第011話 講義
ゲオルグは居間の小さな椅子に腰掛けながら、麓の村の貸本屋で借りた冒険小説を読みつつ、イーリがルシェに魔術の講義するのを見ていた。
二人は隣同士で机に座り、その対面ではネイが退屈そうに本を読んでいる。
「杖に魔力を流せたと聞いたが」
「うん」
「じゃあ、まずはこれだ」
イーリはルシェの前に一枚の付呪紙を置いて、紙が丸まるのを防ぐために文鎮で止めた。
付呪紙は表面に描かれている回路が断線するのを避けるため、折らずに丸めて保存する。
「地下にいっぱい張ってあったやつ」
「そうだよ。よく覚えていたね」
「うん。なんだか大変なことになったなぁと思ったから」
それはそうだろう。突然あんな部屋に送り込まれたらびっくりするに決まっている。
「これは、魔力の性質を試すための付呪紙だ。ここに手を置いて魔力を少しずつ流してごらん」
「わかった」
ルシェは素直に手を置いた。
付呪紙には、ご丁寧にも真ん中に右手の形を縁取った絵が描いてあり、見るからにここに手を置けと指示している。
魔力が流れ始め、回路から黄色い光が放たれ始めた。
「そうだ。そのまま、少し時間がかかるよ」
「魔術って、この紙に描いてある模様を理解して頭の中でやれば使えるの?」
「それは正しくもあり間違いでもある。よく喩えられるのは、感覚と言葉の関係だね」
イーリはよくよく語られることの多い喩えを持ち出した。
「魔法というのは知識も重要だが、感覚的な部分も同じくらい重要なのだ。ルシェが今、とても美しい夕焼けを見たとしよう。その時の感動というのは、ルシェの心の中にしかない感覚だ。魔導回路というのは、それを他人に言葉や文字で伝えるのと似ている。いくら言葉で”感動するくらい美しい風景だった”と言っても、ルシェの心の中にある感動を丸のまま移植するように他人に分からせることはできないだろう?」
「まあ、そうだね……なんていうか、文学とか詩? みたいな才能が必要になるのかも」
「そうだね。実際、それと似たような才能が必要になるのだが、やはり限界はある。だけど、それが夕焼けの感動ではなく、簡単な算数の筆算のやり方ならどうかな。自分の頭の中の理解を、他人に教えて正確に理解させるというのは、それほど難しいことではないだろう」
「あー、なるほど……理解できたかも。筆算みたいな説明しやすいやつだけ付呪紙にできるんだね。その魔導回路? っていうのを使うのは、ゲオルグの杖なんかも同じなの?」
「そうだよ。複雑さは桁違いだけれどね。あれの中身は……そうだな、この一枚の紙にある回路を、ほんの指先くらいの範囲に縮めている。そうすると線は目に見えないほど細くなるし、その細さで大きな魔力を何度流しても焼けない耐久性を兼ね備えなければいけないから、物凄く希少な素材を使う。付呪紙の方は一度使ったら終わりのものだから、安い鉱物のインクで十分だ。価格差は何万倍とあるね」
「ふーん……そうなんだ」
「それにしても……おかしいな」
イーリは眉をひそめてルシェが手を触れている付呪紙を見ていた。
「そろそろ終わっているはずなのだが」
「これって、どういうものなの?」
「一種の判定道具だ。魔術師には各々得意とする傾向があって……それを調べるためのものだね」
「魔術って、その得意な傾向っていうの以外はできないの?」
「そうじゃないさ。ただ、最初に覚える魔術はそれに従ったほうが――」
イーリがそこまで言ったところで、ようやく付呪紙が反応した。
少しずつ色がまだらになり、だんだんと黒に塗り潰れていく。しばらくすると、バラバラの黒と白が放射状に広がるというよくわからない模様になった。
少し異臭もする。回路が焼けてしまったようだ。
「………」
余程予想外の出来事だったのか、イーリが珍しくびっくりした顔をしていた。
付呪紙の回路が焼けるのは元々そういうものなのでどうでもよいが、模様はなんともおかしな感じだ。
ゲオルグも大昔同じような紙で入門儀式のようなものをやったが、その時は鋭い扇状に淡い草のような色が現れた。おそらく扇が円を作るように配色が並んでいて、得意分野が判明するとその中の一欠だけが発色する仕組みになっているのだろうが、なんだか知らないがルシェの場合は全部の扇が焼けてしまったようだ。
「……ふうむ」とイーリがつぶやく。「まあ、ちょっと上手くいかなかったようだね」
「才能ない?」
ルシェが心配そうに言うと、イーリはルシェの頭を優しく撫でた。
「そんなことはないよ。始めの取っ掛かりになる魔法をどれにするか調べただけだから。気にすることはない」
「じゃあ、どうするの?」
「やりたいことを最初の課題にしようか。ルシェはどんなことをやりたい? 火を出せるようになりたいとか、水を氷にしたいだとか」
「しいていえば、空を飛べるようになりたいかなぁ……」
実に子供らしい願望である。
「ふふっ、空か。無理ではないけれども、最初の課題としてはちょっと難しいかもしれない。すぐにできるものではないが、風の魔術から始めようか?」
「なら、火がいいかも」
「火か。いいよ。世界に現れた最初の魔術師は火術師で、終わりに現れたのは雷術師だったというくらいだ。始めに学ぶにふさわしい術といえる」
「よくわからないけど、おねがいします」
ルシェはなぜか敬語を使った。
「うん、じゃあ……」
イーリは机の上にあった分厚い入門書を開いた。
「ここからが火の章だね。最初のが一番易しい魔法だ。まずは一通り読んでごらん。分からないところがあったら質問しなさい」
「おっけー」
ルシェはそう言うと、本を読み始めた。
さすがにネイから少し文字を教わったくらいでは難しい内容らしく、時折質問を挟みながら、つっかえつっかえ本の頁をめくってゆく。
茶を飲みながら、一時間ほど経っただろうか。
「読み終わったね。それじゃ、やってみようか」
「うん」
「じゃあ、まずは目を瞑って霊体を意識するところからやってみよう」
「おっけー」
ルシェは目を瞑ると、人差し指を出した。
すると、なんの前触れもなく、その人差し指の先から火が生まれた。
「あ、できた」
「えっ!?」
ガタッ、と椅子を倒したのはずっと退屈そうに本を読んでいたはずのネイだった。
驚愕に目を見開いている。
「……?」
ルシェの指には相変わらず自身の魔力が変化した火がぽつんと灯っている。
できるにしても、普通最初は一瞬で消えてしまうものなのだが、ルシェの火は安定していた。目の前で急に椅子が倒れても消えてしまうこともない。
「……ううむ、なるほど。できてしまうか」
普通、どんなに頑張っても二週間くらいはかかるものだ。
ゲオルグの場合、腕利きの術師につきっきりで教えてもらったが、同じような最初等の魔術を使えるようになるまで三週間かかった。
どんな才能の持ち主であっても、さすがに四日くらいはかかるはずだ。テキストを読んですぐに使えるようなものではない。
「霊体の中で発現素子を構築しなければならないはずなのだが、簡単にできてしまったのかい?」
「……本に書いてあったよ」
「発現素子は自分の霊体を変化させて形成するものだ。普通はそこで躓くものだが、霊体を操る術はどこで学んだ?」
やはりどうしても腑に落ちないのだろう。イーリが問い詰めるように訊くと、
「どこで、って……死にもの狂いで頑張ったけど」
ルシェは指先の炎を消した。とても死にもの狂いだったとは思えない涼しい顔をしている。
内心では必死だった的な話だろうか?
「それは前の世界での話かい?」
「なにいってんの? 頭が痛くておかしくなりそうだったとき、ずっとだよ」
そっちか。
「ああ……なるほど」
「元々あった腐った魔力と比べたら、今の魔力はすごく扱いやすいもん」
てっきり頭痛に耐えてるだけかと思ったが、ルシェなりになんとか状況を改善しようと、制御するための努力をしていたらしい。
鉄の塊のような素振り棒を渡され、これくらいみんな振ってるぞと言われて素振り稽古をしていたら、知らぬ間に筋力がついていた……みたいな話だろうか。
しかし、発現素子を作れたといっても、それだけでは魔法というものは現実にあらわれてこない。
ゲオルグの場合は風を動かす魔法を学んだわけだが、その現象を起こすためには、魔力を大気と親和性のある性質に変える素子と、その素子を通した魔力を使って周囲の大気を動かす素子、二つの発現素子を霊体の中に作らなければならなかった。その二つの門を通過させると、言ってみれば機械の歯車が回るようにして魔力が働き、規定の仕事をこなすようになる……という仕組みだ。
その門をいっぺんに大量の魔力が通過できる大容量の門にすると、目の前の敵を吹っ飛ばせるほどの威力になったりする。
もっと難しい、例えば風に干渉して自在に流れを操作できるようにする発現素子を追加すると、局所的に風の刃を作ったり、女性のスカートをめくったりできる魔法になる。
どちらにせよ、一つでも難しい発現素子を二つ以上同時に作らないことには、魔法というのは発動すらしないのだ。
ゲオルグは二つの発現素子を同時に作り、同時に稼働させるという課題に一週間かかった。
そうしてようやっと一つの初等魔法を習得した結果、こんなもん戦闘中にパッと出して使えるかという結論に達し、それ以上学ぶのをやめた。
「ふーむ……なるほど。でも、類まれな才能がなければ最初からできることではないよ。自信を持ちなさい」
ゲオルグに一週間かかったことを、ルシェは数度の練習すら要さず感覚的にできた。
それは頭の良さに由来するものなのか、なにか天性の勘のようなものに由来するものなのかは分からないが、魔術に向いていることだけは確かだ。
「うん」
「さて……じゃあ、まずは一通りこの本をやってみようか」
「どうせ教えてもらうなら、もっと難しいやつがいい。自習できる部分は夜勉強しておくから」
「そうか。なら……あー、ネイ、書斎から”太陽への憧憬”の一巻を持ってきておくれ」
「えっ……」
ネイはなにか傷ついたような表情をしてイーリを見た。
若き天才を目の当たりにした教師というのは、こうなるものなのかもしれない。イーリにしては珍しく、興奮して早口になっている。
「……わ、わかりました」
ネイは椅子を立て直すと、小走りに書斎の部屋へ消えた。
イーリはルシェに夢中で、ネイの様子が見えていなかったようだ。椅子を倒してから、ずっと突っ立っていたことにも気付かなかったらしい。
ネイはすぐに本を抱えて戻ってきた。
「はい……」
と机の上に本を置くと、
「それでは、失礼します」
と言って逃げるように外へ行った。
「……さて、俺も行くとするか。続きをやっていてくれ」
「ううむ……」
イーリは己の短慮を憂うように唸ると、
「頼んだよ、ゲオルグ」
と言った。