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【短編集】恋愛色強め

一目惚れも、ここまでくれば

「初めまして! 突然だけど、君、僕の妃になってくれない?」


「――――――はい?」




 それがこの国の第3王子、アイザック殿下と交わした初めての会話だった。


 サラサラした金の髪に紫色の瞳、人畜無害な柔らかい笑みが印象的な綺麗な人。男女問わず誰もが見惚れ、恋い慕うであろう男性だというのに。



(一体なにがどうしてこんなことになったのか)



 わたしは半ば呆然としながら、アイザック殿下のことを見上げた。



「お待ちください、殿下! その者はわたくしの異母妹――――卑しい血の混じった女ですわ! お恥ずかしい話、父がどこぞの踊り子に手を付けて出来た娘でして、母親と共に屋敷を与えて囲っておりますの。父は異母妹に大層甘く――――こうして貴族や名家の子女ばかりが通うこの学園にまで図々しく入学してしまったのです。

ですから、殿下の結婚相手には全く相応しくないのですわ」



 そう口にするのは、異母姉であるイザベラだ。

 普段は由緒ある伯爵家の令嬢らしく、貴族然とした上品な佇まいをしているのだけど、ことわたしが絡むと、彼女は冷静ではいられなくなる。



(そりゃあそうよね)



 父親が浮気をした挙句、屋敷まで買い与えて入り浸っているのだもの。わたしが彼女の立場だったら嫌に決まっている。


 本当は、異母姉さまと同じ学園に入学する気なんて無かった。出来る限り関わらないよう、視界に入らないように生きていたかった。

 けれど、母と父がそれを許さなかった。



『良い? あなたはいずれ、イザベラに付いて、王宮に上がるのよ』



 それが小さい頃からの母の口癖だった。


 異母姉さまは幼い頃から、ここにいる第3王子、アイザック殿下の妃候補と目されていた。彼女が妃になる時、わたしを召使――――もとい侍女として側に置く――――それこそが母の狙いであり、父に近づいた最大の理由だったりする。




「うーーん、だけど貴族以外の血が卑しいなんて僕には思えないし、半分は君の父親――――伯爵の血が流れているんだろう?」



 けれど、アイザック殿下はそう言って小さく首を傾げる。その瞬間、異母姉さまの頬がカッと紅く染まった。



「僕は王位を継ぐ予定もないし、その内爵位を貰って臣下に下る予定だ。『妃』って変に畏まる必要も無いし、君の妹、礼儀作法も教養も申し分ないように見えるけど」


(いやいや、たった一目見ただけでそんなこと分かる筈無いだろうに……)



 心の中でツッコミを入れつつ、わたしは唇をすぼませる。


 とはいえ、彼の言う通り、わたしには貴族の子女となんら遜色のない教育が施されている。大富豪の父が惜しみなくお金を注いでくれたので、そんじょそこらの貴族よりも余程良い教育を受けているのだ。だけど、そういうことは見た目でわかるものじゃない。


 大体、一国の妃を選ぼうというのに、平民が街で声を掛けるような気軽さで良い筈がない。それなのに、一体なにがどうして、こんなことになったのか――――。



「一目惚れなんだ」



 まるでわたしの疑問に応えるかのように、アイザック殿下はそう言って微笑んだ。彼はわたしの手を握り、ウットリと瞳を細める。



(いやいや、あり得ないでしょ)



 わたしは呆然と殿下を見上げつつ、心の中でため息を吐いた。



***



 その後わたしは、異母姉さまのアシストもあって、すぐにその場から撤退した。あんな荒唐無稽なこと、その場限りの冗談だろうと、そう高を括って。


 しかし、それから数日後。たくさんのプレゼントとともに、殿下から正式に求婚の手紙が届いてしまった。



(どうしよう……)



 血の気の引くような思いを胸に、わたしは届いたプレゼントの山を見つめる。



「よくやったわ、ローラ」



 その時、背後から冷ややかで苛烈な声音が響いた。



「お母様……」


「イザベラの側で情報を収集させるのが最善だと思っていたけれど、まさかあなた自身に妃の打診が来るなんてね」



 そう言って母は狂気に満ちた高笑いをする。



「やったわ……私の手で王家に仕返しが出来るのね! あなたが妃になれば、王家の人間を暗殺するのも容易いことだもの!」


「お母様、それは…………」


「やるのよ! 何のためにあなたを育ててきたと思っているの?」



 ギロリと血走った眼がこちらを睨みつけ、わたしは思わず口を噤む。



 母はかつて、この国に攻め入られ、滅ぼされた国の王女だった。


 王女と言っても妾の子だったので、公には存在を認められておらず、辛くも粛清を逃れ、生きのびることが出来た。しかし、彼女の恨みは凄まじく、この国の王家を激しく憎んでいる。

 だからこそ、名前と身分を偽ってこの国の有力者である父に近づき、かつての仲間達と共に復讐の機会をうかがっているのだ。


 そんな彼女にとって、わたしは復讐のための一駒に過ぎない。


 愛してもいない男――――憎んでいる国の人間との間に出来た娘。正直、視界に入れることすら不快で、腹立たしい存在だったのだろう。


 けれど、彼女はわたしを復讐の手駒にすると決めていた。


 そのために、伯爵には娘のイザベラを妃とするよう働きかけつつ、わたしが侍女として採用されるための根回しをしていたわけだけれど。



(復讐だなんて……わたしは王家に対して何の恨みもないのに)



 日々繰り返される母の恨み言は、半ば洗脳のようなものだった。

 けれど、父からわたしに向けられる愛情は紛れもなく本物だったし、周りの人間も優しく接してくれる。だからこそ、わたしは正気を保ってくることが出来た。


 将来侍女になれたなら、最低限の情報を渡して母を黙らせよう。それに、侍女になれば、少なくとも母の恨み言を毎日聞かずに済む――――そんな風に思っていた。



(それなのに、わたしが妃になって、殿下を暗殺する?)



 そんなこと、出来るわけがない。

 っていうか、わたしが妃になれる筈がない。



「お母様、暗殺などせずともこの国の王家はいずれ滅びます。わたしを妃に指名するなんて、明らかに頭がおかしいですもの」



 求婚された張本人がそんなことを思ってしまうんだもの。周りの人間は尚更そう思っているに決まっている。



「いずれではダメなのよ! 私の目の黒いうちに、憎き王家に風穴を開けてやりたい。反乱因子ありと知らしめてやりたいのよ」



 そう言ってお母様はわたしのことを冷たく睨みつける。


 しかし、彼女の望みが叶うこと――――それはわたしが死ぬことを意味している。

 仮に殿下の暗殺が達成できたとして、無事に逃げおおせる筈がない。そうと分かっていて、この人はわたしに『死ね』と言っているわけだ。



「ーーーー分かったわ」



 ため息を吐きつつも、わたしにはそう返すことしかできなかった。



***



 とはいえ、黙って言うことを聞いてやるつもりはサラサラない。わたしを育てるためのお金は全て父が捻出したものだし、母がわたしに与えたのは『王家を滅ぼすための知識と恨み言』だけ。


 それでも、最低限の望みぐらいは叶えてやろうと思っていたというのに、アイザック殿下のせいで全てがひっくり返ってしまった。



(母のせいで自分が死ぬなんて馬鹿げている)



 だったら、やるべきことはただ一つ――――この婚約を破棄することだ。



 幸い、わたしの目論みを成功させるための道筋は幾つもある。

 わたしとの婚約に反対するものを焚きつけるも良し、妃に相応しくない愚かな振る舞いを見せつけることも、他の令嬢に殿下を誘惑させることだって、幾らでもできる。暗殺なんかよりずっとずっと簡単だ。



 そうと決まれば迷っている暇はない。わたしはすぐに行動に移った。



 求婚の翌日、わたしは殿下に王宮へと呼び出されていた。

 落ち着いた雰囲気の宮殿の一室に二人きり。用意してもらったお茶にもお菓子にも手を付けることができないまま、わたしは殿下をおずおずと見つめた。



「あの……殿下」


「殿下だなんて堅苦しい。アイザックと名前で呼んで欲しいな」



 そう言ってアイザック殿下は穏やかな笑みを浮かべる。人の良い、聖人みたいな優しい笑顔だ。

 まだ二回しか顔を合わせていないというのに、どうしてこんなに警戒心なく、馴れ馴れしくできるのだろう。わたしには彼がちっとも理解できそうにない。



(わたし……やっぱり、この王家は放っておいても滅びると思うわ)



 人の悪意とか、敵意とか、そういうものに全く晒されずに生きているからこそ、こうして簡単に人を信用する。親や他の兄弟たちまでそうなのかは分からないけど、『平和ボケ』しているんじゃないだろうか。そう思えてならなかった。



「――――アイザック殿下はどうして、わたしを妃に?」



 気を取り直して、わたしは本題を切り出す。

 婚約破棄を成し遂げるにはまず、相手の本質を知らなければならない。密かに気合を入れつつ、わたしは身を乗り出した。



「理由ならこの間も話しただろう? 君に一目惚れしたんだ。もしかして、信じていなかったの?」



 そう言ってアイザック殿下は瞳をキラキラと輝かせる。



(信じるわけないじゃありませんか)



 こんな婚約、普通ならあり得ない。裏があるに決まっている。寧ろ信じられる人が居るなら教えて欲しい。

 言葉にせずとも想いは伝わるらしく、殿下はクスクス笑いながら、小さく首を傾げた。



「僕はずっと結婚相手を探していたんだ。そのことはローラも知っている?」


「ええ。異母姉のイザベラがその筆頭候補だと思っておりましたけど」



 初めて殿下にお会いしたのだって、異母姉さまがキッカケだった。


 新しく学園に入学してきたわたしを見つけた異母姉さまが嫌味を言うために近づいてきたその時、彼女と共にアイザック殿下が居た。そうして、脈略も無く唐突に投げ掛けられたのが、冒頭のセリフだったのである。



「そうだね。イザベラも含めて、僕には数人のお妃候補が居たんだ。どの人も美しく、素晴らしい人だけど、どうにも決めかねていてね。

だけど、ローラに出会って気づいた。君こそ、僕が求めていた運命の人なんだって」



 至極真面目な表情のアイザック殿下に、わたしは目を瞬かせる。



(いまどき運命の人って……)



 リアリストのわたしを相手に、この発言は結構きつい。本当はお腹を抱えて笑いたかったけど、必死になって我慢する。

 けれど、アイザック殿下はそんなわたしを余所に、穏やかに目を細めた。



「君のその美しい瞳に目を奪われた」



 そう言ってアイザック殿下は身を乗り出す。



「白い肌も、薔薇色の頬も、愛らしい唇も、ローラの全てが愛おしい」



 小説でも滅多にお目に掛かれないような恥ずかしい言葉の羅列に、わたしは思わず息を呑む。

 気づけば殿下は立ち上がり、わたしの背後に立っていた。



「えっ……ちょっ? 殿…………」


「この柔らかい栗色の髪もそう。どんな宝石でも映えそうな美しさで、君へのプレゼントを見繕うのはとても楽しかった。着けてきてくれたんだね……嬉しいよ」



 アイザック殿下はわたしの耳元でそんなことを囁く。心臓がドッドッと凄い音を立てて鳴り響き、全身から変な汗が流れ出る。



「母が……そうしろと言うものですから」



 だから、わたしが望んでそうしたわけじゃない。そう言外に伝えると、殿下はクスクスと笑い声を上げた。



「それで良いよ。つまり、少なくとも君の家族は僕との婚約を望んでくれているんだろう?」


「それは――――――その通りですけど」



 今、わたしの意思で婚約を破談にしては、後で母からどんな仕打ちを受けるか分からない。

 だから、しばらくの間は流れに身を任せている振りをしなきゃいけないし、殿下にもそうと気取られないようにする必要がある――――そう分かっているのだけど。



「大丈夫。僕はローラを逃す気は無いし」



 そう言って殿下はわたしの手を取り、薬指にそっと口付ける。ビックリするやら恥ずかしいやらで、身体がビクッと跳ねてしまう。



「婚約してくれたら、僕のことを好きになってくれるよう努力する。君をきっと幸せにするよ」



 殿下の言葉はまるで粉砂糖みたいに甘ったるい。

 だけどわたしは、その甘さ故に、そこには絶対裏がある――――そんな風に確信できた。



(この婚約は絶対に、破棄できる)



 心の中でそんなことを思いながら、わたしは「よろしくお願いします」と答えた。



***



 (絶対、反対する人が沢山いると思ったんだけどなぁ)



 想像に反し、わたしと殿下の婚約に異を唱える人間は殆ど居なかった。異母姉さまや、殿下の他の婚約者候補たちが精々で、概ね好意的に受け入れられてしまったのだから驚きである。

 肝心の陛下や妃殿下は、アイザック殿下によく似たホンワカした雰囲気の和やかな人達で、『息子が選んだ人ならば』と、快く婚約を受け入れてしまった。



 かくして、わたしとアイザック殿下の婚約は実にアッサリと結ばれてしまった。



「良かったね、ローラ。これで僕達は正式に婚約者になれた」



 婚約式の後、殿下はわたしの手を握って、ニコニコと嬉しそうに微笑む。



(わたし的には良くないんだけど)



 こんな反乱因子を妃として招き入れるなんて――――平和も過ぎたれば悪というか、王室の間諜たちは一体なにをしているんだろうと思わずにはいられない。



(普通、妃となる人間の身辺調査ぐらいするでしょう?)



 その過程で不適切となるものが大多数だから、婚約者候補にあがることはないし、王子たちとそもそも関わらせはしない――――そんな簡単なカラクリすらも機能していないのだから、割と本気で国の未来を憂いてしまう。



「僕はすごく嬉しいよ」



 そう言ってアイザック殿下はわたしをそっと抱き寄せた。大きな手のひらがわたしの頭を優しく撫で、知らず心臓が小さく高鳴る。



(あっ……)



 だけどそれは、わたしだけじゃなかった。殿下の心臓もトクントクンとハッキリ、大きく刻まれているのが分かる。



「わたしも嬉しいです」


(……って、何を言っているの⁉)



 自分の発言が信じられず、わたしは思わず殿下からそっと顔を背ける。

 けれど、殿下がそれを許さなかった。殿下はわたしの顔をグイッとご自分の方に向けると、大きく目を見開き、それから嬉しそうに口の端を綻ばせる。



「どうしよう……。さっきよりもずっと嬉しくなった」



 まるで今にも泣き出しそうな表情で笑う殿下に、わたしは得も言われぬ感情に襲われる。


 その感情の名を、わたしはまだ知らない。


 憐みでもなく、侮蔑でもなく、思わず手を差し伸べたくなるような心の動き。



(早くこの人をわたしから解放してあげないと)



 そう思う理由が、彼と出会った頃からほんの少しだけ、変わりつつあった。



***



「とんだ身の程知らずが居たものだわ」



 背後から響く金切声に、徐に振り向く。

 アイザック殿下の正式な婚約者となったわたしにこんな言葉を浴びせられるのは、最早学園に一人しか存在しない。異母姉であるイザベラだ。



(義姉さまのことは本当に気の毒だと思う)



 幸せな家庭を、母のせいで壊されてしまった。しかも、彼女はわたしの2歳年上だから、幸せだった頃を知りもしないのだ。


 父は愛情深い人だから、きっと伯爵夫人や異母姉にもわたしに対するのと同じように愛情を注いでいるだろう。だけど、本来なら、母やわたしに向けられた愛情だって彼女達のものだった。そう思っているからこそ、異母姉はわたしのことを忌み嫌うのだ。



(その上わたしがアイザック殿下の婚約者になってしまったのだもの)



 彼女はきっと、わたしのことを殺したいほど憎んでいるに違いない。



(だからこそ、彼女にしかできないことが沢山ある)



 わたしは大袈裟にため息を吐きつつ、蔑むような笑みを浮かべた。



「異母姉さまこそ、いい加減身の程をお知りになったらいかがです? わたしはもう、アイザック殿下の婚約者。あなたよりも格上になりましたのよ?」


「なっ……! あなた、自分がなにを言っているか分かってるの?」



 異母姉は顔を真っ赤にして怒りつつ、わたしのことを睨みつける。



(心配しなくても、ちゃんと分かってますよ……)



 悪女の演技は多分、得意中の得意だ。

 だって、あの母親の恨み言を毎日聞いて育ったのだもの。相手がどんなことを、どんな風に言われたら嫌なのか、それを聞いたうえでどう動くのか、嫌でも予想が出来てしまう。



「やっぱり、今までは猫を被っていたのね!」


「ええ。そうした方が良い殿方を釣りあげられますでしょう? まさか、異母姉さまがずーーっと狙っていらっしゃったアイザック殿下が釣れるとは思ってもみませんでしたけど」


「あなたのその発言、殿下への不敬になるわよ!」



(だから、そうと分かってて言ってるんですって)



 恐らくだけど、わたしの周りには殿下のつけた護衛が付いている。異母姉さまの証言だけじゃ信じてくれないかもしれないけど、別の第三者の証言もあれば話は別だ。こんな性悪女とは結婚できないと、婚約を破棄してくれるかもしれない――――っていうか、普通ならそうすると思う。



「殿下に言いつけてやるんだから!」


「まあ異母姉さま、それは困ります。折角殿下の婚約者になれましたのよ?

だけど、ずーーっと婚約者候補どまりだった異母姉さまと婚約者であるわたし、殿下は一体どちらの言うことを信じるのかしら?」



 その瞬間、異母姉さまはわたしの頬をバチンと叩くと、踵を返して走り出した。頬がじんじんと熱く疼く。



(わたしへの罰はこんなもんじゃ足りないわね)



 どうか異母姉さまの想いがアイザック殿下に届きますように――――そう願わずにはいられなかった。



***



「聞いたよ」


「え?」


「イザベラとの一件」



 それは、異母姉さまを焚きつけた翌日のこと。わたしは殿下から、学園内のガゼボに呼び出されていた。



「全く、君と言う人は…………」



 殿下はそう言って、呆れたように眉を顰める。



(碌に知りもしない人間と婚約した男がよく言うわ)



 小さく軋む胸をそのままに、わたしは憮然とした表情で殿下を睨みつけた。



「どうしてその日のうちに、僕に言ってくれなかったんだ?」



 そう言って殿下は、わたしのことを抱き締めた。



「えっ……? ええ?」


「頬だよ。イザベラに打たれたんだろう?」


「えっ……? 頬、ですか?」



 殿下はわたしの頬をまじまじと見つめながら、心配そうに眉根を寄せた。



「傷は……見る限り残っていないようだけど、まだ痛む?」


「いえ。痛みはありませんけど、殿下――――――あの、もっと他に大事なことがある筈では?」



 わたしの殿下への不敬発言は、性悪女という報告は一体どこへ消えてしまったのだろう。

 けれど、殿下はキョトンと目を丸くしたかと思うと、すぐに柔らかく微笑んだ。



「僕には、ローラ以外に大事なことなんて存在しないよ」



 その瞬間、心臓がドクンと変な音を立てて疼いた。

 当然だろう?とでも言いたげな眼差しが、力強い腕が、わたしを優しく包み込んでくれる。



(何なのよ……ホント、馬鹿じゃないの?)



 そう思うのに、その馬鹿さ加減に惹かれつつある自分に嫌でも気づいてしまう。



「わたし、殿下のことを貶したのですよ?」


「うん、だから?」


「だから? だから、って…………」


「言っただろう? 僕にとってはローラの方が大事だ。だから、不敬だとかそういうことは思わないよ」


「だけどわたし――――――異母姉さまに対して、相当酷いことも言いました」


「だとして、自分に都合の悪いことなら申告する必要ないだろう?」



 そう言って殿下は、わたしのことを幼子をあやすみたいに撫でている。



(酷い。そんな風に言われたら、もう何も言えないじゃない)



 殿下は悪女の側面を知ってなお、それを受け入れると言ってくれている。わたしのことを大事に思うと言ってくれたのだ。



(わたし、どうやったらこの人と婚約破棄できるんだろう?)



 ハッキリと見えていた道筋に、暗雲が立ち込めた心地がした。



***



 とはいえ、わたしは諦めなかった。

 悪女作戦はその後もずっと継続したし、色仕掛け作戦なんかも決行した。

 もっとも、殿下には放っておいても定期的に令嬢方が押し寄せるので、こちらの方は普通にやっても意味がない。



(浮気な方は嫌! とハッキリ言えるだけの状況を作らないと)



 そう考えた時に、変えねばならないのは特攻する方の女性じゃなく、殿下自身だと考え至った。どんなに魅惑的な女性が迫ろうと、情に訴えかけようと、殿下は首を縦に振らない。自分にはローラがいるから、の一点張りだ。

 ならばこちらは、殿下がほんの少しだけ、理性を手放す手助けをすれば良い。


 そんなわけで、裏ルートを駆使し、わたしは媚薬を入手した。



(異母姉さまが殿下と上手くいきますように)



 そんな願いを込めて、わたしは殿下に媚薬入りの紅茶を飲ませる。遅効性って話だから、わたしが居なくなってすぐに異母姉さまを送り込めば、殿下は異母姉さまの虜。既成事実かそれに近しい状況が出来上がっている手筈だった。


 だけど、期待を込めて戻って来てみれば、殿下は飄々とした表情で異母姉さまの誘惑を躱していた。

 もちろん、異母姉さまにわたしの計画を打ち明けたわけじゃない。ボディタッチとか、もっと積極的なアプローチをすれば、結果は変わっていたのかもしれない。



「ローラ! 待っていたよ! 一体何処に行っていたんだ?」



 けれどその瞬間、わたしはハッキリと敗北を悟った。殿下はわたしのことをギュッと力強く抱き締め、嬉しそうにスリスリと頬擦りをする。頬にチュッて湿った感触が走って、わたしは大きく目を見開く。



「でっ……でん…………!」



 気づいたら、異母姉さまがその場から駆け出していた。



(こんな筈じゃなかったのに)



 やることなすこと、全てが裏目に出てしまう。最近のわたしは異母姉さまを傷つけてばかりだ。そもそも存在自体が、気に喰わないだろうに、これでは本当に最悪の悪女じゃないか。



(もう異母姉さまを巻き込むのは止めよう)



 未だ止まない口付けに心臓を高鳴らせつつ、その日わたしはそう誓った。



***



 月日の流れはあっという間で、殿下と異母姉さまは卒業の日を迎えようとしていた。



「婚約者として、一緒に夜会に出席してくれる?」



 殿下からそう尋ねられた時、わたしは嬉しさ半分、悲しさ半分で頷いた。



(きっとこれが、わたしが殿下と過ごせる最後の日になる)



 わたしに残された時間――――結婚まではあと二年。だけど、これ以上はとても耐えられそうにない。

 今以上――――これ以上アイザック殿下を好きになって、その上で彼を殺すなんて、わたしには絶対出来ないから。あんな風に愛されて、優しくされて、わたしが本気になった後で別れるなんて、とても耐えられないから。


 だから、彼とは今すぐ離れなくちゃいけない。


 そのために必要な種はしっかりと蒔いてきた。あとはそれが収穫されるのを待つだけだ。



(さすがに今度ばかりは、アイザック殿下も放っておけないと思うけど)



 それでも不安が完全に拭えたわけではない。殿下はいつも笑顔だから。いつだってわたしの想像を超えてくるから。だから、今回も彼に全てを見破られてしまうのではないか――――ついついそんなことを考えてしまう。



(ダメよ。このまま殿下と結婚したら、わたしは彼を殺さなきゃいけなくなるのよ)



 母の呪縛は日に日に強くなっている。毎日毎日『あいつを殺せ』と言われて、正気を保っていられることが不思議なくらいだ。いつかわたしに乗り移ったあの女が、アイザック殿下を刺し殺すか分からない――――そう思う程、あの人の恨みは苛烈で恐ろしい。



「行こうか、ローラ」



 美しい礼装に身を包んだアイザック殿下がわたしに微笑みかける。



「はい、殿下」



 わたしは何よりもこの人の笑顔を護りたい。だから、この先自分に何が起ころうと、後悔は全くなかった。



「お待ちください、殿下! その女はやはり、殿下に相応しくありません!」



 卒業パーティーの会場を目前に、わたしたちを呼び止めた声音。殿下と共に後を振り向いたわたしは思わず目を見開いた。



「異母姉さま……」



 あれから異母姉は、わたしの企みには関わらせないようにしていた。関わらせたところで碌なことにならない。彼女を傷つけるだけだと知っているから。



「どうしてそんな風に思うんだい?」



 殿下は穏やかに目を細め、異母姉さまのことを見つめている。

 異母姉さまは身体を震わせつつ、ゆっくりと大きく深呼吸をしてからこちらへと向き直った。



「異母妹は殿下の他に、情を通わせている方が複数人いるんです。どれも平民の、つまらない男ばかりですわ!」



 そう言って異母姉さまは殿下へ数枚の紙を手渡す。それは、わたしの行動を数か月分事細かに書き記した報告書に加え、密通相手の姿絵、密会の場所や頻度が書き記されたものだった。



「……すごいね。良くぞこんなに」


「そうでしょう? 本当に……殿下の妃になろうというものが、愚かなことです! 実の妹だというのに、情けなくて堪りませんわ……。

ですから殿下、いい加減目を覚ましてくださいっ! その女は殿下に相応しくありません! 婚約は今すぐ破棄するべきです!」



 異母姉さまはそこまで一気に捲し立てると、真っ赤に染まった顔をわたしへと向けた。彼女の笑みからは、満足感と高揚感がうかがえる。



(思っていた形とは違うけれど)



 これで異母姉さまは満足できたのだろうか――――そう思うと、何とも言えないほろ苦さが胸に広がっていく。


 だけど、少なくともこれでわたしの望みは叶った。


 これでわたし達の婚約は破棄される。今度こそ、全くのお咎めなしという訳にはいくまい。


 どちらにせよ、わたしは母から死んだ方がマシだと思う仕打ちを受けるのだろうけど、そんなことは元々分かっていた。自分と殿下を天秤にかけて、わたしは殿下を選んだ――――ただそれだけのことだ。



「何とか言ったらどうなのよ!」



 異母姉さまはそう言ってわたしのことを睨みつける。

 わたしは殿下の腕に添えていた手を下ろし、彼の前にゆっくりと頭を垂れた。



「異母姉さまの言う通りでございます。わたしはあなたの妃に相応しくありません。どうか、わたし達の婚約を――――――」



 破棄してください――――そう言おうとした。


 だけど、言葉が上手く出てこない。何度口を開いても、それは音になってはくれなかった。



(わたし……わたしは…………)


「僕と結婚したい。

だけど、僕のことは殺したくない――――そうだよね、ローラ」



 その時、アイザック殿下はそう言ってわたしの手を握った。ギュッと固く握られた手のひらから、殿下の温かさが感じられる。わたしは思わず息を呑んだ。



「――――どうしてそのことを?」



 こんなこと、誰にも打ち明けたことは無い。今回のことで協力を依頼した男性たちにだって、肝心なことは何一つ打ち明けてはいなかった。



「王家の仕事の一つに、反乱因子の監視というものがあってね? 君の母親とローラのことは、出会う前から既に知っていたんだ」



 その瞬間、わたしは驚きに目を見開いた。



「じゃあ……初めからわたしを監視するために?」



 いつもニコニコと笑っているから、不穏とは無関係の世界で生きているように見えるから、彼がわたしのことを初めから知っていただなんて、とてもじゃないけど信じられない。



「わたしに一目惚れしたっていうのも嘘だったんですね……!」



 言いながら涙がポロポロと零れ落ちる。

 初めからこの婚約に裏があることなんて分かり切って居た筈なのに、わたしは馬鹿だ。大馬鹿だ。本当に救いようがない。



「ローラ」



 そう言って殿下はわたしのことを抱き締めた。殿下の腕の中はいつもとちっとも変わらず温かくて、わたしは涙が止まらなくなる。



「僕がローラに伝えた言葉に、嘘偽りは一つもないよ?」


「え……?」


「隣国の王族が生き残っている――――その動向を監視しなければならなかったのは本当。だけど、君の母親と接触している人間の中にはこちら側の間諜も混ざっていたし、僕がしなければならなかったのは状況把握だけ。

だけど、出会った瞬間、僕はどうしようもなくローラに惹かれてしまったんだ」



 アイザック殿下は困ったように笑いながら、わたしの顔を覗き込む。



「多分、こういうのは理屈じゃないんだ。僕は出会った瞬間、ローラに惹かれた。好きになった。

ローラはいつだって真っ直ぐで、不器用で、けれど一生懸命で。

母親のことだって、父親にも僕にも、誰にも相談せずに自分の胸に抱えてきただろう? 自分を悪者にして、僕との婚約を破棄して、不幸な人間を減らせるようにずっと頑張って来た。

だけどもう、頑張らなくて良いんだ。ローラは十分、よくやった。後は僕が何とかする。何も心配しなくて良いんだ」



 そう言ってアイザック殿下はわたしのことを抱き締める。胸がキュッて苦しくなって、涙がポロポロと流れ落ちた。



「一体……先程から二人は何の話を…………?」


「イザベラ――――異母妹であるローラを好きになれない君の気持ちは分からなくもない。だけどローラは君のことだって護ろうとしていた。幸せになって欲しいと願っていた。もう少し君が――――いや、互いに歩み寄ることができれば、君達にはもっと違った道があっただろうに」


「殿下⁉ けれど異母妹は…………」


「ローラはね、自分が浮気をしていると僕に思わせるよう、わざと男性たちと密会を重ねていた。君が押さえたのはその証拠だったんだ」



 異母姉さまはその瞬間、目を見開き、それからギュッと唇を噛んだ。彼女の瞳には大粒の涙が溜まり、顔は真っ赤に染まっている。これ以上の言葉は不要だったらしく、異母姉さまは足早にその場を去っていった。



(異母姉さま……)



 どれだけ辛辣な言葉を浴びせられても、妾の子と蔑まれても、わたしは異母姉さまを嫌いではなかった。いつか仲良くなりたいと思っていた。けれど、恐らく今後、わたしの願いが叶うことは無い。



「アイザック殿下――――わたしはやはり、あなたと一緒には……」



 わたしが居ると周りが不幸になる。復讐の一駒であったわたしが、幸せを望むことがそもそも間違っていた。わたしが居なければ、それらは全て異母姉さまのものになっていたのに。



「多分だけど――――もしもローラが生まれていなかったとして、僕がイザベラを選ぶことは無かったと思うよ」



 アイザック殿下は言葉を選びつつ、そんなことを口にした。



「だから、悪いのは全部ローラじゃなくて僕だ。君が抱えている罪悪感は、丸ごと僕に擦り付けて良い。ローラが傷つく必要はないんだ」



 殿下はわたしの気持ちを察して、優しく包み込んでくれる。

 だけど、残った問題は異母姉さまのことだけではない。



「けれどアイザック殿下! わたしはどうやったってあの母親の娘です。怖いとは思いませんか? いつか、わたしがあなたを刺し殺すんじゃないかって、恐ろしくは――――――」


「殺されるのがローラなら、寧ろ本望だよ」



 やっぱりわたしは間違っていなかった。

 殿下は馬鹿だ。大馬鹿者だ。わたしみたいな女に惚れて、身を滅ぼしても良いだなんて、本当に馬鹿げている。



 けれど、そんな彼のことをどうしようもない程愛しく思ってしまう自分が居る。



「大丈夫。もう母親の待つあの家に帰る必要はない。王宮に君の部屋を用意したんだ。この夜会を終えたら、今後はそこが君の帰る場所になる。

それでもいつか、君が僕のことを殺したくなったら、その時はそれで構わない。そうならないよう、全力でローラを幸せにする。君だけを想い続けるよ」



 アイザック殿下を見上げつつ、わたしは思わず唇を綻ばせる。



「どう? 一目惚れも、ここまでくれば立派だろう?」



 いつもとは違う不敵な笑みを浮かべるアイザック殿下に、わたしは今度こそ、お腹を抱えて笑うのだった。

 この度は本作を読んでいただき、ありがとうございました。


 もしもこのお話を気に入っていただけた方は、ブクマや評価(下方☆☆☆☆☆)、感想等でお知らせいただけますと、創作活動のモチベーションに繋がります。


 改めて、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
「殺されるのがローラなら、寧ろ本望だよ」 これ、ローラが殺されるような言い方・・・
[一言] このお花畑王子は一体なんだ…… 異母姉の方がずっとマシだわ ヒロインにもヒーローにも欠片も魅力が無い
2022/02/14 15:13 退会済み
管理
[気になる点] イザベラの不遇具合が半端ない…。 王子に聞きたい。 父親の愛人とその子に優しく出来ないのはそんな悪い事ですかね? [一言] ヒロインには同情も共感もないですね。 他人の気持ちを一切顧み…
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