新婚旅行編 2
「お会いできてよかったわ、先生」
ラファイルさんに微笑みかけ、なにか、親しげな雰囲気を出してくるこの女性。
一瞬でイラッときた。
ラファイルさんにこんなタイプの知り合いなんていなさそうだけど。
オレーシャさんなんかは見た目はこっち系だが、こんな媚びたような態度は取らない。
ていうかこの人、私ガン無視してない?
「……失礼だが、どこかでお会いしましたか」
ラファイルさんの声のトーンが明らかに下がった。
少なくともラファイルさんは知り合いだと認識していないようでほっとした。
「まぁ、先生とわたくしの仲じゃありませんか」
「……は?」
「あら、ごめんなさい、ちょっとした冗談ですわ。
アンジェラ・プロトニコヴァと申します、昨年妹とご挨拶させていただいたのですが……」
「……プロトニコヴァ……」
「イラリヤ・プロトニコヴァの姉ですわ」
「…………
……ああ、イラリヤ嬢の姉上ですか。私は人の顔をあまり覚えていられないので、失礼いたした」
ラファイルさん、あからさまな棒読み……
で、今、名前思い出そうとしてましたよね?忘れてましたよね?
それにしてもこの人、ラファイルさんの一番嫌う冗談吹っ掛けてきたわ。
そんなことを思っていたら、このプロトニコヴァさんという方が身を乗り出すようにして話しかけてきた。
「妹が、ずっと講習を楽しみにしておりましたの。今年は国王陛下のサロンも開かれるから、絶対選ばれるようにと気合を入れて毎日頑張っておりますのよ!」
えー。
それ言っちゃう?
プライベートサロンの話、公言したらまずいんじゃ……
「イラリヤ嬢にはまた学校でお目にかかりましょう。
妻が疲れているようなので、私はこれで……」
ラファイルさんが見事なまでにスルーしようとした、のだが。
「……先生、妻、と仰いましたの?」
「ええ、妻ですが、何か」
「まぁ……結婚なさるおつもりがあったのなら、我が家からもお話をさせていただきましたのに。
妹も今年で16になりますし、そろそろそういう話も、と両親も言っていまして、妹は先生を大層お慕いしているから、打診させていただこうかと思っていましたのよ、あの子はムズィカンスクへの留学や楽団の受験も考えているほどで、ご相談もさせていただきたかったのに……」
何、言ってるの、この人は。
本当かどうか知らないが、妹さんをラファイルさんに宛てがいたかったと言っているのだ。
妻の前でそういうこと言う?
私への当てつけ?
どうしよう、私がここで反論してもいいものなのか。
私を蚊帳の外にしようとしている意図は分かるけど、私はいかんせん瞬時にきれいな皮肉で返せるような機転のきく頭ではない……
「ねぇ先生もご存じでしょう?イラリヤはあの通り愛らしい顔をしているから、まだ16前なのにもう縁談も舞い込むほどで、でも本人は先生に憧れているからとピアノをずっと頑張っていましたのよ。我が家なら伯爵領もありますし、ムズィカンスクより待遇もいいに決まってーー」
「何の話をされているのか、よく分からないのだが。イラリヤ嬢の縁談は私には関係のないことですから、ご本人にとっていいようになさればいいのではないですか。
私たちはもう帰らなければなりませんので、失礼します」
ラファイルさんはそう言い切って、私を促して女性の横を通り過ぎた。
お見事、きれいにぶった切ってくれて私はスカッとした。
ラファイルさんがいつもよりやや早足で、私もドレスにヒールだとちょっときつかったが頑張ってついていき、私たちはあっという間に帰途についたのだった。
***
「……誰だあの女」
「えっ?」
帰り馬車の中で、ラファイルさんが唐突に呟いた。
「知らねーよあんな女……妹と一緒にいたにしても全く覚えてねぇ。
話長いし意味わからんしマジめんどい」
「たしかに、やな感じでしたね……
いや、私が反論していいものか、分からなくて……あの人すごい喋りますね、こっちが何も言わないのに」
あんなに喋ることができるのはある意味才能だと思う。
もっといい使い方がありそうだけどなぁ……
「私より妹さんっていう人の方がラファイルさんにふさわしいみたいな言いようでしたよ、もー聞いてて嫌でした」
「はっ?なんだそれ」
「え?そうでしょう?
結婚するつもりならなんで妹さんを候補に入れてくれなかった、ってことでしょ?
それに妹さんは、縁談が舞い込んでもラファイルさんだけを見てピアノ頑張ってるってことですよ?」
「……なんで候補に入れる必要がある」
「私が知るわけないでしょう」
「縁談が何とかって言ってたな。勝手にすりゃいいのに。俺に何の関係があるんだ」
「だからー、あの人の言い方だと、妹さんとラファイルさんをくっつけたかったってことですよ、聞いてる方はたまったもんじゃないですよ!
……てかそういう内容だって気づいてない?」
「はぁ?そんなこと言ってたのか?
いやマジ何をどうやったらそういう話になるんだよ、大体生徒をそんな目で見れるか、気持ち悪ぃ」
やっぱり気づいてなかった、ラファイルさん……
あの女性の努力(かどうか不明だが)はまったくもって水の泡だった。
残念ながらこの人は鈍いところはとことん鈍いんですよー。
ラファイルさんは少々、マザコンシスコン気味なところがあるから、年上がタイプなのかと思う。私も4つ上だし。
「そもそもあんたじゃなきゃ、同じ家で生活するのも無理だっつーのに、候補もクソもあるか。あんたに会ってなきゃ、多分一生結婚してねぇよ」
「それもそれで不思議ですよねぇ、何で私が大丈夫だったのか」
「最初はほんとに、聞こえてきた音楽が猛烈に気になって、他人が家にいることが気にならなかったんだけどな。あるときふと、あんたが家にいるのが平気だ、って気づいたんだよ。
別に最初からこうなるとは、思ってなかったけど……」
ラファイルさんが、ちらっと私に目を向けてくる。
「……なんか、あんたがいるのが自然だったんだよな」
「光栄です……ほんとに。
でも音楽なかったら、きっと私のこと追い出してましたよね?」
「……否定はできないな」
「でしょうねえ」
「でももう絶対出て行くなよ、もし追い出すような真似しても、絶対居座ってて」
「えー、なんで私追い出されるんですか」
「いやそんなことしたくないけど、……いつだったかあんた、ノーナのとこに出ていっただろ」
「執事さんに勧められただけですよ……」
「あれ結構トラウマ級なんだよ、今でも」
「あれは、ラファイルさんが嫌になったんじゃないから」
「うん……分かっては、いるけど」
私はラファイルさんの首に腕を回して、頭を抱き寄せた。
大丈夫、一緒にいるから。
私は、たまに弱気になるこの人をこうやって受け止めるのが、嫌いじゃない。
普段は楽団員のみなさんや学生さんたちを引っ張って、とても頼りになるしかっこいいこの人が、外では絶対に見せない姿を私に見せてくれるのも、嬉しい。
「マルーセニカ……
帰ったら、抱きたい」
「いいですよ。
……ラーファシュカ、あなたを独占したい」
「独占して。俺はあんただけのだ」
「あなたも。私だけの」
ラファイルさんは全く相手にしなかったから救われたが、あの女性の言葉は聞いていて本当に嫌だったのだ。
何者にも、私とラファイルさんとの間には入ってほしくない。
誰が入り込む隙間もないように、もっと深く、強く繋がりたい。
私も助手として講義について行くから、イラリヤ嬢という生徒さんにも会うことになるだろう。
どんな子かまだ知らないが、ラファイルさんのファンみたいな感じだろうか。
ラファイルさんだったらファンはいくらでもいるだろうことはもちろん理解しているが、私が絶対ラファイルさんの一番のファンでありたいという思いがどうしてもある。
講義に行くのは少しだけ、億劫な気分だ。
…………
…………
それでもラファイルさんに触れていると、そんな憂いも消えていく。
ラファイルさんに求められるのは何よりも嬉しくて、ラファイルさんが私で感じてくれているというのがたまらなく誇らしい気持ちになる。
男性は心が伴わなくてもできるとか聞いたこともあるが、いろいろと敏感なラファイルさんは、握手はまだしもハグだって気を許した人としかできないのだ。
ましてや深い接触は、私以外は気持ち悪くて無理という。
私も、男性嫌いとかではないのだが、一人の人以外に自分を見せるのは絶対嫌だから、ラファイルさんにしかしたくない。
楽器はあれこれしたくなるけど、男は一人でいい。
最近何かの拍子にそんなことを言ったら、ラファイルさんが吹き出して、なぜかそのまま爆笑されたことがある。
えーそんな変なこと言ったかなぁ?と思ってちょっとふててやったところ、ラファイルさんは私に抱きついてきて、俺もそうだ、と言ってくれた。
その晩は当然と言いますか……甘々展開になりますよね……
でもほんとに、男は一生ラファイルさんだけでいい。
ラファイルさんが私じゃないといろいろ無理なのと同じように、私だってラファイルさんじゃないと無理なのだ。
というか、ラファイルさんといるのが、一番の自然体に思えるというのもあるーー体が直に触れ合う時、特にそれを実感する。
この人がすきだ。
ラファイルさんの腕の中で、私はそれだけを感じさせられていくのだ。
***
しかしそれで終わらないのが私たち音楽バカたる本質である。
もう使用人さんたちも寝静まった後、私たちは一階の広間にやってきて、私はピアノの前に座ってラファイルさんはチェロを手にピアノの側に座る、
なぜか私たちは肌を合わせると音まで合わせたくなるのだった。
二人で奏でるのは、『マルーセニカ』。
来週の講義終了後には、国王陛下のサロンでこれをお披露目するから、練習は欠かせない。
二人のハモリフレーズはとにかくミスタッチが許されないから、体に染み込ませ続けなければならない。
プロ駆け出しとでも言える私は、やらない日があると後退しそうで不安になってしまうのだ。
ラファイルさんの降り立つ音に最適な和音を探す訓練だって欠かせない。
和音は、クラシックのように音を決めているわけではないから、私のチョイスが試される。
ラファイルさんが私の和音の上で、快適そうに弾いてくれるのがとても嬉しい。
ラファイルさんの言った通り、私たちは結局一晩中、音を重ねて過ごしたのだった。
夜が明けて爽やかな光が差し込む頃、疲れ切って広間のソファーで二人して寝落ちし、お勤めに起きてきたこちらのお屋敷の使用人さんたちにはびっくりされた。変わった奥さんですいません。




