから生まれた水は塵や埃を大量に含んでいる。逆に、塵や埃がまったくないクリーンな環境下では水魔法は上手く使えない。南極で息が白くならないのと同じ仕組みだ。
魔術師たちはその辺りのことを経験則から知っていて、空気が清浄すぎる時はわざと砂埃を撒いたりする。誰だって、そんなふうにして作った水は飲みたくないだろう。
水中に焼け石のような熱の塊を発生させると、ケトルの中の水は一瞬で沸騰した。一応、殺菌を兼ねてケトルを揺らし、全体にきちんと熱を通す。
ティーポットのストレーナーに茶葉を入れて湯を注ぎ、一杯にしてからトレーに二脚のティーカップを置いてテーブルに運んだ。
「ありがとう」
イーリが礼を言った。
「うん。パンはどうする?」
「さっき食べたが、焼くなら少しだけ頂こうかな」
「おっけー」
おれは本来は薪を使う鉄製のオーブンを魔法でカンカンに熱すると、そこに食パンを五枚入れた。
余熱で焼き上がる間に、包丁でベーコンの塊をスライスして熱したフライパンに敷きつめ、焦げ目をつけて裏返すと卵を二つ割って乗せ、少し水を入れて蓋をした。
焼きあがった食パン一枚にイーリの好きなベリーのジャムを塗る。そして四枚には加塩バターをたっぷりと塗り、フライパンで蒸し焼きにした卵焼きベーコンを半分ずつ乗せ、サンドイッチを二つ作った。
サンドイッチのほうは半分に切って、一つはゲオルグのために台所に置いておく。
もう一つは自分の分だ。イーリのジャムトーストは食べやすいよう六つに切って皿にフォークを添えた。ネイはいつもそうしている。
「はい、どうぞ」
二つの皿を食卓に並べる。イーリはお茶を飲みながら静かに待っていた。
「ありがとう。少し多いから、半分は食べてくれないか」
「うん、わかった」
ささ、っとフォークを使って半分を自分の皿に移す。
イーリは空腹の状態でも朝食でパン一枚は食べないので、そう言われると思っていた。
「いただきます」
イーリは食事のあいさつをすると、フォークをすっと掴んでパンの一枚に刺し、口に運んだ。
時間をかけて味わうように口を動かすと、フォークをすっと皿の端に置いてティーカップを取り、お茶を口に含んだ。
背筋がぴんと伸びている。ちょっとした動作だが、食事という行動から厭らしいだとか下品だとか感じる要素を一切取り払ったような、美しい所作だった。
「どうしたんだい?」
「ああ、うん。なんでもない」
「そうか」
そう言うと、イーリはもう一切れパンを食べた。
おれは半分に切ったサンドイッチを、具がはみ出さないように気をつけながら口に入れた。バターの芳醇な香りと、ベーコンの旨味とコクの深い卵の味が一緒になって口の中を満たした。幸せな味だった。
「しかし、もう魔法もずいぶん使えるようになったね。この程度のことは何の苦労もないようだ」
「大げさだよ。温めるくらいしかしてない」
「いいや、ケトルも爆発していないし、パンも焦げていない。適切な制御ができている証拠だ。最初は難しかったことが、指をふるような気軽さでできるようになる。それが身につくということだよ。そうすると、集中して時間をかければもっともっと高度なことができるようになる」
「まあ、それはそうかもしれないね」
確かに、半年前のおれだったら寝起きの頭で軽々と料理を作るのは難しかっただろう。もう少し集中して、さあ作るぞっ、と気合を入れるくらいの作業ではあった。
魔法の扱いに熟練していくたびに、生活の節々が楽になっていく。できることが増えていく。それは楽しい進歩だ。
だが、おれはそれを考えるたびに、ある日突然魔法も付呪具も使えなくなったイーリはどんな気持ちだったのだろうと考えてしまう。
イーリはこの道でも頂点を究めた魔術師の一人だった。今のおれより遥かに自由に魔法を扱えていたはずだ。
そんな人間が、突然に魔導の全てを喪う。湯を沸かすにしても、炭や薪に火をつけて沸かさなければいけなくなる。それは世界で最高の料理人が味覚を喪うような、あるいは人生の全てを音楽に捧げてきた作曲家が聴覚を喪うような、絶望感を伴う大きな喪失だったのではないだろうか。
昨日まで全てが思い通りになるような人生を送っていたのに、今日は誰かの介護を必要とするまでになる。人によっては間違いなく劣等感や屈辱感に苛まれるだろう。だけどイーリはそうなっても塞ぎ込まなかったし、誰に当たり散らすこともなかった。今もこうして堂々としている。
なんとも不思議で素敵な人だと思う。
「魔法は奥が深い。誰にでも扱える技術ではないのが玉に瑕だけれどね」
イーリはお茶を飲みながら会話の続きを話した。
「そうだね。でも、付呪具で日常の仕事はすごく便利にできる気がするけど」
この世界は技術的に遅れているように見えて、地球にもなかったような便利な付呪具がたくさんある。リスクのある霊体励起を済ませないと使えないのと、高額で庶民の暮らしに導入されないのが難点だけれども。
「今のルシェくらい自在に扱えるようになると、付呪具は制約が多すぎて不便に感じるだろう。家庭用のものはこの先一生使う機会はないと思うよ。ただ、杖は護身のために持っておいたほうがいいけれどね」
「うん。不意打ちされたときに使うんでしょ」
魔術というのは、精神的な動揺が生まれるとせっかく練習した魔法でもなかなか思うように撃てない。
おれも魔狼と戦った時は魔法を頼ろうと思わなかった。避けるのに集中しながら、腕を振る程度の感覚で気軽に放てる強力な魔法がなかったからだ。
付呪装は、魔法剣も広義にはそれだけれども、魔力さえ流せば確実に動作する。それは大きな強みだ。
「不意打ちもそうだが、そもそも人間というのは死の恐怖に対して緊張や動転をするものだ。刃物を持って自分を殺そうと近づいてくる者を目の前にしたら、冷静に集中などできない者が多い。そのせいで、大きな熊を丸ごと消し炭にできるような魔術師が、素人の物盗りに簡単に殺されてしまったりする。馬鹿馬鹿しいことだけれどね」
「うん」
敵というのは勝つことには真剣だ。負けてもいいと思って人を襲う敵などいない。実力が及ばずに勝ち目が薄いと見れば、不意打ちをしたり寝込みを襲ったりという手段は真っ先に考える。
「付呪というのは魔術師の思考を回路化するための技術だが、人間の思考の不安定さを補うものでもある。だから付呪装の需要は尽きない。長年魔導工房を経営しているけれども、この業界は本当に不景気というものがないね。戦争がなくなったら家庭用が伸びるし、戦争が始まったら戦闘用が伸びる。いい商売だと思うよ」
イーリは魔術に関しては自分より優れた者が数多くいると謙遜するが、付呪に関しては自分が世界で一番だとよく言う。それだけ自信があるのだろう。
「そういえば、気になってたんだけどさ」
「なんだい?」
「魔導回路を描く一番いいインクって星竜の鱗なんでしょ?」
「そうだよ」
どうも星竜というのはふわふわとした惑星の意思のようなものを指す比喩ではなく、実在する存在のようだ。
その体は魔力の塊というか高密度の結晶体のようになっているらしい。そこから自然に剥がれ落ちた鱗が星鱗と呼ばれるもので、それを粉にして特殊な乾性油と混ぜ合わせたものが魔導回路における最良のインクとされている。
そして、現状ではそういう学説自体ないようだけれども、たぶん星竜はなんらかの病で死ぬことがある。
おそらく、元いた地球では病気に感染するような形で星が死に、それに伴って星竜も死んだ。その結果魔力が腐り、過去に魔導の文化があったのかは知らないが、とにかく魔力が利用不可能な性質を帯びてしまい魔力を利用する技術体系が育たなかった。
「星鱗はあくまでも主成分だから、通る魔力の性質によって他の素材を添加物として加えるのが正解だけどね。特に亜竜種の素材は星鱗と親和性があるから、混ぜると極めて性能の高いインクが作れる」
「でもさ、そもそも星竜って竜の島にいて動かないわけでしょ。どうやって取りに行くの?」
竜の島というのは絶海の孤島で、そこは竜人がウロウロしていて上陸する者を皆殺しにするので誰も入れないと地理の本に書いてあった。
入れないはずなのに星鱗は手に入るし、おれも何度も使っている。ものの本には星竜の絵も載っている。不思議なことである。
「ああ、それか。ちょっと際どい話になるから、普段は秘密の方法があるとか言ってごまかすのだが、ルシェは内緒にできるかい?」
イーリは悪い企みごとを話すかのように、密やかに微笑んだ。
「うん」
「竜人は星鱗を食べるとああなるのは知っているね」
「うん、知ってる」
星鱗は絶対に食べてはいけないと最初に注意された。そもそも口に入れるようなものではないのだけれど、粉末を大量に吸い込んでしまっても竜人化するので、星鱗を粉状にする作業は必ず窓を締め切った部屋で口と鼻を布で覆って行わなければならない。特殊な乾性油に混ぜてしまえばもう舞うことはないので、扱いやすい材料となる。
「ルシェが見た通り、竜人というのは星竜の奴隷といってもいいような存在だ。だが、星鱗を飲むと病がたちどころに癒え、しかも老いなくなるというのも事実だ。だからまあ、死を恐れる人々の中では星鱗を望む声が絶えないわけだね」
「それはそうだろうね」
そんな魔法のような薬があったら誰でも欲しがるだろう。
「だが、星鱗を飲んだからといって、一瞬にして体組織が変化してああなるわけではないのだ。ゲオルグが戦ったような完全な竜人になるのは数年かかる。先に心の変容が始まって、徐々に人格が変わり、最後は人界に興味がなくなって失踪するようにいなくなる。だから、実は星鱗を飲んでも人格が変わるまで……一ヶ月くらいは、人間らしく家族と暮らすことができるのだよ」
「そうなんだ……じゃあ、二週間くらい生きて竜人になる前に自分で死ねばいいんじゃない?」
そうすれば逃げ得というか、効用だけを便利に使うことができるだろう。
「竜人にはならず、延命の手段としてのみ利用するということだね。それは皆考えるのだけれども、上手くいかないことがほとんどだ。最初はそのつもりでも、だんだんと死ぬ気がなくなっていく。家族のほうも、別に竜人になっても失踪するだけで不幸に感じるかどうかは当人の問題だし、死ぬ気がなくなった者をわざわざ殺そうとは思わなくなる」
「あー……なるほど」
「星鱗を飲んだあとの心の変容というのは恐ろしいものなのだよ。折角だから、警句として昔ミールーンに来た旅人の話をしてあげよう」
話が脱線するようだ。
「十三年ほど前の話だが、一人の旅人がミールーンに来た。彼は、自分の家に押し入って両親と妻子を惨殺して金品を奪っていった憎い敵を追っていた。だが病を得て倒れ、かつぎこまれた診療所で死の運命を告げられた。それで這うようにして私の館まで来て、どうしても復讐を遂げたいから星鱗を売ってくれと頼んできたのだ。血色のほとんどない青白い顔で、短く荒い呼吸を繰り返していて、明らかに死に瀕しているのに目だけは狂気で爛々と輝いていた。私はひと目見て正気ではないと悟ったよ。だが彼が追っているのは強盗殺人犯だし、復讐を遂げたところで世のためになりこそすれ誰の迷惑になるわけでもない。哀れにも思ったし、少し金は足りなかったが星鱗を渡したのだ。彼は焦っていたのかすぐに水をくれと言ってきて、私の目の前で粉薬を飲むようにして星鱗を飲んだ。二十分程すると倦怠感が嘘のように消えたと言って、歩いて私の館を去っていった。私は、彼がその後どうなるのか興味を覚えて人をやって追跡させた」
わざわざ人を送ってその後を調べようとするとは、十三年前のイーリはよっぽど気になったのだろう。
「だがね、三週間後、彼はミールーン近くの宿場町でぼーっとしていたのだ。最初の二週間はどうにか熱意が続いたようだが、宿場町まで追っていったところで、あの燃えるような復讐心は竜人の意思に飲まれてしまった。どうでもよくなってしまったのだ。追跡していた諜報員の一人が、情にほだされて彼の敵を探し始めたのだが、発見して拘束したことを彼に伝えても聞いているのか聞いていないのかも分からない様子で、何も言わなかったそうだ。そして一ヶ月経った頃には、やはり森に消えて行方知れずになった」
「……本当に何も言わなかったの? 自分の手で殺したいだとか……まあ、そういう気持ちが消えちゃったとしても、拘束したあとの処分がどうなるのかくらいは、少しは気になるものだと思うけど」
復讐心がなくなってしまったとしても、ほんの僅かでも気になる思い残っていれば、話を聞くくらいのことはするだろう。なにせ、一歩の移動すら必要なく、口を少し動かすだけでできることなのだから。
「私もその時は信じられないような思いがしたが、そういう激しい怨讐のような炎も、残り火すらも残さず消えてしまうのが竜人化の恐ろしいところなのだよ。まあ、その犯罪者は逃がすわけにもいかないから、手配していた国に引き渡したが……報告では、竜人になった当人は最後まで訊ねもせず、何も知らないままだったそうだ」
「そうなんだ。なんというか……なんなんだろうね」
生きているという定義が自我が存続することなのだとすれば、それほど短期間に人が変わってしまうのであれば、死んだのとあまり変わらないような気もする。
だが、本人からしてみれば変化したという感覚だけがあるだけだろう。
死に直面した人にとっては、死を逃れられることが恐怖からの救いなのかもしれないけど……。
「でもさ、竜人ってゲオルグでも殺すのに苦労するわけじゃん。そんな風に増えていったら世の中竜人だらけになっちゃうんじゃないの?」
「そうはならない。竜人は共食いをするからね」
共食い。
「竜人同士の争いというのはごく稀に目撃されることがある。勝者が敗者を捕食するところもね。本能的に数を調節しているのか、肉体を強化しようとしているのかは明らかになっていない。彼らは何も語らないからね」
「……ふうん、そうなんだ」
彼らに苦痛だとか残念だとかいう意識があるのか分からないけれども、姑息的に死を逃れても結局は弱肉強食のような世界に行くことになるのか……。
「まあ、ルシェは竜人に憧れなど抱きはしないと思うが、間違っても星鱗など飲むもんじゃない」
「いや、飲みたいとも思ってないけどさ」
「だが、世の中には飲んで竜人になりたいという者は相当数いるのだよ。理由は様々だが、純粋に竜人に憧れて死に瀕してもいないのに飲みたがる変わり者もいる。まあ、かなり高価だから飲みたくても飲めないという場合が多いのだが」
「そうなんだ」
「話を戻すと、星鱗はそういう連中に取ってきてもらうのさ。無料で竜人にしてあげるかわりにね」
へ?
「竜の島に上陸させて?」
「そうだよ。星鱗を飲むと竜人に襲われなくなるのだ。肉が入れ替わっていないと食べる気もしないのか、共食いの対象にもならない。だから沖合で星鱗を飲んでもらって、旅の道具と地図を渡す。あとは先人が整備してくれた道があるから、それを通って星竜のところまで行き、周りに落ちている鱗を拾い集めて帰ってくる。途中で迷って心が竜人になってしまい戻ってこなくなることもあるが、道案内の看板があるから大抵は迷わず帰ってくるね」
星竜というのは誰も見たことがない幻想動物のようなもので、つまり星鱗というのは不死鳥の羽や蓬莱の玉の枝のようなスーパーレアアイテムだと思っていたのだが、随分と即物的なやり方で取ってこられるようだ。
どうりで材料として身近に使われているわけだ。
「じゃあ、その星鱗は無限に取れるわけじゃないんだ」
そんなに簡単に取ってこられるのであれば、もっと安くなっているはずだ。
「そうだね。剥がれ落ちるのは一年に二十枚から五十枚程度だ。星竜も生き物だから落ちる鱗の数がまちまちでね。私のところのような大手の魔導工房には横のつながりがあって、協定を結んで順番で何年かに一度取りに行けることになっているのだが、やはり取れた星鱗の数は重要だ」
「密猟者っていうか、盗掘者っていうか、よくわからないけどそういうのはいないの?」
「この話は業界内では有名だけれど、真似しようと思っても道がどこにあるのか知らないとできないだろう? 海岸から一目で分かる場所にはないからね。本当の秘中の秘は方法ではなく、その道の場所なのだよ」
「なるほど……」
おれがそう言った時、がちゃりとドアが開いた。
「……珍しいな、ネイは寝坊か」
ゲオルグだった。
「昨日は深夜まで根を詰めたようだ」
「そうか」
気がつけばイーリの前の皿は空になっていて、ぬるくなってしまったお茶を飲んでいた。
おれは二人のために湯を沸かし、新しいお茶をティーポットいっぱいに作ると、
「ゲオルグ、はい。作っといたから」
作り置きしておいたサンドイッチの皿をゲオルグの前に置いた。
「ああ、悪いな。助かる」
「うん」
おれは二人の会話を聞きながら、できるだけ早くサンドイッチを食べ、朝の日課に出かけた。








