第015話 大貴族
それから一ヶ月が経った。
「イーリ、ちょっと聞きたいんだけどさ」
朝食の席でルシェが言った。
アリシアは昼前に来るので、朝食は昨晩の作り置きや、すぐに作れる料理で適当に済ませることになっている。
「なんだい?」
「イーリはいつかクシュヴィの森ってところの亡命政権みたいなところに帰るんだよね?」
ルシェは随分と言葉が達者になった。
亡命政権などという難しい言葉も当然のように使いこなしている。
「……うーむ、まあ、いつかはそうなると思う。民は私のことを必要とするだろうからね」
「別に帰らなくてもよくない?」
「そういうわけにはいかない。私は大貴族だからね。貴族の責務というものがある」
ミールーンを構成していたルーミ族の貴族制はかなり特殊で、爵位が二種類しかない。
貴族と大貴族である。
特に貴族の有り様は特殊で、他国では単に貴族とは言わずにミールーン貴族と説明することが多い。
貴族とは、簡単に言えば樹上に土地を持っている者のことで、平民でも自宅を土地込みで購入すれば翌年から貴族になれた。
正確には小さな家も建てられないような猫の額ほどの土地では駄目だったらしいが、そこまではよく知らない。ただ、単に土地を買うといっても結構難しかったようで、貴族は全人口の一割強しかいなかったようだ。とはいえ貴族が人口の一割を占めるというのは普通の国では考えられない比率である。
そんな貴族にどんな特権があったのかというと、ただ土地を持っているだけなので、参政権があること以外はほとんど平民と変わらなかった。ただ、心意気の面で参政権を持っている立派な大人だという誇りのようなものはあったようだ。
他国人にとっては奇異に見える制度だが、ミールーン人はこの制度にたいそう深い愛着を抱いていて、平民に毛の生えたようなものと見くびって「貴族は貴族ではない」などと言われると激怒し、国ぐるみで猛烈に抗議し謝罪を求めることさえあった。しかし一般的な貴族と性質が異なるのも事実なので、他国人はミールーン貴族という別の言葉を作ったわけだ。
ミールーンは母なる大樹に巨大な板のような基盤を何枚も作って栄えていた国で、その基盤には高さ別に階層の区分けがあった。一つの階層の中で最も力を持った大地主の貴族のことを大貴族といい、彼らが全樹会議という議会を形成した。ミールーンの政治を事実上司っていたのは彼らである。
「貴族かあ……うーん」
「私の家はルーミ族に母なる大樹が与えられて以来の大貴族の家系だから、骨の髄まで貴族が染み付いているのさ。国民に求められたら帰って責務を全うするのが貴族だ。国民がいらないというのなら別だけれどね」
「そっかぁ。まぁ、イーリがそうしたいなら仕方がないね」
「うん。こればかりは諦めてもらうしかない。私の生き方だから」
「分かった」
ルシェはそう言うと、
「じゃあ、ゲオルグ、修行しようか」
と、突然ゲオルグに話を振ってきた。
「ああ、そうだな」
「うん。外に行こう」
急かすような響きがあったので、ゲオルグはすぐに靴を履いて外に出た。
◇ ◇ ◇
「ゲオルグって魔王と戦ったんでしょ。どんなだった?」
と、外に出るなりルシェは突然訊いてきた。
「なんだ、魔王と戦うつもりか?」ゲオルグは思わず笑ってしまった。「お前はまだひよっこだ。そんなことを考えるのは十年早いぞ」
「いやさ、イーリって引退するつもりはないみたいじゃん」
「イーリが関係あるのか?」
イーリは政治家を諦めていない。少なくとも、引退したつもりはないようだ。
冷静に考えれば政治家としては終わったと言っていいようなものだが、節々で語る口ぶりを聞いていると、まだやる気でいるように見える。
「じゃあ、魔王軍が今のまま侵攻したらいつか衝突するかもでしょ。そのときイーリが死んだりしたら嫌だから、今のうちに考えとこうと思って」
「そりゃ……なんとも気の早い話だな」
そんな心配をしないでも、クシュヴィの森は魔王軍との前線からは遥か遠くにあるし、ミールーンの軍は祖国が亡びた時に崩壊したのでどの国も援軍を頼んだりしないだろう。
まあ、イーリは大魔術士として一騎当千の戦力なので、イーリ狙いで援軍を頼む可能性はあるが、魔術を自由に使えなくなってしまったことが知れ渡ればその線も消える。
「うん。でも、考えとくのは無駄ではないから」
「まあ、別に話してやるくらいは構わないがな。いつもの山の登り降りが終わったら、休みの間に話してやろう。さっさと行ってこい」
「おっけー」
ルシェはいつも使っている空の背負い袋を背負うと、軽快に階段を降りていった。
筋肉痛に苦しむ時期は過ぎて、やっとこれから体を練り上げるという段階に差し掛かったというところだ。
ゲオルグはもうついていかない。腰に差した一本の山刀と魔術の腕で、野犬程度なら襲われても対処できるだろうと思っている。
一時間もしないうちに、ルシェは体中に汗をかきながら山道を登って現れた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ルシェは息も絶え絶えに、水場に行って水を飲んだ。そのコップに背負い袋に入っている水筒から乳を注いで、もう一杯飲む。
コップをゆすいでから顔を洗うと、ツケで仕入れている食料が入った背負い袋を玄関に置いた。あとは追って通勤してくるアリシアが、適切に仕分けする段取りになっている。
一息ついてゲオルグのところにやってくると、
「ゲオルグ、魔王の話して」
と言った。まだ覚えていたらしい。
「いいぞ、約束だしな。ちなみに、魔王がどう生まれるのかってのは、もう教わったのか?」
「ううん、まだ」
「魔王ってのは魔王族から生まれる。これがまた妙な種族でな。魔境の奥深くでひっそりと暮らしていて、見た目は人間と似てるんだが、死産が特に多くて中々数が増えないらしい。その中から、たまに途轍もない魔力を持った子供が産まれる。それが魔王だ」
「魔境ってなに?」
そこからか。
「色々な魔族が棲んでいるところだ。さすがにおれも深くまで行ったことはないが、それぞれの種族で小さな国みたいなものを作ってるらしいな。魔王がいないときはお互いで争い合っていると聞く」
「ふーん、その中に魔王族がいるんだ? 数が少ないのに、よく滅ぼされずに暮らしていけるね」
「魔王族ってのは大抵魔術が得意なんだよ。魔境の他の種族は基本的に難しい魔術を扱ったりはできないから、そこそこの優位性があるんだろう。あとはまあ、やはり魔族の中でも特殊な地位にあるのかもしれん。魔王が出現したとなったら、魔境の全ての魔族は普段の争いを放り出して、喜々として馳せ参じて従うらしいからな。人間の世界ではそんなことはありえんだろ」
人間の国というのは大抵頑固なものだ。王だの皇帝だのといった存在は、誰かの下について命令を受けるのを良しとしない。
圧倒的な武力を持った国が現れたとしても、過去の怨恨もなにもかも放り出して次の日から服従するというのは、人間の国ではありえないだろう。
「……戦争で屈服させられたわけでもないのに、自発的に従うの? それって、魔族に刷り込まれた本能みたいなもの?」
「どうなんだろうな。本能かは知らないが、戦争をしても意味がないってことで、無駄を省いているのかもしれん」
「戦っても意味がないくらい魔王が強いってこと?」
話が早い。
「ああ。さっきも言ったが、魔王は霊体に含んでいる魔力がとにかく多い。実際に見たイーリは、少なくとも自分の十倍以上はあると言っていた。まあ、お前はイーリの戦いぶりを見ることは多分ないだろうから、あまり参考にはならんと思うがな。あそこまで魔力が大きいと、人間の魔術師と戦うのとはだいぶ勝手が違う」
「どういう魔法を使ってくるの?」
「どういう……というか、使い放題のやりたい放題って感じだな。今代の魔王は炎の魔法が得意で、地面から土を抜き取って溶岩の塊にして敵陣にぶん投げるのが会戦での得意技だ。これだと地面にぶち当たってから溶岩が飛散するから始末が悪い。こちらの魔術師が遠距離で攻撃しようとしても、地面を派手にめくりあげて防御するから意味がない。その地面はそのまま溶岩の塊にして投げてくるしな。魔術の撃ち合いではまず勝負にならん」
イーリとあいつが二人がかりで攻めてもまったく届かなかったのだから、単純に十倍の魔力だから十人分ではないにしろ、大魔術士五人分くらいの能力はあるだろう。
普通の人間の戦争では一騎当千と言われる大魔術師が五人束になってようやく打ち合えるかという相手だ。どう考えても遠距離で勝負になる相手ではない。
「前の時はゲオルグが倒したんだよね? じゃあ、近寄って倒すしかないんだ」
「近寄っても難しい。やつは、近距離だと空気を圧縮した硬い壁のような防護壁を展開する。それ自体の防御力は大したことはないが、戦士が飛びかかると圧縮を解除してちょっとした空気の炸裂を起こすことができる。それが人間くらいなら羽虫のように吹き飛ばす威力でな。それで体勢が崩れたら素早い攻撃魔術の餌食だ。やつの近距離の得意技は熱線で、指先が光ったと思ったらもう貫かれているから避けようがない」
「じゃあ、どうやって勝ったの?」
「前哨戦で戦って生き延びた剣士からイーリが話を聞いて、対応策を考えたんだよ。熱線を曲げる杖を作ってな」
「あー……もしかして、反対側が歪んで見えるようになるやつ?」
ゲオルグは眉をひそめた。
「なんで知ってるんだ?」
「光を曲げるならそれが一番簡単だから」
どうやら頭のいい奴にとっては自明の理のような話だったらしい。
「まあ、そうだな。俺はそいつを使って一瞬だけ不意を突くことができた。だが、大怪我を負わせたところで逃げられた」
「ああ、逃げられたんだ。それは残念だったね」
確かにそうだ。
魔王軍というのは、魔王を殺してしまえばそれで終わりの軍である。代わりはいない。なのに、すんでのところで逃げられてしまった。
あの時もう一歩踏み込んで殺せていれば、今の世界情勢もまったく変わっていただろう。オルメールは魔王禍に晒されることはなかったし、おそらくミールーンも亡びていなかった。思い出すと、今でもあの時に感じた口惜しさ、無念な気持ちが蘇ってくる。
「魔王にも精鋭揃いの側近のような連中がいてな。そいつらが俺を食い止めにかかって……腹から真っ二つにしても、上半身だけで足に組み付いてくるような奴らだ。十人くらいは斬り殺したが、終わった頃にはとっくに逃げられていた」
「じゃあ、倒すのは本当に大変だねえ」
「ああ。魔王は魔術のエキスパートな上に、近接戦闘も相当こなせるからな。おまけに逃げると決めたら脱兎の如く逃げる。間違いなくこの世で一番厄介な相手の一人だろうよ」
「ふーん……」
ルシェは悩ましげに考え込んだ。
対応策を考えているのだろう。
ゲオルグは木刀を振って、ルシェの頭頂部にコンッと当てた。
「いったぁ……なにすんの」
「気が早すぎる。そういう化け物みたいな連中の殺し方を考えるのは、その小さな体を鍛えあげてからにしろ。なにもかも、平均以上に基礎が練り上ってからの話だ」
「うぅん……まぁ、それはそうだけどさ」
「さ、休憩はもういいだろう。始めるぞ。木刀を握れ」
ルシェは素直に木刀を握った。
「行くぞ」
「はい」
ゲオルグは木刀でルシェを叩いていく。
ルシェはそれを避け、あるいは避けられない時は木刀で受け、少しずつ下がる。
少しずつ速度を上げたり下げたりしながら、ゲオルグはルシェの対応力の限界近くで追い詰めていった。
「よし」
庭の端まで歩いたところで、ゲオルグは止めた。
「いくよ」
今度はルシェの番だった。
すばしっこく動きながら、あの手この手を使ってゲオルグに一太刀入れようと剣を振るってくる。
見るからに甘い攻撃には攻撃を被せ、咎めるように剣を強く叩いた。ルシェはそれでも休むことなく挑みかかってくる。
ルシェの最後の剣を絡め取るようにして巻き上げると、木刀がルシェの手から離れて天高く飛んだ。
ぴたりと剣先をルシェの喉元に当てる。
「よし」
と言った時、直上に飛んだ木刀がくるくると回りながらルシェの頭の上に落ちてきたので、弾き飛ばした。
「三十点ってところだな。少し休憩したらもう一度だ」
「はい。ハァハァ……」
点数はなんとなくの印象からつけた適当なものだが、ルシェは悔しそうにしていた。
ゲオルグが感心するような剣を振るってきた時は五十点くらい付けるので、三十点は良くはない点数である。
ルシェは湿った日陰の地面に突き刺さった剣を拾うと、持ち手の部分が土に汚れたので水場に洗いにいき、それからなぜかあらぬ方向へと歩きはじめた。
草の生えた庭を、先程剣を交えながら歩いた部分を辿るように歩いていく。
すると、しゃがみこみ、なにかを拾うとこちらに歩いてきた。
「ゲオルグ、こんなん落ちてたけど」
「……あー」
先程の剣戟の途中で踏みつけでもして違和感があったのだろう。
ルシェが指先でつまんで見せてきたのは、五本に指が分かれたつま先だった。切り飛ばされたのか、さきっぽしかない。
言うまでもなく、ゲオルグ自身が切り落とした竜人のつま先だろう。
ゲオルグが受け取ると、それは硬い陶器のような質感があった。人間の体のような感触ではない。
「もう大分時間が経つが、やはり腐らないんだな」
「そうみたい」
もう一ヶ月以上も経つのに、土汚れはあるが腐乱している様子は全くない。
いかなる動植物の食物にもならないのだろう。虫がたかった様子も、なにかに啄まれたような痕跡もなかった。
切り飛ばした断面についている土を指の腹で拭ってみると、薄っすらと骨のような模様が見え、肉に当たる部分には複雑な組織が浮かんでいた。これで筋肉の代わりになるのだろうか。
断面の部分だけは乾燥に弱いのか、キュッとすぼまるように収縮していて、なにか不気味な呪具のようだった。
「せっかく拾ったんだから、お前が貰っておけ」
ゲオルグはルシェに足先を返した。
「え、いらないんだけど」
ルシェは嫌そうな顔をした。
「こんなもんだが世の中に二つとない珍品だ。好事家に売ったらちょっとした金になるかもしれん。お前は財産といえるものは何一つ持っていないだろ。いつか金に困った時のために、鞄の隅にでも入れておけ」
「……取り返しに来たりしないかな?」
あの時は自分から竜人に話しかけていたのに、なんだかんだ未だに怖いようだ。
「その時は返せばいいだろう。あの時はいきなり襲ってきたが、本来は好戦的な存在ではないからな。世間ではこちらから手を出さなければ何もしてこない変人くらいに思われている奴らだ」
「あんなのを襲う人っているの? 何も持っていなくて物凄く強いのに」
……まあ、それは確かに。
「アレみたいに腰布をつける理性がまだ残っていればいいが、素っ裸のもいるんだ。素っ裸の女が町中を歩いていたら色々あるんだよ」
基本的に人里には近づかないが、移動経路に人里が挟まっていたら連中は迂回したりしない。稀にではあるが人里を通ることもある。
「色々ってなに?」
ルシェの顔は何の色も帯びておらず、純粋に疑問なようだった。
「……まあ、おいおい分かることだ。男なら誰でもな」








